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巨刺2
 
 
 
 
 
 

巨刺に関する考察 1

 

巨刺・繆刺・互刺・メースの解剖学  その1

 

< 巨刺についての概説 >

鍼治療において、左の患部を右の健側で治療するような方法を、「巨刺」と呼んで います。似たような刺法に「繆刺」というのもありますが、どう違うのでしょうか。

巨刺については、まず霊枢・官鍼篇に取り上げられており、≪八に曰く巨刺と。巨刺とは、左は右に取り、右は左に取る≫ とあります。左に病があれば右に取り、右に病があれば左に取る、という刺法です。

巨刺と同じような刺法で、もう一つ「繆刺」というものがありますが、巨刺と繆刺の違いについては素問・繆刺論に次のように明確に論じてあます。

≪今、邪の皮毛に客し、孫絡より入舍し、留り去らざれば、閉塞して通ぜず。經に入るを得ざらば、大絡に流溢して奇病を生ずるなり。それ邪の大絡に客すれば左は右に注ぎ、右は左に注ぎ、上下左右ともに經は相干して四末に於(いた)る。その氣、常に處るなく、經兪に入らず、命づけて繆刺という≫

つまり經脈に入った邪を反対側の經脈上で治療するのが巨刺で、經脈から大絡にあふれたものを、その反対側で經脈と関係なく刺すのが繆刺だということです。これをなぜ繆刺というかについては、右と左を誤って刺す「誤謬」の意だというようなことが言われていますが、島田隆司先生がその「素問講義」のなかで、「繆」字は、瀉血のさいに患部を糸や紐で縛る象形だと述べておられ、卓見と思われます。

またおなじ素問の調經論には下のように述べられており、これは素問派独特の「三部九候診」という脈診をおこなって、異常がなければ繆刺する。左が痛んで、右脈に異常がある場合は、巨刺するとあります。

≪身形に痛み有り九候に病莫ければ則ちこれを繆刺す。痛み左に在りて、右脈病むは、これを巨刺す≫

こうした刺法は左右のみならず、上下をたがえて治療する刺法もあり、霊枢・終始篇に述べられています。

病、上に在れば之を下に取り、病、下に在れば高きに之を取る。病、頭に在れば之を足に取り、病、腰に在れば之を膕(=膝窩)に取る≫

 
 

< 巨刺と互刺 >


鍼治療の刺法で、右手に痛みがあるとき、左手の同じ場所に鍼を刺して治す刺法があって、これを「巨刺(こし)」といいます。左右反対の場所に鍼をして痛みが止まるのか、という疑問もあるでしょうが、これは自分で鍼治療をはじめてみると、反対側に鍼を刺せば治るのではないかという予感がしてくるもので、実際に治ります。人間の無意識の中に、そういう予感のような、体の構造に対する信頼感があるようなのです。
問題は、その刺法になぜ「巨刺」という名がついているかで、これはまったく理解不能です。私の敬愛する森立之は、こんなことを言っています。(「素問攷注」繆刺論六十三の眉=メモ)
周礼という中国の古い書物の中に、「修閭氏の掌比(しょうひ)という男は、城中の宿舎に駐する『互なる守衛』で、粥を煮ては人にふるまい、盗人を捕らえては罰した」という文章がある。ここで分らないのは「互なる」というところだが、それについては司農(しのう)という学者の、「互という字は巨の書き間違いだ」という注釈がある。それなら、「巨体の守衛」ということで意味が通じる。ひるがえって「巨刺」も左右のお互いを剌す、という意味で「互刺」なのではないか、と。
しかし、「巨」と「互」をなぜ書き間違えたのでしょうか。くだんの周礼という書物の書かれた時代の両文字を比べてみると下の写真のようになり、間違えやすい字形です。「巨」と「互」の取り違えの原因はここにあったようです。
ただ、周代の字形について森先生が知っていたかというと、恐らくは知っていなかったでしょう。知っていれば、書き写したに相違ありません。写真のような文字は金文(きんぶん)といって、これが本式に研究され始めたのは、清代の終り、日本では明治の代で、すでに森立之(1807~1885)は亡くなっていました。立之は若い頃に読んだ周礼にあった、ほんの一つの注釈を元に「巨刺」が「互刺」の誤りであることを証明してみせたのです。
 
巨刺と互刺   巨刺と互刺
 
 
 
 
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