素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

森 立 之 失 禄 の 真 相

 

2021.01.10 アップロード
2020.01.14一段を追加しました

 

「就中森枳園と其子養眞に貸した書は多く還らなかつた」という一文が安政六年(1859年)ごろのこととして森鷗外の「澀江抽齋」にあり(その七十)、同様の文は、文久二年(1862年)の出来事となってもう一度くり返されています(その七十八)。森立之にとっては、たいへん不名誉な二条ですが、このことは度々あったようです。また本だけでなく、金についても立之は借りたまま返さないということが多々あったようです。そして、これが福山藩を放逐される原因となっていました。
このことに気をつけて鷗外の物語を読んでみると、立之の行ないのあまりの酷さに心が痛みます。これまで、この点についてはあまり人口に上らなかったようですが、立之という人物の人となりを知る上では重要なことなので、敢えて注目したいと思います。
森鷗外の「澀江抽齋」は「伊澤蘭軒」にくらべて、いくぶん脚色が多いと感じられますが、事実の集積ではあります。今回は立之の不名誉を書くにあたり、これは脚色がないと考えられる部分だけを抜き出しました。
(「澀江抽齋」の脚色が含まれていると思われる箇所は、たとえば五百が三浪士に湯を浴びせようと半裸で構える場面・その六十一、義眼の楼妓・その六十七、比良野貞固の再婚・その七十八、九などがあります。これらも事実ではありますが、鷗外の脚色が窺われる部分です。それについては改めて論じたいと思います)


■貸した書が返らない


(時系列については順不同で書いてあります)
先に書いた文久二年九月の出来事です(澀江抽齋・その七十八)。
抽齋のもとへ伊澤柏軒に貸し出されていた蔵書が返ってくることになって、その三千五百部あまりが津軽家の倉庫に預けられることになった。その直前に立之が来て、松永秀久(戦国武将)の印があり訓点をほどこされた「論語」と、朝鮮版の「史記」とを借りていった。明治二十三年になって、抽齋の息子の保が嶋田篁村をたずねたところ、篁村の家に何故かこの論語があった。篁村はこれを、細川十洲さんに借りたのだと言っていた、というのです。

柏軒はあづかつてゐた抽齋の藏書を還した。それは九月の九日に将軍家茂が明年二月を以て上洛すると云ふ令を發して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。澀江氏は比良野貞固に諮つて、伊澤氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあづけた。そして毎年二度づゝ虫干をすることに定めた。當時作つた目録によれば、其部數は三千五百餘に過ぎなかつた。
書籍が伊澤氏から還されて、まだ津軽家にあづけられぬ程の事であつた。森枳園が來て論語と史記とを借りて歸つた。論語は乎古止點を施した古寫本で、松永久秀の印記があつた。史記は朝鮮板であつた。後明治二十三年に保さんは嶋田篁村を訪うて、再び此論語を見た。篁村はこれを細川十洲さんに借りて閲してゐたのである。(澀江抽齋・その七十八)

澁江保としては、父親の大切にしていた写本の論語ですから、それが売られて篁村の家に来ていたことが、すぐに分ったのです。
大塚恭男先生によれば、この年の十一月下旬に、立之は理由不明のまま、不都合のかどで閉門を命ぜられているそうですが(近世漢方医学書集成53-解説)、その理由はこのあたりにありそうです。

そして、これは初めに紹介したエピソードです。
安政三年以後、抽齋の時々病臥することがあって、其間には書籍の散佚することが殊に多かつた。又人に貸して失つた書も少なくない。就中森枳園と其子養眞に貸した書は多く還らなかつた。
成善が海保の塾に入つた後には、海保竹逕が數々澀江氏に警告して、「御藏書印のある本が市中に見えるやうでございますから、御注意なさいまし」と云つた。(澀江抽齋・その七十)

「就中森枳園と其子養眞に貸した書は多く還らなかつた」という一文には、鷗外の抽齋に対する同情と、立之に対する恚りが滲み出ているようです。抽齋は「医者というより儒者」という印象を人にあたえるような人物だったといいますから(榛軒の娘・柏の談)、鷗外は強い親近感を持っていたのではないか。それに反して、このいい加減な立之のことは、ひどく嫌っていただろうことも容易に想像がつきます。下に、鷗外の持っていた抽齋観を掲げておきましょう。「澀江抽齋」の物語を始めるにあたって、多少抽齋を持ち上げる必要があるにしても、いかに鷗外が抽齋を高く見ていたかが分ります。

