素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

枳園森立之壽蔵碑

2021.04.26 残る右面の未詳1字が判明し、すべて解読できました。
2021.03.07 未詳字の判読ができ、残る未詳字は右面6行目の一字のみ。
2020.01.14 墓の左右面の銘文を加えて改稿しました。

 

 森立之の墓は現在は豊島区池袋の洞雲寺にある。禅宗の一派である黄檗宗の寺だが、立之が亡くなった明治18年当時は音羽にあり、大正2年に池袋に移転した。

「素問攷注」を読みはじめて5年ばかりたった頃だろうか、一度は墓に参ろうと思い立って訪ねた。花も持参せず、線香だけを上げての墓参だった。この時、墓の裏面に彫られている銘文を読んだが、この「枳竹鍼房」を開設したことで、令和2年12月9日に再訪した。
初回には気づかなかったが、「枳園森立之壽蔵碑」と刻まれている墓石には裏面だけでなく、左右面にも銘文が彫られている。これは立之自ら生前に記した「枳園森立之壽蔵紙碑」⇒という、紙に書いた墓銘様の文の一部を、岡寛齋(岡西養玄)が書き直したものである。岡寛齋は改名前は岡西養玄と名乗り、岡西玄亭の子である。玄亭は伊澤蘭軒の門人、養玄は伊澤榛軒の門人で、この縁で立之と同門になった。

「枳園森立之壽蔵紙碑」は、立之が七十五歳のとき(明治14年)に自撰した文字で、没後四十九日の法要に(没年は明治18年12月6日、79歳)、故人である息子約之の娘である鐄(こう)の跋文⇒が追加されて、人や弟子に配られたということである。諡号は、長寿院訪古枳園居士。
今回、立之の墓の銘文を読んだが、墓石が磨滅したり、苔が蒸すなどして判読不明の文字もあった。加えて洞雲寺には立之のみならず、森氏一族の墓もあるようなので、再度訪れたいと思っている。

なおこの洞雲寺では、昭和61年に立之の没後100年を記念した法要が営まれ、小曽戸洋先生が記念の講演を行なっている。小曽戸先生は昭和53年より国立国会図書館で森立之の手抄本の研究にあたり、昭和60年に立之自筆稿本「素問攷注」4巻を影印本として発刊、平成9年に活字翻刻本として刊行された。立之研究は、その死後も細い流れとしては存在していたが、世に広めたという意味において、小曽戸先生は森立之の再発見者と言い得る人である。

 
 

 

森立之の墓

 

「枳園森立之壽蔵碑」と記されているが墓石である。彫られている銘文は次のようなものである。

左面1行目■は欠損して判読不能の字。

左面
1 立之字立夫□(号+乕)枳園。文化四年生干江戸八䆑伊織後攺(改)
2 養真父為福山候醫貟。文政四年喪父。時年十五養父名攺(改)
3 稚養竹又以醫仕。天保八年有故失禄。携祖母慈母及妻子
4 遊乎相模。祖母在浦賀而殁。遂𠪱大磯大山日向而至干津
5 久井縣。此間十二年辛苦不可勝言。然樂亦在其中何者、半
6 儒半毉居則以教授為業。能讀竒書好聴異聞出則手握刀
7 圭。無論内外二科或為收生或整骨請治者莫不施術者。

  森立之墓  
   

 

裏面
實事求是頗多發明。又入山采藥下溪釣魚。有桂川詩集、遊
相医話。其行樂中、有裨益於正名學者一々筆録以備後攷、既
及一百餘巻。其他本草經、素、霊、四時經、傷寒、金匱、扁鵲傳、奇
疾法、並為攷注。弘化五年五月遭本藩赦、再来江戸。十月奉幕
府命、校勘千金方於醫學館。功竣、賜銀若干。嘉永七年擢為醫
學館講師。安政五年十二月初謁将軍徳川家㝎公。蔓延元年
九月以醫心方校刻成、又賜銀錠。元治元年以學館講書功勞、
賜月俸。慶應四年七月移居干福山。明治五年五月入東京、補
文部省十等出仕。後、或入毉學校為編書、或入工学寮為講弁。

