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〈  森立之小伝  十五  「清客筆話」〉

 

 

明治十四年一月、清の文人・楊守敬(ようしゅけい)が、書籍を買い取るために立之のもとを訪れました。両者のやりとりは筆談です。これを見ると、楊氏がいかに購書に熱を上げていたかが分ります。
今は貧をかこつ身で、よい本は持っていないのだと言う立之の言葉も意に介さずに楊氏は言います(書きます)。「お尋ねしますが、宋本の玉篇や広韵(ともに辞書)は持っていらっしゃいませんか」
立之は「今は官庫にあって、家には無い」
楊「見たいのです」 
立之「今日はお目にかけられないが、他日持ってくるので、そうしたら手紙で報せましょう」 
こうしたやり取りが、明治十五年十二月まで二年近く繰り返されました。
明治十四年十月には「太平御覧」(宋代に編集された総合全書)のことで楊守敬がやってきます。楊氏がいかに執拗に立之に食い下がったかが分るやり取りです。

楊「抄本の『太平御覧』ですが、友人の黄君がこれを購いたいと言っております。但し六十円で購えればということで、もし先生(立之)が厭でなければ、明日六十円を持って取りに来ますが」
森「この書は断然、売らないと決めています。千金といえども売りません。板本(印刷本)はだめな本ですが、抄本(手書きの本)はまともな本です。売ることはできません」
楊「板本は抄本をもとに作っているのに、なぜダメ本なのでしょうか?」
森「悉く是ならず、というわけではないのです。校訂を加え、間違った文字を改めればよい本になりますから、このままでは駄目だと言ったまでのこと。まあ世間では、こうした駄本でも売るでしょうが」
楊「黄君はこのことを知りません。彼は流通している板本の値がはなはだ廉価であると知っておりますので、先日約束した百円では高いと考えています。いま先生の話を聞いて、板本にも多く改正が必要と知りました。しかし先日の約束によって百円と定めました。私はこの値段で、黄君の頼みを叶えようと思っていたのに、先生は今日になって約束を覆して、しかも私に怒ってくれるなという。間に立っている私の苦労も考えてほしいのです」
森「今は売らないと決めた。過日の売却の話はもう一旦終わったことで、これは違約とはちがう。察してくれたまえ」

ここまででも、楊守敬の執拗さは相当なものです。立之が「右書斷然以不賣決之、雖千金不賣(この書は断然、売らないと決めています。千金といえども売りません)」とまで書いているにもかかわらず、話をいったん抄本と板本のちがいに振っておいて、ふたたび売り買いの交渉にひき戻します。しまいに立之は「君請察焉(察してくれたまえ)」と書いて渡しますが、楊氏はまだまだ退き下がりません。

楊「この本は黄君の欲するもので、私が欲しいと思っているわけではないのです。それに加えて、彼はお金まで持って来ている。書を購いたいというのは彼の頼みですが、その彼は六十円だと思っていて、しかもその本を見ていないが、当然本を手に入れられるものと思って待っている。先生の話を聞いて、私自身は釈然としましたが、先生は六十円という値を聞いて、遂に怒ってしまわれた。私はどうしたらよいのですか」
森「日本人は、いったん金を受け取った後は違約しない。今は、金の受けとり前だから、心に従って売らないことは可だ。且つ、この書はまたとない書だ、売らないと言ったら売らない。値の高下ではないのだ、もう恕(ゆる)してくれ」
最後にはとうとう立之の泣きが入って、この日の交渉は終了しました。しかし「太平御覧」のことはこれで終わったわけではなく、十一月十四日になって、また楊氏はやってきます。
楊「『太平御覧」が百円という約束でしたが、数日中にお金を持ってきます」
守敬はしゃあしゃあとしたものです。
森「先日、売らないと決めただろう。たとえ千金でも駄目。前回の通りで、今日も気持ちは変っていない」
楊「私から至極珍品の古刀布銭を先生に差し上げましょう。お断りなさらないでください。『太平御覧』のことは、すべて先生が気持ちを変えてくれることにかかっているのです。そうでなければ、私は黄君に合わせる顔がない。どうぞ、私を憐れんで下さい」
森「大事な書物は、日ごとに亡び、月ごとに失われてゆく。日本国内から金銀が失われてゆくのと同日の談だ。ただ金銀は紙幣をもって代えられるが、大事な書物はひとたび失われれば返らないのだ、嗚呼」
楊「貴国の原本の話をすれば、まだ印刷されておらずに、二部が残っております。わずかに一部だけが残っているという話ではございません。先生も古の情の分るお方ですし、私も同じです。私とても、これを得て再度校正したいのであって、利のためではありません。そこを諒として頂きたい。且つ、私に力があって購おうとしているのでなく、黄君の力によって購い、校正しようとしているのです」
森「この話は始めから分かっていることではないか。今日に至るも売らないと決めている。断然として石の如し、だ。これは私の癖(へき)だ。楊先生は幸いにして、宥恕の心のある方だ。それに宋版の原本が二部、日本に有るといったところで、俺のものでもない。隣の宝だよ、俺に益はない」

ここへ来て、我々にもこの抄本「太平御覧」が官庫の書籍であることがはっきりしました。楊氏とて、それは分っていたはずです。それをどうしてもこうしても売ってくれと捩じ込んでいるのですから、駄々っ子のようなものです。

ところが年が明けて十五年、立之から楊氏に手紙が来ます。
〈 爾来、拝顔していませんが、近況は如何ですか。「太平御覧」は割愛することは必竟難しい。が、私の方で家の建築費がかかるようになって、どうにもなりません。約束が違うことになったが、遂に沽却(売却)する次第に至りました。昨今は貧の極みで、紙幣の授与されるところがあればと祈っております。明日なら、いちばん都合がいいのですが。来月では不可です。先生、寓意を察して明日の晩、ご来車(人力車で来る)下さいませんか 〉 (この手紙は「壬午睡餘録」より)
ひどい話です。官庫の本を売って、家の建築費に充てようというのでした。立之の馬脚がまた現れたのでした。

この楊氏にしても、私はただ書物に対する愛が優っているという以上に、人情の機微がわからない人だと感じます。概して貴族というのは、芸術や学問に優っていても、こういう赤ん坊のようなものなのでしょうか。貴族という人種の、かくれた一面を見る思いがします。これでは、世間の波にもまれて、人の顔色を窺いつつ身過ぎ世過ぎをする立之などは、とうてい敵わなかったと思います。この楊守敬は、明治十七年に帰国しました。その後、明治三十年に「日本訪書志」を故国で発行しています。

この「日本訪書志」だけでなく、楊守敬とその友人たちは日本で得た古善本を、古逸叢書として出版しましたが、そのたびに立之の労に報いるため、叢書の印刷ができあがるごとに特製本を立之に贈呈しています。とはいってもすでに立之は終焉を迎え、安田文庫におさめられた贈呈本も太平洋戦争の戦火で烏有に帰したと思われるのですが。

〈 楊守敬(1839~1915)七十五歳の肖像、『書論』第26号所載。 「惺吾」は守敬の号。来日当時、楊氏は四十一歳、立之は七十四歳だった 〉
 
 
 
楊守敬・森立之小伝
 
 
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