わたくしは又かう云ふ事を思つた。抽齋は醫者であつた。そして官吏であつた。そして經書や諸子のやうな哲學方面の書をも讀み、歷史をも讀み、詩文集のやうな文藝方面の書をも讀んだ。其迹が頗るわたくしと相似てゐる。只その相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽齋が哲學文藝に於いて、考證家として樹立することを得るだけの地位に達してゐたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出來るない。わたくしは抽齋に視て忸怩たらざることを得ない。(澀江抽齋・その六)

さて話をもとに戻して、これは天保九年のことです。
森氏で枳園が祖母を浦賀に失つたのは此年の事かとおもはれる。其祖母の遺骨の事に關し
て一條の奇談がある。枳園は相模國に逃れた後、時々微行して江戸に入り、伊澤氏若くは
澁江氏に舎つた。祖母の死んだ時は、遺骨を奉じて江戸に來り、榛軒を訪うて由を告げた。
榛軒は金を貽(おく)つて殮葬の資となした。枳園は急需あるがために其金を費し、また遺
骨を奉じて浦賀に歸つた。
月を踰(こ)えて枳園は再び遺骨を奉じて入府し、又榛軒の金を受け、又これを他の費途に
充て、又遺骨を奉じて浦賀に歸つた。
此の如くすること三たびに及んだので、榛軒一策を定め、自ら金を懐にして家を出で、枳
園をして遺骨を奉じて隨ひ行かしめた。そして遺骨を目白の寺に葬つたさうである。目白
の寺とは恐らくは音羽洞雲寺であらう。  (伊澤蘭軒・その二百四十五)

ここには立之の恥ずべき行状が淡々と書かれていますが、鷗外の鉄槌が透けて見えるようです。それを見せないところが、鷗外の怖さでもありますが。

 

■失禄の真相

鷗外は澁江保に、その父抽齋について様々な話を聞いています。その後、保は鷗外のために「森枳園傳」を書いて手渡しました。その稿本が残っており、そこにこう書かれています。

枳園既に永の御暇となりて後、暫らく江戸に居たれども、負債積で山を爲し、遂に大磯を指して逃亡(夜逃)したり。大磯の名主某、枳園の門人たりしに依り、枳園ハ其の人を便りて行きたるなり。

この罫紙の欄外に、澁江保は朱書してこのように書き込んでいます。

此の事ハ書面に載する事を憚る
(元來生の父ハ、飽く迄も枳園を保護すべき心得なりし由なれども、甚好ましからぬ事二科条阿りて、多紀に對し、曲直瀬に對して、父が意外の大金を辨償し、纔(わずか)に事落着するを得たり。それゆゑ逃亡等ハ之を傍観したるなり。)   (澁江保「森枳園傳」6頁)

  森立之失禄の真相  
  森立之失禄の真相  

< 『森枳園傳』6葉・6頁(東京大学総合図書館所蔵)の全体と部分的に拡大したもの
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/008d386c-9e2a-4b69-b907-9073228b1bb8#?c=0&m=0&s=0&cv=5&xywh=-568%2C0%2C5391%2C3215
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多紀、曲直瀬は当時の名医家で、とくに多紀氏は江戸医学館(躋壽館)の主催者です。この二家にまで立之は金を借りていたのでした。このことについて「澀江抽齋」では、阿部侯に暇を出された表向きの理由は、立之の芝居好きが嵩じて役者として舞台に上がり、演じていたところを阿部家の女中に見られ、次いでそのことが家中の上役の耳にまで届いたということになっています。
また明治になって、この経緯について書誌学者の川瀬一馬が約之の女(むすめ)・鐄(かう)に聞いたところによると、失禄の理由をこう話してくれたといいます。立之がある遊女のもとに通い詰めていたところ、遊女に迫られて道行と決まった。ある夜、ひそかに手を取り合って屋根伝いに逃げたが、急に後から突き飛ばされて屋根から転げ落ち、自身番に捕えられたあげく身分が露見してしまったのだった。実は、この女にはすでに意中の男がいて、立之はたんに利用されただけだった、こういう話です。(近世漢方医学書集成 53 森立之・解説大塚恭男)
実はこれと同様の答を澁江保にもしており、立之の狡獪というより偽悪的な一面の現れているエピソードです。

