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〈 森立之小伝  二 幼時…経学  〉

森立之(1807~1885)は江戸で生まれて東京で死んだ福山藩の医官でした。
森家初代は宗純といって、当時京都で名の高かった鍼術家・松岡意斎に学び、やはり盛名を博した鍼師でした。二代目の仲和も初代と同じく鍼医でしたが、三代目の友益は江戸に出て、この人は当時江戸で高名だった明人の五雲子という医家について学びました。

六代目の恭忠のとき福山藩士となり、福山城主阿部正倫、正精二代に仕えました。この六代目恭忠には男子がなかったのか、五代親徳の娘・皆(みな)と結婚して森家をついだ者がありました。儒者である松崎慊堂の日記には、皆と結婚した男の名として小森幸二という名が見えます。しかし皆と結婚して森家に入った幸二は、放蕩のために恭忠に離縁されてしまいます。立之はその子供でしたが、六代恭忠の養子となって森家七代目を継ぎました。のちに立之自身も放蕩のあげく憂き目を見ることになりますが、その芽は、どうやらこの実父にあったようです。

立之について、もっとも身近に書かれている書物は、森鷗外「澀江抽齋」(しぶえちゅうさい)と「伊澤蘭軒」(いさわらんけん)です。澀江抽齋(1805~1857)は弘前藩の医官でしたが、立之とは生涯の親友でした。また伊澤蘭軒(1777~1829)は、抽齋と立之が入門した、当時、江戸で評判の医者で、やはり福山藩の医官でした。江戸にあって藩主阿部正倫を診る筆頭医だったのです。

立之はこれより前、十一歳のとき十三歳の澀江抽齋に弟子入りしています。抽齋について経学(四書五経)を学ぼうとしたと思われます。13歳の師とは早いように思えますが、伊澤蘭軒の三男・柏軒は十三歳のとき、江戸にあって藩の子弟に素読を教授していますから、四書の素読というのは年長の子供が、年下の子供の勉強をみるといった趣のことだったのでしょう
その後十七歳になって、十九歳の抽齋とともに伊澤蘭軒(当時四十七歳)の弟子になります。

当時、森家のすまいは本郷丸山町(現・文京区西片町)の阿部公藩邸のなかにあり、伊澤家も同町にありました。森鷗外によれば、抽齋は少時より経学を市野迷庵(1765~1826)と狩谷棭斎(1775~1835)に学んだとありますから、当時の医官の子息は、藩校に学ぶなり、縁のある学者(臑者)のもとに通うなりして、四書と五経を学んだものと見えます。
経学は当時、武士の基礎学問で、四書(大学、中庸、論語、孟子)と五経(易、詩、書、礼、春秋)を暗誦できるようになるまで憶えました。鷗外を例にとっていえば、五歳から津和野藩で米原綱善について四書の素読をうけています。六歳時には藩校である養老館に入学し、最優秀生にあたえられる四書正文、二年目には四書集註を賜与されています。ちなみに養老館の修学内容は、初年で四書の素読、二年目が五経、三年目が左伝(左氏による春秋経の注釈)、国語(戦国時代の各国の物語)、史記(司馬遷による前漢までの中国史)、漢書(前漢の正史)でした。三年目の最優秀生になれなかったのは、維新で藩校が廃されたためでした。

ここで鷗外と澀江抽齋との関係にふれておきます。鷗外は明治の世になってから、抽齋の嗣子である保(たもつ)に会い、抽齋についてさまざまに聞いています。保も江戸式に四書五経から勉学をはじめましたが、新時代になっては用をなしません。加えて出身の弘前藩は幕府方でした。勝ち目はありません。学校の教師や新聞記者などの職を転々としていました。

保は、すでにまったく忘れ去られようとしている父について詳しく尋ねられ、嬉しかったに違いありません。晩年の森立之とも親しく交わっています。鷗外も、自分と同じように固い人間であり、また医家であり研究者だった抽齋につよい共感をもったことでしょう。反対に人間が軟らかかった立之には、あまり共感できなかったと思います。鷗外の書いた「澀江抽齋」は、まだ創作した部分がおおく見られます。が、残された書簡や詩稿から再構成された伊澤家四代の物語は、鷗外の考証の成果です。鷗外は考証家を追うあまり、自ら考証家になってしまった観があります。
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