素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

澁 江 抽 齋 墓 参 記

 
2021.08.07 五弓雪窓「事実文編」を見る機会があり、一部読み間違いがあったので、緑マーカー部分を訂正しました。
 
 

2020年12月9日と2021年2月24日、東京都台東区谷中にある感應寺へ行き、澁江抽齋の墓参方々その墓碣銘に取組むことにしました。この同じ両日に、池袋にある洞雲寺の森立之の墓もおとずれましたが、こちらは苔や石の風化によって字が読みづらくなっており、それに比べれば抽齋の墓銘は読みやすいと言えます。しかしながら、私には慣れない海保漁村の文と小嶋成齋の異字体には難渋しました。
森鷗外の「澀江抽齋」その八には、鷗外もこの感應寺を訪れて香華を手向けたことが記されており、ここには抽齋の遺子について書かれています。また、その五十五には靈樞についての抽齋の考証が述べられているが、これはどうも鷗外が勘違いしているようなことが書いてあります。これら素問と靈樞については末尾に若干の考察を書くことにしました。

 
 

澁 江 道 純 墓 碣 銘 を 読 む

■銘文をPDFと写真で読めるようにしてあります。(小嶋知足(成斎)の書した字は異字体が多く html上では再現できないため、可能な限り原字を再現し、紙に印刷したうえでPDF としてアップしてありますが、それでも私の異字体に関する知識不足のため再現できていない部分もあります )

銘文(原字) PDF 銘文(原字)⇒    
銘文の読み下し PDF 原字⇒ 旧体漢字⇒  
写真版銘文 篆 額 銘 文 1 銘 文 2

■写真版でお分かりのように、この墓碣の5行目と20行目には大きな欠損があり、それぞれ一字が判読不能です。森鷗外が「澀江抽齋」その八に書いているように、この墓銘は福山藩の五弓雪窓が「事實文編」巻七十二に誤脱なく収めているということですが、筆者は未見です。 しかしながら、柴田光彦先生が「近世碑文異同攷 ―伊能忠敬と澁江抽齋墓碑銘について―」(跡見学園女子大学紀要 第三十二号、一九九九年)に、この墓銘を全文写しておられ、これによって補いました。

■写真版はサイズが大きいので、"Office Picture Manager" などの写真編集ソフトで見ると、読みやすいと思います。

 

■ 以下は海保漁村による澁江抽齋の墓銘です。ここでは異字体を現行の旧字体に換えるか、それでも表せない字は組み文字としてあります。

■このページの基となる論考は日本内経医学会『季刊内經』2021年夏号(No.223)に「澁江抽齋墓碣銘を読む」として掲載されたものです。その際に、当会の荒川緑先生に親切かつ多大なご教示を頂きました。先生のご教示がなかったら、この論考は成らなかったと思います。末筆ながら、深く感謝の意を申し上げます。