私の見た所から言ヘバ、維新前ニハ、私は極めて幼稚であつたゆゑ、固より其の人物如何を知るべきやうもなく、只
『森さん、阿なたハ駈落其の頃、私ハかけ落とハ何の事であるかを知らず單に「悪るい事」と推量して居たのだ。をしたそうですね』
と言ヘバ、
『ウム、駈落をしたよ。駈落ドンドン
面白かつたぜ』などと答へた位のもので阿つた。     (澁江保「森枳園傳」35頁)


立之のこうした一面は、単純に狡猾というのではなく、人に甘える度が過ぎた結果だったと思われます。

 

■他家の書倉の古書を売り渡す

安政期には海保竹逕が抽齋に「御藏書印のある本が市中に見えるやうでございますから、御注意なさいまし」と警告していました(澀江抽齋・その七十)。同様のことはくり返して起り、明治四年には清国大使の随員として来日していた楊守敬を発端にして起っています。楊守敬という人物は清の文人で、もとは金石学に通じた人でしたが、友人から中国本土では失われた書物が日本には多く存在することを教えられ、それを持ち帰ることに情熱を燃やすようになりました。日本には抽齋と立之がまとめた「經籍訪古志」という、当時の日本に現存していた古典籍の一覧があり、その手写本を守敬も清で入手していました。これを手がかりに、日本に残っている書を探せばよいと考えた守敬は、書いた本人である立之のもとへやって来たのです。同時に、守敬の手にした「經籍訪古志」の手写本は誤りが多かったので、その訂正も立之に頼みたかったのです。

当時の立之は赤貧洗うが如き暮らしぶりでした。そこへ清からの士大夫がやって来たのですから、その喜びは想像できます。二人は会話は通じませんが、筆談なら可能です。お互いの書いたメモを、立之は「清客筆話」と題して残しました。私が読んだものは、この「清客筆話」を、さる古書店主が写しとり、それを活字に起した研究論文です(原田種成「厳客筆話-楊守敬と森立之との筆談-」 『長澤先生古希記念図書學論集』 三省堂)。

楊守敬は日本で三万巻以上の古書を買い集めますが、最終局面で宋版の「太平御覧」(宋代の百科全書)を立之に求めます。その執拗さは読んでいるこちらも驚くばかりですが、断り続ける立之も立派なものでした。(その詳細はこちらをご覧ください)
しかし、ある事情を境にして、立之はあっさりと売り渡す決心をします。そして、こんな手紙を守敬に送るのです。

明治15年6月29日 〈 爾来、拝顔していませんが、近況は如何ですか。「太平御覧」は割愛することは必竟難しい。が、私の方で家の建築費がかかるようになって、どうにもなりません。約束が違うことになったが、遂に沽却(売却)する次第に至りました。昨今は貧の極みで、紙幣の授与されるところがあればと祈っております。明日なら、いちばん都合がいいのですが。来月では不可です。先生、寓意を察して明日の晩、ご来車下さいませんか 〉 (この手紙は「壬午睡餘録」より)   

六月廿九日森立之白、爾来不拝顔、近況如何。御覧必竟難割愛、然建築多費無所補、回遂至沽却也。昨今貧極矣、紙幣多少授与是祈。在明日則尤妙、逾月則大不可。先生深察寓意、則明日晩間來車。

この「太平御覧」については、「宋版の原本が二部、日本に有るといったところで、俺のものでもない。隣の宝だよ、俺に益はない(宋版原本二部、雖有日本、非吾有也。猶鄰家之貨、無益干我耳)」と言っているくらいですから、はっきりと立之のものではないのです。恐らくは官庫、あるいは私人の書庫で立之がその出入りを許されている場所に収められている書籍だったと思われます。立之はそれを断りなく売り渡したのでしょう。

