素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

海保漁村 經籍訪古志序を読む・・・注解

 ※1 海保漁村 (1798―1866)

江戸後期の儒学者。名は元備、字は郷老、春農。通称は彦三郎、別名を紀之、漁村は号。寛政十年十一月二十二日、上総国武射郡北清水村(千葉県山武)郡横芝光町に生まれる。初め父について漢文の訓読を習い、千八百二十一年(文政四)江戸に出て太田錦城に入門し、折衷学を学ぶ。一八三〇年(天保一)江戸下谷(東京都台東区で家塾を開き、その書斎を掃葉軒(そうようけん)とよぶ。佐竹壱岐守をはじめ諸侯に招かれたが仕えず、一八五七年(安政四)幕府に登用されて医学館の儒学教授となる。武士以外を教授にした初めての例という。慶応二年九月十八日没、六十九歳。本所の天台宗高竜山普賢寺(現在、東京都府中市に移転)に葬られる。学風は経学を重んじ、初め古注・新注を併用したが、しだいに古注に傾き、自宅を伝経盧(でんけいろ)と名づけた。
<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/海保漁村-42926

※1a  >得
漁村の「得」の使い方には独特のものがあるのではないだろうか。原文は「始可得而誦習焉」で、このまま読めば「始めて得て誦習すべし」だが、この「得」は「手に入れる」という動詞ではない。『漢辞海』(三省堂 漢和辞典)にあるような、反語「どうして~だろうか」の意味を持たせる助動詞でもなく、ちょうどその中間の使い方で、「可誦習」を強調するために文の中に入れてある助動詞と言えば適当なのではないだろうか。
『澀江抽齋墓碣銘』にも「毉之妙處必自讀書中得来、亦必自古書中得来」とあり、これを読んだ当時、私は「毉の妙は必ず自ら讀書中に處し得来(うく)、亦た必ず自ら古書中にあり得来(うく)。」と訓読して、「得」は強い肯定の気持ちを表す助詞、「来」は希望・命令を表す文末助詞と読んだ(いずれも『漢辞海』より)。「来」の使い方もまた独特だが、これは動詞として「得(とく)来(らい)す」と読むこともできない。二例とも、上の「處必自讀書中」「必自古書中」を強調するために置かれている助詞のような字なのである。(「必自古書中」の方は、強調されるべき動詞もないのだが)

※1b 「褰(けん)裳(しょう)の艱」 詩経国風・鄭風
子惠思我  子、恵みて我を思はば 私を愛してくださるなら
褰裳涉溱 裳を褰(かか)げて溱(しん)を渉れ   もすそからげて溱しんの川を渡れ
女が男に対して無理難題を言って困らせている詩であるが、漁村はここから、人のふっかける無理難題を受け入れることを「褰裳の艱」と言っているのではないか。

※2 吉田篁墩 (1745―1798) 江戸末期の考証学の先駆者。名は坦(たん)、字は学儒、のち学生(がくしょう)。通称は坦蔵、雅号は篁墩。代々、水戸徳川家の医官であった。名医の名が高く、三十歳で侍医に抜擢されたが、宿直の夜外診し、その罪により追放された。その後、帰り井上金峨について明清の学を研究した。浅草に塾を開くが、名医として患者が絶えず、研究の暇がないことを嘆いたという。しかし、書の真偽の鑑定に詳しく、名書店の松沢老泉(1769―1822)、英平吉(はなぶさへいきち)(1780―1830)に鑑定を請われ、そのなかの精良な版写本を買い、一時、その蔵書は大坂の木村蒹葭堂(けんかどう)と併称されるほどであった。水戸藩士の立原翠軒と研学を断たず、のち水戸藩に復帰できた。学友にはほかに太田錦城、屋代弘賢らがあった。著書『論語集解攷異』十巻(1791、木活字版)は校勘の名著とされる。<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/吉田篁墩-146170


