鍼灸師による森立之研究サイト
       

 
     
素問を訓む・ニコス堂鍼灸院
森立之小伝
巨刺は互刺の誤り、メースの解剖学
森立之壽藏碑
森立之の墓域
森立之失禄の真相
森立之・療治奇譚
枳竹鍼房・素問の歴史
海保漁村
ニコス堂鍼灸院
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
   


 

最新のお知らせ

前橋市の小出神社にある石関黒山の墓を訪れました。
黒山は海保漁村の門人で、墓表の文を漁村が撰び字も書いています。この墓では、海保漁村の珍しいよそ行きの字が見られます。

慢性の頭痛でお悩みの方へ
慢性的な頭痛、頭痛薬の使用を止めたいのに止められない人の増加が、社会問題にまでなっています。
扁桃の慢性的炎症や疲労が原因になっている場合が多いようです。病院ではほとんど問題にされませんが、頭痛、頸・肩の凝り・痛みはもちろん、全身の倦怠感、目の諸症状、掌蹠膿胞症、ベル麻痺といった症状の原因になっています。
この五月、私の所属する古典鍼灸学会「青鳳会」で「慢性頭痛に対する鍼灸治療」という題目でこれについて発表しました。講義録をご覧になりたい方は、こちらをご覧ください。< その1 > < その2 >
簡単に概要を知りたい方は、こちらを
(2023.11.11, 11.15の項)
2024.03.03 霊枢・九鍼十二原、小鍼解のほか、霊枢・九鍼十二原に対抗するための素問学派の論拠となった、素問の鍼解篇54、寳命全形論25、八正神明論26、離合眞邪論27、三部九候論20の検証録です。
ニコス堂の訓読会で一年ほどかけて取り上げましたが、この先も少しずつ直しが入ることになると思います。
森立之小伝
2024.01.06 川瀬一馬「日本書誌学の研究」を得て、全面的に書き換えました。 「素問攷注」など学術的な評価は変りませんが、古書を後代に伝えた功績には大きなものがあったことが分りました。
「アトピー性皮膚炎の鍼灸治療」の講義録をアップしました。
5月28日の古典鍼灸青鳳会で行なわれた講義録で、鑱鍼を用いた治療を中心に、鍼灸医学・ 古典中国医学的な知見を広く盛り込むことができました。
素問の「鍼解篇第五十四」の後半は、いわゆる「九数」を用いて九鍼と人の身体・自然現象を対比させて鍼を論じようとする篇です。
当初、終盤の二節は何が書かれているのかさっぱり分りませんでしたが、頭をひねっていると意味も分り、特に最終節には、前節に入るべきだと思われる一条が紛れ込んでいることも判明して、非常にスリリングな篇でした。
2023.02.14 霊枢・九鍼十二原を解説する章に、霊枢・小鍼解とともに、素問・鍼解篇という章があります。今回はこの鍼解篇の検証であります。
付記として「諸注家玩索」という頁を設けました。古来、素問や霊枢には各時代を代表する注釈家が注を付けてきましたが、これはその注文の玩味・読み比べです。素問自体の文が枉(くる)っているため、注家も右往左往する羽目になっており、一読の価値があります。
 
2022.12.01 「徹底検証 九鍼十二原」
霊枢・九鍼十二原第一の徹底検証です。鍼治療というものが、患者の気を扱うものだという、基本中の基本がくり返し述べられており、赤面する思いがあります。
2022.12.19 付記として「私の鍼治療と気」を加えました。
 
2022.02.08 「海保漁村 經籍訪古志序を読む」
「澁江抽齋墓碣銘」に続いての海保漁村の文です。
2022.02.13 「注解ページ」をアップしました。
 
森立之の墓域
2022.01.20
「ニコス堂講座・森立之の生涯」全11回終了
2020年7月に始まったこの講座も、2022年1月をもって終了しました。 途中、緊急事態宣言の間を縫っての開催となりましたが、 最後までお付き合いくださった方々、 本当に有難うございました。
これまでの講座内容
 
森立之の墓域
2021.05.17
2020年・21年に立之の墓参をした成果として、東京の森氏一族の墓を紹介いたします。
 
森立之壽藏碑
2021.04.25 残る右面の未詳1字が判明し、すべて解読できました。
 
森立之失禄の真相
2020.01.14 記事を一段加筆しました


 

 
 

【 森立之 一言で 】

森立之(もり たつゆき、文化4年11月~明治18年12月6日)は、江戸北八丁堀北島町に生れ、東京市京橋区水谷町の自宅で没した。江戸後期から明治にかけて書誌学者、校勘・考証学者、医経の注釈家、医家として活躍した。本人は本草学者をもって任じていたが、医書を中心とした漢学全般に精通していた。字は立夫、はじめ伊織、ついで養真、のち養竹と号し、また枳園とも号した。江戸時代は福山藩の医官であったが、幕府の直轄する江戸医学館(躋壽館)の講師もつとめ、また医学館の行う古医典の校刻事業に従事するなど、江戸幕府の仕事も精力的に勤めた。
明治になってからは不遇の時を過ごしたが、その合い間に清国から訪れた楊守敬といった文人が、中国で失われた古典籍を日本で購入する手助けをするなどし、この際に楊守敬が持ち帰った古典籍は、後の中国における古典研究の基礎となった。