これについて森鷗外が気になることを書いています。明治12年、立之は大蔵省印刷局に出仕することになりますが、局長である得能良介は、立之を特別に優遇したというのです。
「特に耆宿として枳園を優遇し、土藏の内に畳を敷いて事務を執らせた。此土藏の鍵は枳園が自ら保管してゐて、自由にこれに出入した」(澀江抽齋 その百一)
「耆宿きしゅく」というのは学徳が高く人望のある老人のことです。局長が立之をそのように見たのは慶賀すべきことですが、鷗外がわざわざ土藏の鍵のことまで書いているというのは、訳がありそうです。この印刷局では狩谷棭斎の「和名鈔箋註」を版刻、印刷したとありますから(その百八)、書籍の校刻・刊行を手広く行なっていた部局のようです。

何度も言うことになりますが、こうしたことは繰り返しありました。その裏には、立之の暮らしが困窮していたこともあるのです。当時の立之の様子を、澁江保は「森枳園伝」にこのように書いています。

初め其の京橋区水谷町九番地の家は猫の額のやうな家で阿つたが、此の頃から國内でハ狩谷棭斎の和名抄箋注が官板として刊行せられ、殊に楊守敬の手を經て支那公使(何氏徐氏等)の手へ諸種の古写本を賣渡した。現に私ハ枳園の為めに筆耕をして居た人々を知て居る。此の事ハ学問の為めにも慶すべきだが、枳園の為めにも亦慶すべきで、枳園は幾もなく増築を為し、盛なる宴會を開いた。(澁江保「森枳園傳」26,7頁)

 

これによれば、筆耕を雇って古写本の写しを作り、それを何如璋(在日清国大使)、徐氏(不詳)らに売ったこともあったようです。いくぶん立之を弁護することになりますが、当時、立之は文部省、医学校、朝野新聞、工学寮(帝国大学工学部の前身)などに辛うじて雇われている身で、それも短い間に転職をくり返しています。何か事情があったのでしょうが、かつて幕方にあった身の辛さというものでした。旧時代には藩から俸禄を保証されていましたが、今となっては自分で糧を得なければ生きて行けない時代になっていたのでした。

このように辛うじて官に雇われる身となったのは、立之だけでなく、躋壽館で抽齋の講義を聞いた榊原芳野、多紀茝庭の塾生であった前田元温、狩谷棭斎の友人であった岡本保孝といった人達も同様で、それぞれが堂々たる漢学者・老先生といった存在でありながら、師範学校に入学して官費の給付を受けている澁江保の三分の一、四分の一という安い給与に厄窮せられていたのでした。

その頃、私の収入ハ百三十圓で阿つた。一知半解のわれわれが、しかも学問のことで奉職して此の如しとすれバ、たとひ其の学問ハ時世に合はぬにせよ、老先生たる枳園ハ少勅くとも二百圓以上の収入ハ阿つて然るべきだと思つた。然るに話を聞いてみると、准判任で四十圓だとの電の〔で〕阿つた。 (澁江保「森枳園傳」25頁)


■「人の物と我物との別に重きを置かぬ無頓着な枳園」

また異なった方面から立之を弁護することになりますが、いま令和の始めにあって、世情の幅というものは、非常に狭くなっていると言えます。例えばかなり以前から市中の電車で煙草を吸う人は皆無になりましたが、昭和の中ごろまで吸う人はいました。当時も車中は禁煙であり、これは世間的にも悪い行ないでしたが、断じて許すことのできない行為とまでは言えませんでした。こうした悪い行ないをする人が一定数いるということは、世の中の許容範囲内だったのです。
図書館の本を人に売り渡すという行ないが、道徳的に悪い行ないであるということには異論がありませんが、この立之の行ないが、当時の世間の許容範囲であったのか否だったのか、現在ではよく分らないところです。そうした多々を秘すように「森枳園傳」の筆者である澁江保は、「枳園の裏面に就てハ、知る箜多けれども、言はぬが花なるべし」と最後に朱書しています。
※「人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着な枳園」は「澀江抽齋」その七十二にある一節です。

  森立之失禄の真相  

< 『森枳園傳』34葉・63頁(東京大学総合図書館所蔵)より・・・部分的に拡大
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/008d386c-9e2a-4b69-b907-9073228b1bb8#?c=0&m=0&s=0&cv=33&xywh=-568%2C0%2C5391%2C3215
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