私の森立之の入口は鷗外の「澀江抽齋」でした。当初は「素問攷注」など読めたものではなく、なんとか下世話に立之や、その親友だった澁江抽齋の人間的なところから近づけないかという下心でした。現在でも立之がもっとも身近に書かれている本は、鷗外の「澀江抽齋」と「伊澤蘭軒」です。
高校時代に恩師から「鷗外を読むなら澀江抽齋だぞ」と言われていたので、その抽齋伝にすら畏怖を抱いていました。後で分ったことですが、「鷗外なら抽齋」と言ったのは永井荷風でした。新聞で連載していた抽齋はあまりに不評だったのですが、それを激賞したのが荷風でした。高校の恩師は荷風の口吻を真似ただけだったのかも知れません。それでも三十を過ぎてから読んだ抽齋伝はすばらしいの一言に盡きました。素問攷注が少し理解できるようになってからは、よくぞこれを書いておいてくれたものだと、鷗外漁史に感謝したものでした。
石川淳は抽齋伝が不評だっことについて、「むつかしい字が使ってあるせいでもなく、はなしがしぶいせいでもなく、努力のきびしさが婦女童幼の知能に適さないからである」と評していますが、これは小説家・文学者の見方です。一般の知能に不適だったせいではなく、やはり話が渋かったせいだと私は思います。 それでも抽齋伝は、豊富に鷗外の脚色がしてあります。
鷗外は抽齋伝のあとに「伊澤蘭軒」を書いています。蘭軒は抽齋と立之の先生で、臨床だけでなく、書物の校勘についても二人に教えています。十七歳で蘭軒の門人となってから、狩谷■(エキ 木+夜)斎・松崎慊堂とも知り合いになり、多紀家の人々とも知り合いになっています。蘭軒は抽齋・立之の全学問の入口となった人でした。
抽齋伝とくらべると、蘭軒伝はずっと文学度・小説度が低くなっています。かわりに考証学度は高いのです。様々な資料をあつめて、伊澤家四代の人々の一生を正確に再現しようという姿勢がつよく見られます。蘭軒伝のなかにも、森立之は多様に描かれており、私はついその姿を信用してしまいそうになるのですが、実のところ、どこまで信用してよいのか、はっきり分りません。富士川英郎の本などを読むと、鷗外の考証にも多々誤りがあるようです(これは致し方ないことだと思いますが)。
「伊澤蘭軒」のあと、鷗外は「北條霞亭」を書きます。これは未完ですが、考証学度については、蘭軒伝とほぼ同程度だと思われます。鷗外は霞亭について書いている途中で、霞亭が書くに値する人ではないのではないか、と疑いを持ってしまいます。悲劇でした。
抽齋、蘭軒を書いたなら、私たちとしては多紀元簡を書くだろうと考えます。元簡だけでなく、元堅を書き安琢までの伝記となったでしょう。実際は、鷗外自身は狩谷■(エキ 木+夜)齊を書くつもりだったと言われています。霞亭を書き、エキ齊を書き、次いで多紀家の人々を書こうと思っていたのでしょうか。しかし、鷗外の命はそれまで保ちませんでした。これも鷗外の悲劇です。鷗外は、霞亭伝未完のまま、大正十一年に腎結核で亡くなりました。
石川淳はこうも書いています。「事の用無用の論は意に介さない。これは他の諸作をも通じて、鷗外が終始執って下らなかった態度である。世評の非難し来るものに対して、ときどき弁明を試みてはいるが、じつは軽蔑をもって報いただけであった」痺れますが、これも作家ならではの評だと思います。
またこうも書いており、これは正鵠を得ていると思います。「作品は校勘学の実演のようでもあり新講談のようでもあるが、さっぱりおもしろくもないしろもので、作者の料簡も同様にえたいが知れないと、世評が内内気にしながら匙を投げていた」
鷗外漁史はいつの間にか、小説を書くことに倦んでしまっていたのではないか。考証家の伝を書きながら、あまりの愉しさに自ら考証家になってしまった観があります。
石川淳「森鷗外」岩波文庫
富士川英郎「鷗外雜志」小澤書店 |