※3 狩谷掖齋(1775―1835)・狩谷棭斎
江戸後期の国学者。安永四年十二月一日生まれ。江戸・下谷池之端仲町の本屋青裳堂・高橋高敏の子。初名真末(まさやす)。二十五歳、湯島の津軽藩御用商人狩谷家を嗣ぎ、名を望之(もちゆき)と改め、津軽屋三右衛門を称す。棭斎は号(四十一歳隠居後これを通称とする)。別号を求古楼。二十歳ごろから上代の制度の研究を志し、度量衡に関する考証『本朝度量権衡考』(成立年未詳)や、史書の記載を補う金石文を集めて考証した『古京遺文』(1818序成立)などを著す。また、吉田篁墩が提唱した校勘学を継承し、清朝考証学の方法を取り入れて、『日本国現報善悪霊異記考証』(1821刊)、『和名類聚抄箋注』(『箋注倭名類聚抄』とも。1827序成立)など、校勘の分野でとくに優れた業績を残す。また、屋代弘賢らと求古楼展観(貴重書を持ち寄って調査・検討する会)を催し、書誌学の進歩に貢献したほか、書家、古銭など古器物の蒐集家としても知られる。天保六年閏七月四日没。六十一歳。墓碑は東京都豊島区巣鴨の法福寺に現存。<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/狩谷棭斎-47510

※4丹波桂山・多岐元簡
江戸時代の漢方医。「もとやす」とも読み、多紀元悳(げんとく)の長男。字は廉夫(れんぷ)、通称安長、桂山また櫟窓と号し、その書斎を祖先の徳を述べ修むるの意をもって聿修堂と名づけた。博学にして三十六歳で老中松平定信に抜擢れて侍医法眼となり、一七九九年(寛政十一)十一代将軍徳川家斉の侍医御匙となった。一八〇一年(享和一)医官の選考に関してその非を論じたため、上旨に逆らうの罪を得て奥医師を罷免され、百日の閉居を命ぜられた。しかし医学館督事として後進を指導し、考証学派の頂点にたち、名人安長の名を得た。文化七年十二月二日没。著書に『素問識』『霊枢識』『傷寒論輯義』『金匱玉函要略輯義』『脈学輯要』『医賸』『観聚方要補』『救急選方』『櫟窓類抄』『麻疹心得』など。『医略抄』の校刊もある。[矢数道明]
<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/多紀元簡-92864#:~:text=多紀元簡たきげんか,いっしゅうどう)と名づけた。

※5 市野迷庵
1765~1826年 江戸時代中期-後期の儒者。
明和二年二月十日生まれ。市野東谷の孫。家は江戸神田の質屋。黒沢雉岡(ちこう)に学び、市河寛斎、林述斎らと交遊。晩年は松崎慊堂(こうどう)、狩谷棭斎らの影響で朱子学から考証学に転じ、「正平版論語」などの校勘で知られた。文政九年八月十四日死去。六十二歳。名は光彦。字は俊卿。通称は三右衛門。別号に篔窓(うんそう)、酔堂。著作に「詩史顰」「読書指南」など。
<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/市野迷庵-1054584

※6小島寶素
没年:嘉永1.12.7(1849.1.1)
生年:寛政9(1797)
江戸後期の幕府医官。江戸の生まれ。母は前野良沢の娘。名は尚質。字は学古。代々江戸幕府医官を勤め、文化十年(1813)医学館薬調合役。のち番医、奥詰、西丸奥医師、医学館世話役などを歴任。嗣子の尚真(春沂)も学風を継ぎ、多紀元堅に学び、渋江抽斎や森立之らと活動した。当時の書誌学は中国をしのぐ水準に達し、小島父子の旧蔵書の多くはのちに清の外交使・楊守敬の蔵に帰した(台湾故宮博物院蔵)。<参考文献>森鴎外『小島宝素』
<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/市野迷庵-1054584

※7伊澤蘭軒(1777―1829)
江戸後期の医者、儒学者。備後国福山藩医の家に生まれ、名は信恬(のぶさだ)、字は憺甫(たんほ)、通称辞安、蘭軒は号。医学を目黒道琢(1724―1798)、武田叔安(1700―1774)らに、本草を太田大洲(澄元 1721―1795)らに、儒学を泉豊洲(1758―1809)に学んだ。儒学では狩谷棭斎と同門で、ともに書を集め書誌学をよくした。父の跡を継いで福山藩医となり、儒官も兼ねた。門人には渋江抽斎、森枳園(立之)らがいる。森鴎外の史伝小説に『伊沢蘭軒』がある。
<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/伊沢蘭軒-30432