<>は字の読み、()は簡単な説明

 
《篆額》 抽齋歰江君墓碣銘

上緫海保元備製文 備後小島知足(小嶋尚□〔糸+同から一を去る〕春澳)書し并せて篆額す
嗚呼、其の名を問へば則ち醫也、其の攷古、博渉の力を問へば則ち吾が儒(学問)、猶ほ愧あるがごとし。これに冝きは、尋常醫流の之を目するを以てすべきか、吾が親交する所を以てすれば、唯だ弘前の澁江道純、其れ之に似たり。道純、少<わか>くして學を市野迷庵に受け、長ずるに迨<およ>び復た狩谷棭斎に従ひて遊ぶ。蓋し近今の古學を論ずる者は、老 (市野迷庵と狩谷棭斎)を必ず推す。道純、晨夕にその中に浸灌し、故を以てその學、具<つぶ>さに端緒有り。遂に推して以て醫方を切劘す。冝<むべ>なるかな、その立論ありて、大いに世醫と經庭有るは。世醫、醫事は自<みづから>に心得有りと謂ひて書に關わるを非<そし>る。乃ち或<あるもの>は讀書して之を輓近(このごろ)に求めて足るも、古人既往の迹<あと>を追<さかのぼ>るを用いざりし。道純乃ち謂う、毉の妙は必ず自ら讀書中に處し得<う>来<く>(得・来ともに強い肯定の気持ちを表す助詞)。亦た必ず自ら古書中にあり得<う>来<く>。素問の隂陽結斜の斜字の如き、前人、其の解に難<かたん>ずるも、道純は謂ふ、斜は當に糾字の訛りなるべし。説文「糾瓜瓠結□(糾の旁)」を引き、證と為して云ふ、「結糾」は即ち「結□(糾の旁)」なりと※1。其れ七損八益には玉房秘訣を引きて謂ひ、其の言と王注と付して、洵<まこと>に古来相傳の説を為す※2。靈樞の「精ならざれば則ち人に正當ならず」(靈樞・本神第八)の言も亦た人人に異なれり。道純、「正當」は連文なりと謂ひて、華佗の為せる證を援<ひ>く※3。識者、其の明確なるに服すべし。其の醫方の傳は、之を伊澤蘭軒に得、復た治痘の訣は池田亰水より受く。然るに亦た、未だ敢へて人の為に輕々に治を施さず。毎<つね>に古善夲を徴せよ、古醫經を校せよと謂ひ、以て古醫道を味はえば、吾事畢せり。何ぞ必ずしも屑屑して(あくせくする)、世毉と長を爭はむ乎。故友丹波君茝庭、嘗<つね>に、迷庵棭齋没して、世に能く古夲を鍳別せる者は罕<まれ>なり、唯だ道純及び森立之、獨り能くその真傳の相<かたち>を得たり、と歎く。乃ち相ひ與に謀りて其の經籍訪古志を撰ば使む。余、亦た甞て其の間に寓目して序例を為る。學者、傳錄し、稱<たた>へて少<か>くべからざるの種と為すべし。意者<そもそも>道純の力、居多(大部分を占める)なりき。家に多く古夲を儲け一つとして精善ならざるは莫く、藏せる所の各書、一つとして點校を經ざるは莫し。學者にして考古を欲する者、必ず借觀(借鑑・他人の言動を自己の戒めとする)して正しきを取るべし。性は沉黙寡言にして、遽<にわか>に視るもその長ずる所を見(あらは)さざるが如くあれど、其の人と為りに迨<およ>べば辨證(分析して証明する)する所有り、各々其の益を獲て始めて其の精博に服すと云ふ。
弘化甲辰(一八四四年)、 官命ありて毉經を躋壽舘に講じ、歳々に賞賜有り。嘉永巳酉(一八四九年)始めて謁見を奉ず。
朝見既に又た例なりて廩米を賜る。凡そ舘中分校(手分けして校正すること)の各書、必ず道純を經て再勘し、然る後、定めと為す。著す所は素問識小、靈樞講義、及び雜録若干巻有り、皆家に藏す。道純、諱は全善<かねよし>、抽齋と號す、道純は其の字也。祖(祖父)は夲皓<ほんかう>と曰ひ、考(死んだ父)は允成<ただしげ>と曰ふ。世々、弘前の侍醫為り。妣(はは、死んだ母親)は岩田氏(岩田縫)。其の生れて在るは文化乙丑(文化二年、一八〇五年)十一月八日、以て安政戊午(安政五年、一八五八年)八月廿九日病歿す。年五十有四を得、江戸谷中感應寺に葬らる。三子有りて、長は恒善<つねよし>、尾島氏出(出身の妻、尾島定)先に卒す(死ぬ)、次は優善<やすよし>、岡西氏に出で(岡西徳)、出でて(澁江氏を出て)矢島氏の後(跡取り)と為る。三は成善<しげよし>、山内氏に出ず(山内五百)。一女(長女純いと、この他にも早世した者も含めて五人の女がいた)ありて平野氏に出ず※4。三子皆な余に託され學を受く。越<ここ>に己未(安政六年)、将に石墓を勒<ほ>らんとし、道<の>ぶるに余に文を屬<ことよ>す。鳴呼、吾が親交する所、小島寶素君、丹波茝庭、暁湖の二君、及んで掘川舟庵の如き、數年の間に皆な相継いで道山に歸る。今復た道純の奄歿に遇ひ、筆を執り以て墓石に志さんとす。能く既焉(慨焉・なげく)三歎せざらん乎、遂に其の生平(平生、一生)を節録(要点のみの記録)し併せて銘と為す。銘じて曰く、
醫家を以て毉書を治むるは 儒者の經を治むると一致す。唯だ是れ古者の徴<しるし>とするに足る。何をか問はむ今人に異有るを。 嗟矣乎。   
斯の人しかりして亡く 此の理、其れ誰と與に議らむ
萬延紀元(一八六〇年)、歳次(年まわり、あるいは歳星=木星の次<やどり>)、上章(火の兄の異名)涒灘(太歳が申にある年)  八月廿九日建つ  廣羣鶴刻字す

