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【 森立之 一言で 】森立之(もり たつゆき、文化4年11月~明治18年12月6日)は、江戸北八丁堀北島町に生れ、東京市京橋区水谷町の自宅で没した。江戸後期から明治にかけて書誌学者、校勘・考証学者、医経の注釈家、医家として活躍した。本人は本草学者をもって任じていたが、医書を中心とした漢学全般に精通していた。字は立夫、はじめ伊織、ついで養真、のち養竹と号し、また枳園とも号した。江戸時代は福山藩の医官であったが、幕府の直轄する江戸医学館(躋壽館)の講師もつとめ、また医学館の行う古医典の校刻事業に従事するなど、江戸幕府の仕事も精力的に勤めた。 |
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森立之肖像・藤浪剛一編『医家先哲肖像集』より |
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【 森立之と私 】私は鍼灸を生業としているので、鍼灸が生まれる元となった素問や霊枢といった、鍼灸の
原典を読まないわけには行きません。こうした書を紐解き、ある程度そこに書いてある内容が分るようになると、その注釈書(研究書)を読んで、さらに深く理解したくなります。素問の原部分が誕生したのは中国の春秋戦国時代と考えられ、それ以来、その研究書は文字どおり汗牛充棟で、中国歴代の研究家が一生をかけて注釈書を書いています。森立之もこの注釈書を書いた一人ですが、一度その「素問攷注」を読むと、その学識の深さ、思考の高邁さ、そして高々とした言説の切れ味に惚れぼれとしてしまいます。素問2500年の歴史の上で、森立之は間違いなく最高峰の一人なのです。 |
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【 森鷗外のなかの森立之 】 |
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私の森立之の入口は鷗外の「澀江抽齋」でした。当初は「素問攷注」など読めたものではなく、なんとか下世話に立之や、その親友だった澁江抽齋の人間的なところから近づけないかという下心でした。現在でも立之がもっとも身近に書かれている本は、鷗外の「澀江抽齋」と「伊澤蘭軒」です。 石川淳は抽齋伝が不評だっことについて、「むつかしい字が使ってあるせいでもなく、はなしがしぶいせいでもなく、努力のきびしさが婦女童幼の知能に適さないからである」と評していますが、これは小説家・文学者の見方です。一般の知能に不適だったせいではなく、やはり話が渋かったせいだと私は思います。 それでも抽齋伝は、豊富に鷗外の脚色がしてあります。 鷗外は抽齋伝のあとに「伊澤蘭軒」を書いています。蘭軒は抽齋と立之の先生で、臨床だけでなく、書物の校勘についても二人に教えています。十七歳で蘭軒の門人となってから、狩谷■(エキ 木+夜)斎・松崎慊堂とも知り合いになり、多紀家の人々とも知り合いになっています。蘭軒は抽齋・立之の全学問の入口となった人でした。 「伊澤蘭軒」のあと、鷗外は「北條霞亭」を書きます。これは未完ですが、考証学度については、蘭軒伝とほぼ同程度だと思われます。鷗外は霞亭について書いている途中で、霞亭が書くに値する人ではないのではないか、と疑いを持ってしまいます。悲劇でした。 抽齋、蘭軒を書いたなら、私たちとしては多紀元簡を書くだろうと考えます。元簡だけでなく、元堅を書き安琢までの伝記となったでしょう。実際は、鷗外自身は狩谷■(エキ 木+夜)齊を書くつもりだったと言われています。霞亭を書き、エキ齊を書き、次いで多紀家の人々を書こうと思っていたのでしょうか。しかし、鷗外の命はそれまで保ちませんでした。これも鷗外の悲劇です。鷗外は、霞亭伝未完のまま、大正十一年に腎結核で亡くなりました。 石川淳はこうも書いています。「事の用無用の論は意に介さない。これは他の諸作をも通じて、鷗外が終始執って下らなかった態度である。世評の非難し来るものに対して、ときどき弁明を試みてはいるが、じつは軽蔑をもって報いただけであった」痺れますが、これも作家ならではの評だと思います。 鷗外漁史はいつの間にか、小説を書くことに倦んでしまっていたのではないか。考証家の伝を書きながら、あまりの愉しさに自ら考証家になってしまった観があります。 石川淳「森鷗外」岩波文庫 |
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島根県津和野町「森鴎外記念館」から |
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