※8 澀江道純・澁江抽齋(1805―1858)
江戸末期の儒医。江戸神田の生まれ。幼名は恒吉、のち全善(かねよし)と改めた。字は道純または子良、抽斎は号である。家は父祖代々弘前藩の藩医を勤め、抽斎も医学を、医者であり儒学者の伊沢蘭軒に師事して修め、家業を継いで弘前藩医となり江戸に住んだ。また儒学を狩谷棭斎、市野迷庵に学び、考証学に通じ、森立之と共著で『経籍訪古志』を著した。この書は中国古典の解題書の白眉とされる。一八四四年(弘化一)官立の医学館講師となり、その後将軍徳川家慶に召されて十五人扶持を給された。医書『素問識小』『霊枢講義』『護痘要法』(1831)などの著書がある。森鴎外(おうがい)の小説『渋江抽斎』は彼の生涯に材をとったものである。
<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/渋江抽斎-74857

※9 森立夫・森枳園(1807―1885)・森立之
江戸後期の医師、考証家。文化四年十一月江戸に生まれる。名は立之、立夫は字である。幼名伊織、枳園(きえん)と号した。祖父恭忠の養子となり、十五歳で家督、医号養竹(四世)を継ぐ。医は家伝のほかに伊沢蘭軒に、詩を館柳湾(1762~1844)に、文字、考証学を狩谷棭斎に学ぶ。福山侯に仕えたが一八三七年(天保八)禄を失い、一八四八年(嘉永一)四十二歳で帰参した。踌寿館、医学館講師。『経籍訪古志』の編纂に従う。明治以後は文部省、大蔵省に出仕、明治十八年十二月六日没。七十八歳。音羽の洞雲寺(その後、東京都豊島区池袋に移転)に葬られる。
<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/森立之-1116041


※10 丹波茝庭(1795―1857)
江戸時代の漢方医。多紀元簡の五男。字は亦柔(えきじゅう)、茝庭(さいてい)また三松(さんしょう)と号した。幼名は綱之進、長じて安叔、のち元堅と改めた。元簡の後は三男の元胤(1789~1827)が継ぎ、元堅は分家して矢ノ倉の多紀家と称した。一八四〇年(天保十一)法印となり、楽真院と称し、一八五三年(嘉永六)楽春院と改め、安政四年二月十四日没。著書は『傷寒広要』『雑病広要』『傷寒論述義』『薬治通義』『時還読我書)』『診病奇侅』など多く、また『備急千金要方』『医心方』などを校刊した。
<日本大百科全書>https://kotobank.jp/word/多紀元堅-18639

※11天祿琳琅
清朝皇室の蔵書のことをいい、主に宋、元、明歷代の善本を収蔵する。[1乾隆代より宮中の內廷藏書は厳格に選ばれ、集められた書物はすべて,紫禁城昭仁殿の書庫に収められた。乾隆九年(1744年)、乾隆帝により「天祿琳琅」と命名され、乾隆四十年(1775年)に『欽定天祿琳琅書目』が整理された。(初編)嘉慶二年(1797年)十月に起った乾清宮の大火により、昭仁殿も延焼に遭い、藏書もすべて灰塵となった。こんにち流伝される『天祿琳琅』は嘉慶年間に再編されたものである。
<維基百科-自由的百科全書>https://zh.wikipedia.org/wiki/天祿琳琅

※12張金吾  (1787~1829)
字は慎旃、またの字として月霄。清の藏書家。祖父は張仁済。清の乾隆五十二年(1787年)生まれ。道光九年(1829年)没。著書に『言旧録』、『愛日精廬藏書志』などがある。
<維基百科-自由的百科全書>https://zh.wikipedia.org/wiki/张金吾


※13『愛日精廬藏書志』三十六巻
『愛日精廬藏書志』三十六巻は、『続志』四巻とともに、清・張金吾が撰した。これは張氏家蔵の藏書中から宋元代の旧本を選んだものの書誌で八百種を録す。鈔刻の時代、校者、藏者の姓氏、輯録してある原書と、序跋・識語などを所載する。清・道光帝代(1821~1850)に刊行された。

※14藤原佐世 (ふじわらのすけよ ?―897)
平安初期の漢学者。式家の種継の曽孫、父は正五位下菅雄。菅原是善(道真の父)に学んだ。八百七十二年(貞観十四年)文章得業生越前大掾(とくぎょうしょうえちぜんだいじょう)であった佐世は鴻臚館に遣わされて渤海使の接待に当った。 八百九十一年(寛平三年)陸奥守とされて奥州へ移り、八百九十七年右大弁に任ぜられて奥州から京へ帰る途中で死去した。従四位下。『日本国見在書目録』は佐世が勅によって撰したもの。
<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/藤原佐世-124636