 

※1
素問・陰陽別論第七に「陰陽結斜、多陰少陽、曰石水、少腹腫」とある。
森立之は「素問攷注」に澀江全善曰くとして以下のように引いているが、これが「素問識小」にある抽齋の叙述だと思われる。
「馬玄臺謂、斜邪同。古通用。呉張諸家並同此義。蓋借邪爲斜正之字、古書往往有之。未見以斜爲邪氣者。按、斜恐糾字之訛。<説文>糾、縄三合也。從糸筆。<後漢書>注、糾、纒結也。結糾、即結聚纒合之謂、於經文似覺穩帖。<説文>又云、筆、相糾繚也。一曰瓜瓠結筆起。結筆與結糾同。亦可以證也」
「馬玄臺謂ふ、斜と邪と同じく、古は通用す。呉(呉昆)張(張介賓)の諸家、並びに同じく此の義なり。蓋し邪を借りて斜の正字と爲せるごときは、古書往往にしてこれ有るも、未だ斜を以て邪氣と爲せるは見ず。按ずるに斜は恐らくは糾字の訛りならむ。<説文>に糾は、縄三合なりとし、糸と筆に從ふ。<後漢書>の注は、糾は纒(まつわりつく)結なりとす。結糾は、即ち結聚纒合の謂なりて、經文に於いては穩帖(=穏当、妥当=妥帖)と覺ゆるに似たり。<説文>に又云ふ、筆は相ひ糾繚(もつれる、繚乱)する也。一に曰く、瓜は瓠結筆起するなりと。結筆と結糾とは同じく、亦た以て證とす可し」

※2
七損八益について素問に述べてあるのは、陰陽應象大論第五であり、そこには王冰の注も付されている。「素問識小」は未見なので、抽齋の注については後学を俟ちたい。森立之「素問攷注」には抽齋注に関する記述はない。
「歧伯曰く能く七損八益を知れば則ち二(陰陽)は調う可し、此れを用いるを知らざれば則ち早く衰うるの節(しるし)なり」
王冰注「用いるとは房色を謂う也。女子は七七を以って天癸の終りと爲し、丈夫は八八を以って天癸の極みと爲す。然り八は益す可しと知れ、七は損(そこな)う可しと知れ。則ち各々氣分に隨いて天眞を修養してその天年を終え、以って百歳に度(わた)らん」
・筆者の七損八益についての小論は「子宮下垂・子宮脱に対する鍼灸治療」の後半部に併載してありますので、こちらをご覧ください

※3 
この抽齋の注釈は「靈樞講義」本神第八にある。これは靈樞の次の条文に注を付したものである。
「肝悲哀動中則傷魂、魂傷則狂忘(妄)不精、不精則不正當人、陰縮而攣縮、兩脅骨不舉、毛悴色夭、死干秋」
抽齋の注は、太素を引いて靈樞について言う。

太素「不精」不畳。「則不正當人」作「不敢正當人」、無「不舉」之「不」字。
善按「不正當人」一句、太素可從、蓋華佗、千金方引外台秘要方同。所謂精彩言語、不與人相主當者、即此義、言其狂妄。諸注「正當」二字屬下文、非是。

