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森立之小伝
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〈  森立之小伝  八   帰 参 〉

 

森立之の福山藩帰藩に力があったのは、やはり澀江抽齋でした。抽齋は藩の公用人、勘定奉行をはじめ、伊澤家の当主・榛軒、その弟の柏軒にも斡旋をたのみました。阿部公の右筆である小島成齋にまで頼みましたが、肝腎の殿様・阿部正弘がいい顔をしません。医学館当主の多紀茝庭(さいてい)にまで、頭を下げています。

そのころ幕府の医学館では「千金方」の校刻を行なっており、この校刻メンバーに立之を使ってもらおうというのが最終的な抽齋の目論見になりました。「千金方」は正式名称を「備急千金要方」という、唐代に孫思邈(そんしばく)によって文字が撰ばれた総合医書です。「備急」ですから急場の備えになる、値「千金」の「要になる治療方」という書名です。湯液(漢方薬)・鍼灸の両方の治方が、現代医学書と同じように病気ごとに書かれた、三十巻におよぶ大著です。これを校刻するのですから、文字(文章)を校正して、版木に彫って出版するまでの事業です。

抽齋の努力の甲斐あって、まず幕府から校刻を手伝えという内命が下りました。「千金方」の校正・彫版には、どうしても森立之の頭脳が必要だというわけです。これによって福山藩としても立之を帰藩させざるを得なくなりました。1848年嘉永元年五月、四十二歳にして十二年ぶりに浪人生活に終止符を打つことができたのです。抽齋は四十四歳でした。

抽齋の家は当時、神田お玉が池にあったので、世話焼きついでに、近所に立之の家を借りてやり、家賃から身の回りの品まで揃えてやっています。それでも足りないものがあると、立之の妻の勝は抽齋の家にもらいに来ます。抽齋の妻・五百(ゐほ)はこれに閉口しますが、抽齋はそこにさえ目をつむれば使いでのある男なのだからと我慢させます。このあたりは金田一京助と石川啄木の関係そっくりです。

事実、小嶋寶素(ほうそ 幕府旗本)が立之に古医書をみせて鑑定をもとめたところ、その鑑識眼はすこしも衰えていなかったと驚いています。立之帰藩の年の十月、「千金方」の校正は完了しました。出版は残念ながら実現されず、昭和四十九年に有志の手によって行なわれています。ちなみに、「解体新書」の翻訳者である前野良沢の娘が小嶋寶素の母でした。良沢は老後、寶素の家に引取られて没しています。

立之が帰参した翌年、抽齋は将軍家慶(いえよし)に謁見しています。これで目見得医師になったわけで、これ以降、将軍に何かあったときには、治療にも参画することになります。もっとも、そんな機会はありませんでした。ただし、これは大変な栄誉なので、澀江家では大勢を呼んで祝宴を開かなくてはなりません。そのために抽齋は、家まで建てなおしています。また、料理、引き出物、方々に配る祝儀などに百数十両の費用がかかる予定でしたが、主君の津軽家から出た金員はたった三両だったと「澀江抽齋」には書いてあります。不足分は妻の五百が、衣類・寝具・首頭の飾りを売って三百両をつくりました。こうした才女ぶり、決断と気風のよさには鷗外も惚れこんだと見えて、この辺りの筆は冴えています。

この三年後に、伊澤家当主である榛軒が四十九歳で病没しました。この時、榛軒の治療にあたったのは弟の柏軒や山田椿庭などの伊澤門下の医師たちでしたが、医学館の多紀茝庭とともに立之も他の治療法がないかを議しています。この三年後、立之四十八歳の年には、晴れて医学館の講師となり、また阿部正弘(幕府老中首座)公にも謁見しています。医学館では「金匱要略」(唐代の医書)と「神農本草經」の講義を担当しました。これまで私は、妻の勝を良く書きませんでしたが、この時は夫の受けた沙汰状(任命書)をもって伊澤家を訪れ、榛軒の位牌の前に置いて泣いたと鷗外の「伊澤蘭軒」にはあります。

<多紀茝庭…藤浪剛一『医家先哲肖像集』所載、Webサイト Wikipediaより。 早熟の人で、後漢のころに成立しながらも、唐代に大幅に手を加えられ、元の姿が全く分からなくなってしまっている「素問」も、復元できるのではないかと言ったという。幕末の医学館の校刻事業を精力的に行なった>

 
 
多紀サイ庭・森立之小伝
 
 
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