素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

海保漁村 經籍訪古志序 を読む

半年前に海保漁村の記した「澁江抽齋墓碣銘」を読みましたが、その精致な文趣に感じるところがあり、またこのような込み入ったことを漢語で書く人がいることにも驚きました。その後、いま少し漁村の文を読みたいと思って探したところ、經籍訪古志に序文を書いていることが分り、読んでみようと思い立った次第です。
こちらは世紀の一大事業にふさわしい、力のこもった文でした。

テキストは『近世漢方医学書集成 53』(名著出版)から取りました。
紺字は読み下し文緑字は注記、です。
を付した長い注の必要なものは、「注解ページ」としてアップしてあります。
「注解ページ」は逐一別ページとして開くようになっているので、煩わしい方は上のリンクから開いてご利用ください。

 

經籍訪古志序・海保漁村※1

 【原文】

 

【読み下し文】

 讀書には必ず其の書の淵源を剖析し、其の最古且つ善なるを擇(えら)びてこれに從ひ、然る後、六蓺、經傳より以て百氏に至って始めて得て※1a誦習す可けんや。 然(しか)らざれば
六蓺…貴族の子弟が学ぶべき六科目。礼・楽・射・御・書・数<周礼・地官・保氏> 六經は詩・書・礼・楽記・易・春秋 
經傳…経書とこれを説明・解釈した書物。「經傳釋詞」十巻は清・王引之による古典中の虚詞(助詞・接続詞)について解説した書物。
得・・・「反語の語気をあらわす副詞、どうして、と訳す」『漢辞海』より※1a

則ち書の流傳は既に久しく、彼此の乖異も定まらざれば、何に由つて能く古人の意を求めむ。言語文字の間に於いては失へる所莫きや、此れ漢儒校讐の學、萬世に渉つて廢る可らざる所以なり。意者(そもそも)書の最古且つ善なるは、固(もと)より世に覯へること罕(まれ)なる所にして、天祿石渠の祕、人間(ジンカン、世間)に覩ることを獲ず、其の僅かに存せるや、名山
天祿石渠…〈釋義〉天禄、石渠は、いずれも漢の宮殿の室名で、肅何が造ったと言われている書庫。賢才を配し、また学者にここで経書の異同を討論させた。後には国家の藏書庫、あるいは学者を喩えて言う。 《品詞文網より》

古刹の間には亦、これに致すに由なく、乃ち唯(ただ)天下の好みの至篤(もっとも情愛が深
致…手に入れる、到達する <毎歳致数百金。毎歳、数百金を手に入れる。方苞・獄中雑記>