※15日本国見在書目録
日本に渡来していた漢籍の勅撰の目録。一巻。八百九十一年(寛平三年)ごろの成立。藤原佐世撰。『日本見在書目録』『本朝見在書目録』ともいわれ、最古写本たる室生寺本に「外典書籍目録」とみえるのは、内典に対する漢籍の目録であることを示したものであろう。日本の漢籍目録として最古のもの。当時の漢籍の分類目録で、各書について書名・巻数をあげ、撰者を注する。『隋書経籍志』に従って、易家から惣集家まで四十部門、千五百七十九部、一万六千七百九十巻を収める。現存は抄略本のみ。『続群書類従』所収。

※16藤原通憲
平安後期の貴族で学者としても有名。出家して信西と称す。諸道に優れた博学の人として知られたが家柄が低かったため栄進できず少納言で出家した。千百五十六年(保元一年)に起きた保元の乱では、源義朝の策を入れて天皇方に勝利をもたらし、権勢を得て政治を左右するほどになった。その後、後白河院政になって黒衣姿で辣腕を振るい、近臣の藤原信頼と対立し、平清盛と結んで義朝を疎外した。五十九年(平治一年)に平治の乱が起こると信頼、義朝らの追撃を受けて殺された。彼の学問は幅広く、そのことは『通憲入道蔵書目録』(『群書類従』所収)によってうかがい知ることができる。
<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/藤原通憲-124700

※17  金澤印記本
鎌倉中期、北条実時(金沢実時)によって創設された文庫。従来「かなざわ」といわれてきたが、正しくは「かねさわ」である。武蔵国久良岐郡六浦庄金沢郷(横浜市金沢区金沢町)の居館内に設けられた。第十五代執権となった貞顕の時代がもっともよく充実した。いま、当時の蔵書数を明らかにすることはむずかしいが、蔵書が千字文(せんじもん)によって分類されていたことからすると、相当の量に上ったことは疑いない。蔵書は北条氏一門、あるいは称名寺の学僧たちに利用されたが、その利用については厳しいものがあり、普通いわれているような公開図書館的な施設ではなかった。一三三三年(元弘三・正慶二)鎌倉幕府の崩壊にあい、金沢氏は北条高時とともに滅んだ。以後、金沢文庫は氏寺である称名寺によって管理されたが、寺側も大檀那を失った関係上しだいに衰微し、文庫の蔵書はその時々の権力者によって持ち出された。なかでも徳川家康の移出は多量に上り、現在その文庫本は宮内庁書陵部、国立公文書館などに分蔵されている。
<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/金沢文庫%28かねさわぶんこ%29-1518334

※18 足利學校
下野国足利荘(栃木県足利市)に設けられた学校施設。漢学研修のための施設が、名実ともに学校としての形態を整えたのは、永享年間の初期、関東管領である上杉憲実が易学の大家である快元和尚を鎌倉円覚寺から招いて庠主(しょうしゅ、校長)とし、一四三九年(永享十一)には、当時の貴重書であった宋版の経典を学校に寄進したときであろう。のち、憲忠も父に倣い宋刊本の寄進を行い、ここに有名な足利の宋版『五経註疏』がそろった。すなわち『周易註疏』『尚書正義』『毛詩註疏』『礼記正義』『春秋左伝註疏』である。近年、憲実寄進の宋版『唐書』が発見、寄付されたが、これらはすべて「金沢文庫本」と推定され、いずれも国宝あるいは国の重要文化財として指定されている。学校では易学を中心に漢籍類、兵法書などが講ぜられ、第7代庠主九華(1500―1578)のときには、北条氏政による金沢文庫本の宋版『文選(もんぜん)』(国宝)の寄進と援助により学校は最盛期を迎えた。その後、徳川氏の保護を得て継続されたが、一八七二年(明治五)校務を廃し、学校は蔵書とともに栃木県に引き継がれた。一八七六年足利町に返却、一九〇三年(明治36)足利学校遺蹟(いせき)図書館が開かれ現在に至っている。
<日本大百科全書> https://kotobank.jp/word/足利学校-25205

 


 

 

 

 

 
 
 
 
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