 
森立之・藤浪剛
森立之肖像・藤浪剛一編『医家先哲肖像集』より
 

【 森立之と私 】

私は鍼灸を生業としているので、鍼灸が生まれる元となった素問や霊枢といった、鍼灸の 原典を読まないわけには行きません。こうした書を紐解き、ある程度そこに書いてある内容が分るようになると、その注釈書(研究書)を読んで、さらに深く理解したくなります。素問の原部分が誕生したのは中国の春秋戦国時代と考えられ、それ以来、その研究書は文字どおり汗牛充棟で、中国歴代の研究家が一生をかけて注釈書を書いています。森立之もこの注釈書を書いた一人ですが、一度その「素問攷注」を読むと、その学識の深さ、思考の高邁さ、そして高々とした言説の切れ味に惚れぼれとしてしまいます。素問2500年の歴史の上で、森立之は間違いなく最高峰の一人なのです。
こうした偉人がまるで忘れ去られているという現状が、私は悔しくてなりません。このサイトを創設した理由はここにあります。
子細あって、私は「森立之小伝」と題するシリーズを2019年に完結することができました。このサイトでは、これにつづく私の鍼灸古典医書と、森立之研究の歩みを記録して行こうと思っています。

 
 

【 森鷗外のなかの森立之 】

私の森立之の入口は鷗外の「澀江抽齋」でした。当初は「素問攷注」など読めたものではなく、なんとか下世話に立之や、その親友だった澁江抽齋の人間的なところから近づけないかという下心でした。現在でも立之がもっとも身近に書かれている本は、鷗外の「澀江抽齋」と「伊澤蘭軒」です。

高校時代に恩師から「鷗外を読むなら澀江抽齋だぞ」と言われていたので、その抽齋伝にすら畏怖を抱いていました。後で分ったことですが、「鷗外なら抽齋」と言ったのは永井荷風でした。新聞で連載していた抽齋はあまりに不評だったのですが、それを激賞したのが荷風でした。高校の恩師は荷風の口吻を真似ただけだったのかも知れません。それでも三十を過ぎてから読んだ抽齋伝はすばらしいの一言に盡きました。素問攷注が少し理解できるようになってからは、よくぞこれを書いておいてくれたものだと、鷗外漁史に感謝したものでした。

石川淳は抽齋伝が不評だっことについて、「むつかしい字が使ってあるせいでもなく、はなしがしぶいせいでもなく、努力のきびしさが婦女童幼の知能に適さないからである」と評していますが、これは小説家・文学者の見方です。一般の知能に不適だったせいではなく、やはり話が渋かったせいだと私は思います。 それでも抽齋伝は、豊富に鷗外の脚色がしてあります。

鷗外は抽齋伝のあとに「伊澤蘭軒」を書いています。蘭軒は抽齋と立之の先生で、臨床だけでなく、書物の校勘についても二人に教えています。十七歳で蘭軒の門人となってから、狩谷■(エキ 木+夜)斎・松崎慊堂とも知り合いになり、多紀家の人々とも知り合いになっています。蘭軒は抽齋・立之の全学問の入口となった人でした。

抽齋伝とくらべると、蘭軒伝はずっと文学度・小説度が低くなっています。かわりに考証学度は高いのです。様々な資料をあつめて、伊澤家四代の人々の一生を正確に再現しようという姿勢がつよく見られます。蘭軒伝のなかにも、森立之は多様に描かれており、私はついその姿を信用してしまいそうになるのですが、実のところ、どこまで信用してよいのか、はっきり分りません。富士川英郎の本などを読むと、鷗外の考証にも多々誤りがあるようです(これは致し方ないことだと思いますが)。

「伊澤蘭軒」のあと、鷗外は「北條霞亭」を書きます。これは未完ですが、考証学度については、蘭軒伝とほぼ同程度だと思われます。鷗外は霞亭について書いている途中で、霞亭が書くに値する人ではないのではないか、と疑いを持ってしまいます。悲劇でした。

抽齋、蘭軒を書いたなら、私たちとしては多紀元簡を書くだろうと考えます。元簡だけでなく、元堅を書き安琢までの伝記となったでしょう。実際は、鷗外自身は狩谷■(エキ 木+夜)齊を書くつもりだったと言われています。霞亭を書き、エキ齊を書き、次いで多紀家の人々を書こうと思っていたのでしょうか。しかし、鷗外の命はそれまで保ちませんでした。これも鷗外の悲劇です。鷗外は、霞亭伝未完のまま、大正十一年に腎結核で亡くなりました。

石川淳はこうも書いています。「事の用無用の論は意に介さない。これは他の諸作をも通じて、鷗外が終始執って下らなかった態度である。世評の非難し来るものに対して、ときどき弁明を試みてはいるが、じつは軽蔑をもって報いただけであった」痺れますが、これも作家ならではの評だと思います。
またこうも書いており、これは正鵠を得ていると思います。「作品は校勘学の実演のようでもあり新講談のようでもあるが、さっぱりおもしろくもないしろもので、作者の料簡も同様にえたいが知れないと、世評が内内気にしながら匙を投げていた」

鷗外漁史はいつの間にか、小説を書くことに倦んでしまっていたのではないか。考証家の伝を書きながら、あまりの愉しさに自ら考証家になってしまった観があります。

石川淳「森鷗外」岩波文庫
富士川英郎「鷗外雜志」小澤書店

 

鷗外・立之
島根県津和野町「森鴎外記念館」から