い) なり。これを擇ぶの至精にして且つ力有る者は、獨り能く褰裳の艱※1b(無理難題を聞き入れること)、幽討(静かで俗気のない場所を訪ねる、幽探)の勞を憚らず、これを兵火風霜の餘(ひま、余暇)に獲る。是に於いてや、絶えて無く、僅かに有る佳本は、始めて稍稍(ヤヤ、わずかに)人間(じんかん)に傳え得、而して學者は得据して以て彼此の乖異を定めたれば、則ち其れ天下に功有り、後世にもまた偉なるが抑(ごと)し。
我が朝の先達の貴古本を知る者は、蓋し篁墩吉田學生※2を以て首唱と爲し、而して藏書もまた頗る富めり。繼いで起つ者は掖齋狩谷卿雲※3爲りて卿雲は鑒別に尤も甞しく、凡そ其の傳鈔の源委流別と栞(栞は刊の字音で発音する)刻の同異得失の一一を考核(実地に調べる)し、其の然る所以<其の然く以(な)す所>に、故(もと)より明確ならざる靡(な)し。挿架(書物を本棚に置く)もまた極めて富めり。蓋し所謂(いわゆる)好の至篤、擇の至甞にして且つ力ある者か。篁墩には同時に桂山丹波君廉夫※4、卿雲の若き有り、友とする所には則ち又、迷庵市野光彦※5の若き有り、寶素小島君學古※6及び伊澤蘭軒※7の若き有り。相ひ與にその議論を上下し、而も藏書もまた皆な頗る富めり。惜むべし、諸老先生相ひ繼いで道山に歸り、而して收儲(しうちょ)せる所の各種古本は、學者、その面目を髣髴(はうふつ)せんと欲するも得ること可ならず。憾事(カンジ
うらみ)に以爲(おも)わざる莫し。
 卿雲に從ひて游ぶは澀江道純※8、森立夫※9、並びにその指授(伝授)を親受し、鋻識(鑑識)の明を具(つぶ)さに有す。而して茝庭丹波※10君、また柔(親しみやすい)にして、また嘗(つね)に卿雲と交わること最も親しく、深く書の存佚、顯晦(ケンクワイ、はっきりしている事と曖昧な事)の數々有るを慨(なげ)き、則ち今に迨(およ)んで之を收錄し、以て學者に貽(のこ)さしむ。庶幾(こいねが)はくは、以て舊本の面目を見(あら)はすに足らむと。それ亦た諸老先生の志なり。夫れ担に道純、立夫及び小島君抱冲(寶素の長男)を慫慂(ショウヨウ、まわりから勧めはげます)して、目錄を撰成せ俾(し)む。是に於いて相ひ與に舊聞を考据(コウキョ、根拠をあげて証明する=考証)し、經籍訪古志六卷を著(あらは)し爲す。その書の體例(綱領と細則、晋書・李重伝)と乾隆の「天祿琳瑯」※11(清朝皇室の蔵書を指す) の書目、張金吾※12>(1778-1829 清の蔵書家)の「愛日精盧藏書志」※13>とは昆季(昆は兄、季は末で兄弟)の間に在りて、古籍の繁富なると決擇の甞なると且つ確なるは、則ち更に二書の上に遠出せるや、何ぞ其れ偉なる哉。蓋し我邦に傳ふる所の古鈔本は具(つぶ)さに隋唐の舊を存し、眞に宋元人の覩る能はざる所たり。而り巋(キ・高く大きい)然として獨り靈光の存を爲し、此れ絶佳の種たりて、皆な宋元の古本の上に出づ。而り向(さき)の諸老先生者もまた嘗(つね)に力を竭して捜討(調べ求める)し、能く之を兵火風霜の餘に獲たるは、蓋し數(かぞ)えて十百種を下らざるべし。他には宋元板及び朝鮮刊本に至るまで、また徃徃にして明清諸家の睹(覩)るに及ばざる所を爲す。而して各家の儲藏、指を勝げて屈せざれば、則ち是に錄して登載する所の古籍の繁富なることの遠出せる所以や、清人の書目の上なり。
 嗚呼、藤佐世※14の「現在書目」※15 (藤原佐世ふじわらのすけよ による「日本国見在書目録」)より、以て「通憲藏書目」※16> (藤原通憲?~1159による蔵書目)等に至る、收むる所は殃ね皆な散佚、湮滅し復問(ふたたび訪ねる)す可からず、所謂(いわゆる)金澤印記本※17> (金澤文庫の印の記してある書物) も觀むと欲すれど、蓋し既に僅僅なりて晨星の如し(晨星は夜明けの星、まばらである)。即ち足利學※18に藏むる所もまた唯だ千百に於いて什の一(什は十等分、したがって十分の一)存(あ)るに過ぎず。近日に迨(およ)び至り、掖齋、諸家、及び薦紳學士の所藏も、比年(近年、毎年)以來間し(行方が知れなくなる)、また何人の手に歸すを知らざれば、則ち日々後の存佚、聚散は復た當に如何ならむ。此れ好古の君子の惜しむことなく措しみて貍歎を感ずる所なれば、是に由って作る所以を錄す。其れ豈に得已らん哉、抑(ここ)に是を復推し、海内の讀書の士に上す。人人、古本の貴(とうと)ぶ可きを知りて、校讐、冪勘の廢す可からざれば、則ち其れ藉(たと)ひ此れ以って古人の意を言語文字の間に求むるや難からず。余は□(扌+合+廾、 エン)陋寡識、諸老先生の後塵を望むに足(およ)ばざれば、

□(扌+合+廾) エン おおう、窮迫する、苦しむ

是に錄の成るや、また時に寓目を得て、一二竊(ひそ)かにその用力の勤摯なるを嘉(よみ)せむ。而らば學者の校讐冪勘の功に於いて、最も深望有らむ。茲にこれを掲げ、以って佝端に書す。
安政丙辰長夏月      海保元備郷老※1

海保漁村

【解釈文】

ここに解釈の一例を示したが、具体的な意味までは訳出してない言葉がある。たとえば「剖析」「得据」などは現行の言葉に置き換えると、漁村の書こうとしたニュアンスが伝わらなくなってしまうし、「校讐」「鑒別」などは考証学独自の世界の言葉なので、深い語義までは表すことができないからです。

 