  森立之墓銘  
   
〔 墓銘は写真の都合上、ふたつに分割して掲載せざるを得なかったため、上の写真から繋がる下の写真の文字に、同ナンバーを付してあります 〕

 

右面
1 十二年十二月應大蔵省撰、入印刷局以編輯為務、不知老
2 之將至。殆作金馬門之想、詩以代銘曰
3   萬巻架書不識貧    堪欣恩澤及微臣 
4   花前月下存餘樂    杯有新篘盤有鱗
5     明治辛巳秋日    七十五翁養竹子記

6 明治十八年十二月六日殁年七十九 門人 岡 寛齋謹書


  • 篘は酒、鱗は肴。金馬門は前漢の東方朔の故事「世を金馬門に辟く」により、朝廷にあって世の煩わしさから逃れることをいう。立之がこの場合に言っているのは「貧」 のことと思われる。
      森立之墓  
       

右面の七絶詩について森鷗外は「澀江抽齋」その百一で次のように書いている。
「森枳園は此年十二月一日に大蔵省印刷局の編集になつた。身分は准判任御用掛で、月給四十圓であつた。局長得能良介は初め八十圓を給せようと云つたが、枳園は辞して云つた。多く給せられて早く罷められむよりは、少く給せられて久しく勤めたい。四十圓で十分だと云つた。局長はこれに從つて、特に耆宿として枳園を優遇し、土藏の内に畳を敷いて事務を執らせた。此土藏の鍵は枳園が自ら保管してゐて、自由にこれに出入した。壽藏碑に『日々入局、不知老之將至、殆爲金馬門之想云』と記してある」
こうした事情を鑑みれば、貧に喘いでいた際に大蔵省印刷局に職を得たうえ、学徳高く人望もある老人(耆宿)として遇されたとすれば、まさにこの詩の意味も分る。

また、このことより推量される一事があります。少々長いですが、興味のある方はこちらをご覧ください

 

銘文の読み下し


左面

立之、字は立夫、枳園と□(ゴウ、号+乕)す。文化四年江戸八䆑(丁)に生る。伊織、後に養真と攺む。父は福山候の醫貟為り。文政四年父を喪う。時に年十五、養父の名養竹と攺む。稚き養竹も又醫を以て仕う。天保八年、故あって禄を失う。祖母慈母及び妻子を携え相模に遊ぶ。祖母は浦賀に在りて殁す。遂に大磯、大山、日向を𠪱て干津久井縣に至る。此の間十二年、辛苦は勝げて言うべからず。然れども樂も亦其の中に在り。何となれば、半ば儒、半ば毉を為し、居すれば則ち教授を以て業と為す。能く竒書を讀み好んで異聞を聴き、出ずれば則ち手に刀圭を握り、 内外二科は無論のこと、或は收生を為し或は整骨を為し、治を請う者には施術を施さざるは莫し。皆

裏面
實事求是、發明頗る多し。又山に入りて藥を采〈採〉り、溪を下りては魚を釣る。桂川詩集有り、遊相医話有り。其の行樂中、正名學に於いて裨益有る者は一々筆録し以て後攷に備え、既に一百餘巻に及ぶ。其の他、本草經、素、霊、四時經、傷寒、金匱、扁鵲傳、奇疾法、並びに攷注を為す。弘化五年五月、本藩の赦しに遭い江戸に再来す。十月幕府の命を奉じて、千金方を醫學館に於いて校勘す。功竣(おわ)りて銀若干を賜わる。嘉永七年、擢(ぬ)かれて醫學館講師と為る。安政五年十二月、初めて将軍徳川家定公に謁す。蔓延元年九月、醫心方校刻成るを以って又銀錠を賜わる。元治元年、学館講書の功勞を以て月俸を賜わる。慶應四年七月、福山に移居す。明治五年五月、東京に入り文部省十等出仕に補さる。後、或は醫學校に入りて編書を為し、或は工学寮に入りて講弁を為す。