これは読み下すと以下のようになる。

太素は「不精」を畳ぜず。「則不正當人」を「不敢正當人」に作る、「不舉」の「不」字は無し。
善按ずるに、「人に正當ならず(人として正しくない)」の一句、太素に從ふべく、蓋し華佗の(千金方に引外台秘要方を引くと同じ)所謂「言語に精彩す」も、人相に與らずして當る(=正しくあること)を主る者なりとは、即ち此の義にして、其の狂妄なるを言うなり。諸注「正當」の二字を、下文に屬せしむるは是ならず。

抽齋は「則不正當人」の「正當」を修辞法の一つである連文であり、「當」は「正」のリズムを補うために付された字であると考えたのである。

この箇所について森鷗外は「澀江抽齋」その五十五にこう書いている。( )内は筆者の補足。
「靈樞の如きも『不精則不正當人言人人異』の文中、抽齋が正當を連文となしたのを(墓誌を記した海保漁村によって)賞してある」
この箇所をふくむ靈樞・本神第八の条文に「言亦人人異」の文字はなく、ここは鷗外が読み誤ったものと見える。

連文…訓詁学の用語で、語を二音節化して安定させるために、ある文字に意味上で関連のある文字を付加させること。
①造車(車を造る) → 造車馬(馬の意味は取らない)
②御寒(寒を御す) → 御寒暑(暑の意味は取らない)
③同義連用・恋愛、労苦 
復詞偏義・一旦緩急あらば、生死を決す(意味としては「一旦急あらば、死を決す」)

※4 森鷗外は以下のように書いている。「平野氏の生んだ女<むすめ>と云ふのは、比良野文藏の女<むすめ>威能<ゐの>が、抽齋の二人目の妻になつて生んだ純<いと>である。勝久さんや終吉さんの亡父脩は此文に載せてないのである」(「澀江抽齋」その八)
抽齋の子すべての名が刻んであるわけではない。勝久は四女陸<くが、母は五百>、終吉の亡父である脩とは抽齋の五男である(母は五百)。抽齋は生涯に四人の妻を持ちその間に七男六女を挙げているが、夭折したもの多く、人となった者は四人の男と三人の女だけだった。

■参考図書
澁江抽齋「靈樞講義」学苑出版 2003年
森立之「素問攷注」学苑出版 2007年
森鷗外「澀江抽齋」筑摩書房・現代日本文學全集 1953年

 
 