 書を読み始めるには、最初に必ずその書の淵源を剖析し、その書の最も古くかつ文と文字に間違いのない善書を擇(えら)ぶべきである。その後に六芸の書、經書とその注釈書、そして数多の子部へと進む。このようにして始めて誦習にとりかかることができる。そうでなければ、書の流傳は長い間に、かれこれの乖異は定まらなくなっており、どうして古人の真意など求め得ようか。言語と文字について失われた所がないのかを求める、ここに漢儒校讐の学問が萬世に渉って廢れさせてはならない所以がある。
 そもそも書の最古かつ善なるものは、固(もと)より世に覯(あがな)うことなどできなくなってしまったものである。天祿や石渠の祕物にして、人間(じんかん、世間)には覩(み)ることもできないもので、その僅かに存るものも、名山や古刹の間にあってはそこに行くこともできない。ただこれに対する情愛が世に至篤である者や、これを見分ける至精の者で、且つその力のある者だけが、獨りふりかかる万難も物ともせず、この幽討の勞を憚らずに、こうした書を兵火風霜の合間に獲ることができるのである。ここに於いて絶無僅有の佳本も、始めて稍かに人間(じんかん)に伝わり、これを學ぼうとする者は得据し、彼此の乖異を定めたのであるから、その天下に功あることは、後世に於いてもまた偉なりと言えるのである。
 我が朝の先達において貴古本を知る者といえば、恐らく篁墩吉田學生が首唱であり、藏書にもまた頗る富んでいた。繼いで起つる者は掖齋狩谷卿雲であり、卿雲は鑒別に尤も精しかった。およそ書物が書写された源委流別と、刊行後の同異と長所短所の一一を考核し、その理由の説明を聞けば、もとより不明確なところがなかった。挿架もまた極めて富(ゆた)かで、思うに書物を好むにおいては最も情愛が深く、擇(えら)ぶにおいては最も精しく、かつ力の有る者か。篁墩には時を同じくして桂山丹波君廉夫という人物があり、卿雲には迷庵市野光彦や、寶素小島君學古、伊澤蘭軒という友がいた。その議論には身分や年齢の上下は関係なく、皆な藏書も頗る富かであった。惜しむべきは篁墩、掖齋といった老先生が相い繼いで道山に歸り、その收儲せる各種古本も、學者がその面目を髣髴せんと欲しても出来なくなってしまったことだ。これを憾事に思わずにはいられない。
 卿雲に学んだのは澀江道純と森立夫であり、二人とも卿雲自身から伝授を受け、古書の鋻識については全てが備わっている。また、茝庭丹波君は柔和な人物で、嘗(つね)に卿雲とは最も親しく交わり、書の存佚、顯晦の数多あることを深く慨いていたので、今に至って『經籍訪古志」という形で收録し、学ぼうとする人達に貽(のこ)したのである。庶幾(ねが)わくは、この訪古志が古書の面影を現すものであることを。それはまた吉田篁墩や狩谷掖齋ら老先生の志でもあった。そして遂に、澀江道純や森立夫、小島抱冲らを励まして、この目録を撰成させたのである。ここに三君は古くから伝えられていることに対して、根拠を上げて考証し、『經籍訪古志』六卷を書き上げたのである。その綱領と細則は、清の乾隆代の『天祿琳瑯書目』、あるいは清の蔵書家の張金吾の『愛日精盧藏書志』と兄弟の仲だと言ってよい。『訪古志』に収録されている書物の繁富であること、またそれを擇んだ理由の精かつ確なることは、さきの二書を遠く凌いでいるのだから、偉大な事業である。
 そもそも我邦に伝えられている古鈔本には、隋唐の舊い姿が残りなく手写されており、これは眞に宋元の人の覩(み)る能わざるものだった。中国本土で失われた古書の数々が、ひとり日本にのみ巋然とした靈光の存をなしている。これは絶佳の種であり、皆な宋元の古本の上位に立つものである。したがって向(さき)の諸老先生も嘗(つね)に力を竭(つく)して捜討し、よくこれを兵火風霜の合間に獲たものは、恐らく數えるに十や百種を下らないだろう。他には(至)宋元板から朝鮮刊本に及ぶまで、また徃徃にして明清諸家の睹(覩)るに及ばざる所までである。わが邦各家の儲藏書物は、勝(あ)げて指を屈することができない(数えられない)ほどなので、ここに記録、登載された古書の繁富なることは、清人の書目の上をはるかに超えている所以である。
 嗚呼、藤原佐世の『現在書目』から『通憲藏書目』等まで、ここに所收されている書物は概ね皆な散佚湮滅して再び問(たず)ねることはできない。いわゆる金澤印記本(金澤文庫の印の記してある書物)を観たくとも、そもそも既に僅かで、晨星(夜明けの星)のごとくまばらにしかない。足利學の所藏も、往時の唯だ十分の一を越えない。近日のことを考えても、掖齋ほか薦紳學士の所藏も、比年(近年)以來は間(かん)し(見えない)また何人の手に歸したか知れないので、今後の存佚、聚散はどうなることだろうか。古(いにしえ)を好(め)でる君子が惜しむことなく惜しんで慨歎を感ずる所以である。よってここに『經籍訪古志』を作った所以を記しておくのである。
 この事業が終わったといえるだろうか。抑(ここ)に再度推敲し、海内の讀書の士に上す。世人は古本の貴ぶべきを知るべきであり、また校讐、點勘も廢るべからざるものであれば、古人の意を言語文字の間に求めることも難しくないのである。私は□(扌+合+廾、 エン)陋寡識であり、篁墩や掖齋諸老先生の後塵を望むに足(およ)ばない者である。よって、この書の成ったことを機に、時には寓目を得て、その力を尽くした編纂の勤摯なるを一、二竊(ひそか)かに嘉(よみ)しよう。そうすることで、これまで學者が校讐點勘を行なってきた深い願いが遂げられるだろう。茲(ここ)に掲げ、以て巻端に書す。
   安政丙辰長(安政三年 1856年)夏月      海保元備郷老識(しる)す

 
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