右面
十二年十二月、大蔵省の撰に應じ印刷局に入り編輯を以て務と爲す。老の將に至らんとするを知らず、殆んど金馬門の想を作す。詩し以て銘に代えて曰く。
萬巻の架書貧を識らず 欣びに堪えず、恩澤微臣に及ぶを 
花前月下に餘樂存り  杯に新篘有り盤に鱗有り
明治辛巳秋日    七十五翁養竹子記す

明治十八年十二月六日殁年七十九人 岡寛齋謹書

 

 

枳園森立之壽蔵紙碑の全文

( ) は、解説のため加えた文字

骸を瘞めて之を標すを墳墓と曰い、物を埋めて之を標すを寿蔵と曰う。夫れ人は棺を蓋いて事の賢否得失定まり、誰か之を議定するに逆らうを得んや。今、目白龍泉山洞雲寺の先人の墓側に就き、余の髦髪臍帯を瘞め、之を標すに貞石を以てす。夫れ士の君に仕えるや苟しくも海濤を踏むことを辞せず、金革を衽にすることを厭わざれば、則ち何れの日、何れの地に斃れるも亦未だ知るべからず。此れ余の髦髪臍帯を瘞め微意を寓せる所以なり。もし夫れ死して魂有れば、必ずここに返りて父母に泉下に謝す。余、文化四年丁卯(一八〇七年)十一月を以て江戸に生まる。小字は伊織、後に養真と改む。名は立之、字は立夫、枳園と号す。父の養竹恭忠(やすただ)は福山侯阿部氏の医員たり。文政四年辛巳(一八二一年)父を喪う。時に年十五、邦俗に随い、父名を襲いて養竹と改称す。又、医を以て仕う。天保四年癸巳(一八三三年)佐々木氏を娶りて男を生む。八年丁酉(一八三七年・三十歳)二月、故有って禄を失う。祖母・慈母及び妻子を携え相陽に落魄す。祖母は浦賀に在りて歿し、遂に大磯・大山・日向(ひなた)を歴て津久井県に至る。此の間十二年、辛苦 勝(あ)げて言うべからず。然れども楽も亦其の中に在り。何となれば、半ば儒を為し、半ば医を為す。居すれば則ち幼童に教授するを以て業と為し、目に奇籍を読み、耳に異聞を聴く。出ずれば則ち手に刀圭を握り、足に山川を渉り、内外二科に論無く、或は収生(助産)を為し、或は整骨を為し、牛馬鶏狗の疾に至るも、来たりて治を乞う者、施術せざるは莫し。皆「實事求是」、而して発明頗る多し。又、山に入りて薬を採り、渓に下りて魚を釣る。『桂川詩集』有り、『遊相医話』有り。其の行楽中、正名の学(名物学)に大稗益あるは皆一々筆録し、以て後攷に備え、既に一百余巻に至る。その他『神農本草経』『素問』『霊枢』『傷寒論』『金匱』『扁倉伝』『四時経』『奇疾方』等、並びに皆攷注有り。弘化五年戊申(一八四八年・四十一歳)五月、本藩の赦に遭い、再び来たりて江戸に住す。十月十六日、幕府の命を奉じて『千金方』を医学館に於いて校正し、功竣(おわ)りて銀若干を賜わる。嘉永七年甲寅(一八五四年・四十七歳)、擢(ぬ)かれて医学館講師と為る。安政五年戊午(一八五八年)十二月五日、初めて将軍徳川家定公に謁見す。万延元年庚申(一八六〇年・五十三歳)九月、『医心方』の校勘成るを以て又、銀錠を賜わる。元治元年甲子(一八六四・五十七歳)学館講書の功労を以て月俸を賜わる。慶応四年戊辰(一八六八年・六十一歳)七月、居を備後福山に移す。明治五年壬申(一八七二年・六十五歳)二月、国を辞して諸州を漫遊す。五月、東京に至る。是の月二十七日、文部省十等出仕に補さる。爾の後、或は医学校に入りて編書を為し、或は工学寮に入りて講弁を為す。十二年己卯(一八七九年・明治十二年・七十二歳)十二月一日、大蔵省の撰に応じ、印刷局に入りて編輯を以て務と為す。日々局に入り、老の将に至らんとするを知らず。殆んど金馬門の想を為すと云う。詩有り、以て銘に代う。

