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愚然先生森君墓 |
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三代友益(1630~1712)の墓で、友益は江戸に出て腹診の研究で名を上げた。
「森氏由緒書」を記した。
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貞松院榮譽凉性大姉 珠勝院姢(娟)顔英玉大姉 |
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「明和五戌子年正月初四日 故愚然室岡本氏墓」とあり、1768年に没した三代友益夫人の墓。 |
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中虚森氏之墓 伏牛森氏之墓 |
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中虚は四代目共之(1669~1746)、伏牛は五代目親徳(1730~1801)で、共之には「意仲玄奥」の著がある。
中虚は「延享三年丙寅■月晦日卒」、伏牛は「享和元年辛酉十一月廿四日卒」とある。 |
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智幼如空童子 天明五乙巳年 四月二十二日
仙繊院活山全應居士 文政四年辛巳年 六月■■日
清光院繋室貞昌大姉 天保戊戌年 閏四月六日
桂山智英童女 天明五乙巳年
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「仙繊院活山全應居士」は立之の養父である六代恭忠(1775~1821)
「清光院繋室貞昌大姉」は、浦賀で没した立之の祖母
「智幼如空童子」「桂山智英童女」は没した年によれば、ともに五代親徳の子かと思われる。
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枳園森立之夀藏碑 |
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「夀藏碑」とあるが森立之(1807~85)の墓であり、左・裏・右面には没する五年前に自ら書いた「枳園森立之夀藏紙碑」をいくぶん縮めた銘文が彫られている。書は門人の岡寛齋による。
立之の実父は、五代親徳の娘・皆(みな)と結婚して立之を挙げた男だったが、この何某は放蕩のため恭忠に離縁されている。その後、立之は六代恭忠の養子となって森氏七代目を継いだ。
立之の実父については、松崎慊堂『慊堂日歴』の天保六年閏七月一日の条に「森養竹号愚然、五雲子に業を受け、(中略)世々仕えざるが、祖父に至り、始めて福山凡そ二世に仕う。小森幸二、之に養子と為す。愚心<小森幸二の僧名か>疾みて去って僧と爲り、今なお其の家と往来す」とあることから、川瀬一馬(『日本書誌学之研究』の著者)は、この小森幸二が立之の実父ではなかったかと推測している。 (大塚恭男『近世漢方医学書集成53 森立之』)
こう考えると、立之の放蕩癖は生父から受け継いだものと思われる。 |
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諸靈■■ |
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「備後福山藩醫森立之男森約之妻諄陽仙台 九月二十五 日病没 七十一法■光定院圓明一陽大姉」とある通り、立之の男約之の室陽(はる)の墓。約之は仙台藩の儒者大槻盤谿(1801~76)の女である陽(はる)と結婚し、鑛(こう)と柳(りゅう)の二女がある。
約之は明治四年に、熟れ鮨にあたって福山で死亡。墓は福山の賢忠寺にあり「文定院斉穆元信居士、明治四年未六月三日、森春雄約之之墓」 とあるという。 |
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