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森立之小伝
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〈  森立之小伝   九   攷 注 〉

 

帰参が叶ってのち、森立之の研究者としての名は本格的に高まりました。立之が何としても復元したかったのは本草経で、伊澤蘭軒に入門して間もなく(十八歳)「太平御覧」をもとに復元を試みています。この度、これに取りかかったのは四十八歳のときで、六朝時代の道士・陶弘景(とうこうけい 456~536年)の「集注本草」を元にしています。

陶弘景は当時存在した「神農本草」四巻に「名医別録」の記事を加えて「神農本草經」三巻をつくり、さらに自らの注釈をほどこして「集注本草」としました。日本では狩谷棭斎が「神農本草經」をつくり、これをもとに小嶋寶素が「新修本草」をつくっています。この後、小嶋尚真(寶素の子)と立之とが「集注本草」を復元し、さらに先の「新修本草」の成果と合わせて、最終的に立之が「神農本草經」を完成しています。

この「神農本草經」完成の翌年、江戸ではコレラが流行して市中だけでも二万八千人が犠牲になりました。このコレラは長崎の出島から、ということは異人が日本にもち込み、またたく間に日本中に広がったものです。江戸の当時、人々にもっとも恐れられた病気は天然痘、梅毒、結核でした。梅毒はルネサンス期のヨーロッパ、結核は産業革命時代のイギリスを中心に流行した病気ですが、こうしたつねに徘徊する病気のあいだを衝いて、コレラやマラリア、赤痢のような伝染病が猖蹶をきわめることがありました。伊澤蘭軒、榛軒もその時々に流行した熱性伝染病で死んでいます。そして長年にわたって立之に手をかしてくれた澀江抽齋が、このコレラのために亡くなりました。五十四歳でした。

立之が「神農本草經」を畢業した直後から、医学館では「医心方」の校正がはじまり、六年後に出版されました。自身の「神農本草經」に注釈をつけた「本草經攷注」は、三年後五十一歳に完成しています。さらに立之が注力したのは、鍼灸の経典である「素問」でした。この注釈書「素問攷注(そもんこうちゅう)」は五十四歳で起業し、五十八歳に終わっています。この直後に湯液(漢方薬)の最古の医書「傷寒論」の注釈「傷寒論攷注」をはじめて、六十二歳で卒業しています。

この時期に鍼灸と湯液、二大経典の注釈書を一人で書いているというのは、驚くべきことです。その内容も中国と我が国、千五百年におよぶ歴代注釈家の注目すべき研究を逐一かかげて考察・評価しており、そのエネルギーと博覧強記ぶりには圧倒されます。いま「素問」の名が出ましたが、鍼灸の重要経典にもう一つ「霊枢(れいすう)」があり、これについても「霊枢攷注」を書いています。しかし、これは現在も亡失されたまま見つかっていません。

ここで「素問攷注」から立之らしい部分を見てみましょう。「素問」に「刺瘧篇」という篇があります。瘧(ぎゃく)は「おこり」すなわちマラリアのことで、蚊が病原体を媒介する、高熱と、ガタガタと震えるような寒気が交互に襲ってくる病気です。これにたいする鍼灸の治療法を論じた「刺瘧篇」には、このように書かれています。

「マラリアに罹って、脈の状態が満、大、急の患者は、背中にある穴(ツボ)を刺せ。中鍼を用いる。背部の、本来の穴から離れた位置にある五つの穴で、患者の肥痩に合わせて、鍼で血を出せ」
この条文に対する立之の注釈はこうです。
「王冰(唐の注釈家)が、背中にある穴とは、大抒という穴だと論じているのは正しくなく、張介賓(明の注釈家)の論じている通りの、離れた位置にある穴のことだ。この条文は<刺背兪、用中鍼、適肥痩出其血>までが本文で、<傍五胠兪各一>は<背兪>の脚注である。古文は往々にこういう書き方がされていて、本文と脚注とが相俟って經を爲していて、今日まで伝わっているものだ」
さらに「ここに言う中鍼とは、中程度の太さの鍼でなく、霊枢に述べてある九鍼の五番目の鍼、鈹鍼(ひしん)のことだ。九つの真ん中の鍼だから中鍼という書き方をしている」

もう一例「素問攷注」の「刺腰痛篇」からです。「素問」の条文はこうです。
「会陰の脈によって腰痛が起ることがある。痛みが上って漯々と汗が出る。汗が乾けば水を飲みたくなり、飲み終わると走り出そうとする。これを治すには直陽の脈を三回刺せ。外踝の上方、膝窩の下方五寸に横になってある場所で、盛り上がっていたら鍼で刺して出血させよ」
こんな条文ですが、諸注釈家はこの「直陽の脈」が、どこにあるか分りません。馬蒔(明代)、呉昆(明)、張介賓(明)らは、もっとも古い王冰(唐)の注釈を見て、直陽の脈とは太陽脈のことだといいます。最新の高世拭(清)ですら、太陽脈と督脈の合わさった脈だといいます。
ひとり唐の楊上善だけが、「直陽脈」のところを「会陰脈」と書いた本があると報告しています。すなわち、素問の書き間違い・写し間違いです。日本の多紀元簡(医学館当主)は違っていて、「直」は「亻」をつけると「値(ね)」という字になる。「値」は物とお金とが吊り合って決まる金額だから、「合う、遇う」の意がある。よって「直」も「合う」の意があり、陽に合う・遇うものは「陰」だから、「会陰の脈」のことなのだと明快に断言しています。「会陰」なら前陰と後陰のあいだの所ですから、誰でもわかります。

楊上善、多紀元簡の二説によって、どうやら真偽がはっきりしたようです。これに対して立之は猛烈に怒ります。「直陽脈については諸説紛々で一定しない。これはそもそも、皆が素問の誤本をみて注釈しているからで、いま楊上善の言っていることを聞けば、すべては了然としている」このように「是ならず(正しくない)」「徴すべし(~の説を採用すべきだ)」と白黒はっきり断ずるのが、立之の書き方です。少々やわらかい断定でも「過てるに似たり(間違いだろう)」であり、これでも相当にきつい断罪に変わりありません。今のように、「誤本に就きて説を爲すに因る」、あるいは「證せり、證せり(証明できた!)」「實に惜しむべきかな」と感情あらわに書かれている箇所が多々あって、立之の並々ならぬ熱と魅力を感じさせます。

〈 学苑出版「素問攷注」北里研究所東洋医学総合研究所で句読点を附し、活字翻刻したもの。それまでは自筆本の写真版で読まれたが、読みにくく、高価だったため、この本が喜ばれた。2002年北京市で発売。現在では、立之にかぎらず古医籍は、写真版で読むことが、旧に復して主流となりつつある。これは研究の精度を上げるため 〉
 
 
素問攷注・森立之小伝
 
 
 
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