万巻架書不識貧 万巻の架書、貧しきを識らず
堪欣恩沢及微臣 堪だ欣ぶ、恩沢の微臣に及ぶを
花前月下存余楽 花前の月下に余楽を存す
杯有新篘盤有鱗 杯に新篘(酒)有り、盤に鱗(肴)有り
  辛巳(一八八一年)秋日七十五翁養竹子書
   
  (立之は七十九歳で没しているから、死の四年前の書である)
   
 
 

鐄による跋文

( ) は、解説のため加えた文字
筆者が参考にした当跋文は、森鷗外が抄写したもの
(東京大学鷗外文庫蔵「本草經 3卷附攷異」 森立之 [校勘] )

おほち(大父=祖父)のきみの印刷局に出てつかへられしは、七十あまり三つのとしのをりなりき。それよりつかさ(官)のつとめにいそしまれて、七とせを経たまひぬ。やうやう年たけたまひぬればとて、こぞ(去年)の一月に休養のおほせをかうぶり、家にゐて、しづかに月日をすぐしたまひしが、その年の十二月六日といふ日につひに身まかりたまひぬ。齢は七十九にておはしましし。としごろ博くこのまなびをし(識)れし中にも、本草の学を旨ときめたまひ、世の神農本草経のみだりたるを修めたださんとて、数年のひまをおしみたまひ、その事つひに成りて、安政の初の年にえりまき(彫り真木=刻版)とさせたまひしが、いぬる年その板(版木)ゆくりなく火に失せにき。これを惜しみたまふ心のやるかたなさに、その後再び板にのぼせて、また志をとげたまひぬ。かく心をこめられし書なれば、これぞおほちの君の御霊とも見つべきものなるとて、七七(四十九)の忌日にそのとぢふみ(綴文=書物)をまた作らせて、おほちのともがき(友垣)をし(教)へ子の人々にわけおくりまゐらせ、またみづから物せられし寿蔵の紙碑をもこれに添へ、これをもて世になき跡を弔らひ奉るしるしとす、あな悲しのことや。
なき人のあゆみをこひし百草の
道の文こそかたみなりけれ
明治十九年一月二十四日

                 枳園孫女 くわう

 

孫娘鐄の追悼文

 

原書の文字

<>は不詳の字

おほちのキみの印刷局に出てつ可へられしハ七十阿まり三ツ乃とし野(の)をりなりきそれよ里つかさ(官)の津とめにいそしまれて七とせを扁(へ)たまひぬ やうやう年たけ多まひぬればとてこそ(去年)の一月に休養のおほせをかうふり家にゐてしづかに月日をすぐし給ひしかその年の十二月六日といふ日につひに身松(ま)かり給ひぬ齢は七十九にておはしましヽとし比(ころ)博く此学をし(識)れし中にも本草の学を旨と極めたまひ世の神農本草經のみたりたるを修めたヽさんとて、数年のひまをおしミたまひその事つひに成りて安政の初乃年にゑりまき(彫り真木=刻版)とさせ給ひしかいぬる(去る)としその板ゆくりなく火に失せにき古れを惜しみたまふ心乃やるかたなさにその後再ひ板にのほせて又志をとけ多まひぬかく心をこめられし書なれハこれそおほち野君御霊とも見つへきものなるとて七七の忌日にそ野とちふミ(綴文=書物)<を>また作らせて、おほち野ともかき(友垣)をしへ子の人々にわけおくりまゐらせ又みつから物せられし寿藏の紙碑をもこれに添へこれをもて世になき跡を弔らひ奉る志るしとす阿なかなしのことや
なき人の阿ゆみを古ひし百草野
<道>の文こそかたみなりけれ
明治十九年一月二十四日
枳園孫女 くわう

 
 
 
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