 【 解 釈 】
《篆額》
抽齋歰江
  君墓碣銘


  澁江道純墓碣銘
       上緫海保元備製文 備後小島知足書、ならびに篆額
ああ、その上辺だけを言えば医師だが、その攷古、博渉の力に話が及べは、われら儒者も恥ずかしく思う。そのような人物のことを尋常の医師を見る目で見てよいものなのか。私の親交するところでは、ただ弘前の澁江道純だけがこれに近い人物だ。
道純は若くして市野迷庵に經学を学び、成長するに及んでは狩谷棭斎について学んだ。現今の古学を論ずる者達は必ず迷庵と棭斎を推すようだが、道純は朝夕に、この二人にどっぷりと浸ったのであった。その故をもって、彼の学問は豊かなものになり、ついには医術においても学を切り開いた。その古学にもとづいた立論があったので、世間の医師たちとの間に大きな隔たりがあったのも当然なのである。世間の医師は、医事については自分にも体得した知識があるからといって、書物を読む者を誹ったものだ。すなわち、読書も近頃の書物だけに求め、それで足りるとする者があるだけで、古人が古に述べた跡をさかのぼるようなことをしなかった。しかしながら道純が考えたのは、医の妙も必ず読書の中にあるはずであり、また古書の中にあるはずだということである。
素問・陰陽別論の「陰陽結斜」の「斜」字の如く、前人が解釈できなかったものも、道純は「斜」は「糾」の誤りだと、説文の「糾は瓜瓠結丩なり」をその證として、「結糾」は即ち「結丩」だと述べている。「七損八益」についても「玉房秘訣」を引用して述べており、その言と王注とは一致して古来相傳の説をなしている。靈樞・本神にある「精ならざれば則ち人に正當ならず」についての解釈も、また諸人とは異なっていて、道純は「正當」はこの二字はつなげて読む連文だと言い、華佗の千金方に外台秘要方を援(ひ)いた注を證としている。識者は、その明確なるに服すべきである。
その医術は伊澤蘭軒より得、痘瘡の治療術は池田京水に受けたものだが、軽々に人のために治を施すようなことは敢えてしなかった。常々、古善本を手に取れ、古医經を按じながら読め、そうして古医道を味わえば我が事は終りだ、なぜ世間の医師たちといがみ合って技術の長短を争わなければならないものか、と言っていたものだ。故友丹波君茝庭は、迷庵、棭齋が没して三十年このかた、能く古本を鍳別する者はまれで、ただ道純と森立之だけがこれを受け継いでいるのみと、常に歎いていた。そこで三人で謀り、この二人に「經籍訪古志」を編集させたのだ。私もまたその編集中にその序例をいくつか書いたものだが、学問を志す者はこれを写して記録し、称えて欠くべからざるものと銘ずるべきだろう。そもそもこの編集には道純の占める力が大であった。道純は家に多く古本を儲(たくわ)え、一つとして精善ならざるはなく、藏する各書も、一つとして點校を經ざるものがなかったからだ。
学者にして古学を志す者は、必ず借觀(借鑑・他人の言動を自己の戒めとする)して正しきを取らなければならない。道純もその性は沉黙寡言にして、ちょっと見ただけではその長たる所は分らないが、その人と為りが理解できれば、彼の行動も分析・証明することができ、人々は益を獲ることができる。その時に初めて、彼の精博に感服するだろう。
弘化甲辰の年、幕命によって医經を躋壽舘に講ずることになり、歳々に賞賜があった。嘉永巳酉には、始めて将軍に朝見を奉り、ここでまた廩米を例賜されることになった。
およそ躋壽館で手分けして校正する各書は、必ず道純が再度校勘したものを定校とした。道純の著作は「素問識小」「靈樞講義」のほか雑録若干があり、みな澁江家に蔵してある。
道純の諱は全善(かねよし)といい、抽齋と號した、道純は字(あざな)である。祖父は夲皓(ほんかう)といい、考(死んだ父)は允成(ただしげ)という。世々弘前の侍醫で、妣(はは・死んだ母親)は岩田氏(岩田縫ぬい)である。生れは文化乙丑十一月八日、安政戊午八月廿九日に病没した。享年五十と四歳で、江戸谷中感應寺に葬られた。三子があり、長男は恒善(つねよし)、尾島氏から出生し、親より先に死んだ。次男は優善(やすよし)、岡西氏から出生し、澁江家を出て矢島氏の後とりとなった。三男は成善(しげよし)、山内氏(五百)から出生し、澁江家を継いだ。一女(純いと)があり、平野氏からの出生である。男の三子は皆な私に託され經学の教えを受けた。そしてこの己未の年、石墓を勒(ほ)らんとして、私にその碑文を託したのであった。
ああ、わが親交する小島寶素君、丹波茝庭、暁湖(元胤の子元昕)の二君、及び掘川舟庵の如きは、この数年の間に、皆な相継いで道山に歸った。いままた道純の奄没に遭遇し、筆をとって墓石に志すのである。慨焉すること三歎せざるなく、ついにその平生を節録し、あわせてその銘となす。
医家として医書を治めるは、儒者の經を治めるに等しい
ただこれのみが古者の徴(しるし)たるに足る
何をか問わん、今学問を治める者にも何の異なるところもないのだが
ああその人は、しかしながら亡く、この理を誰とともに語るべきか

萬延紀元、歳次は上章、涒灘 八月廿九日建つ  廣羣鶴刻字す

 
澁江抽齋の墓
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  back to toppage