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森立之小伝
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〈  森立之小伝   十   幕 末 〉

 

さて、立之が「攷注」のシリーズを次々に完成させていた時期は、文久、元治、慶応と、幕府も断末摩の時期でした。立之は五十八歳で医学館の講書の労を多とされ、月俸を賜るようになりました。この年、息子の約之(のりゆき、二十九歳)も、医学館に列席して学びはじめています。

立之が業績をつぎつぎと現わしてゆく傍らで、書物に対する飽くなき執着が最高潮にまで昂じていったのもこの時期でした。書誌学者として森立之のことを綿密にしらべた川瀬一馬は「この頃立之は懐之(狩谷棭斎の嗣子)の許から、既に殘り少なくなつてゐた狩谷棭斎遺儲の善本をしきりに搬出してゐたものであらう」と推測の形ではありますが、狩谷氏所蔵の書物を多く持ちだし ていたと述べています。森鷗外もこの頃のこととして「安政三年以降、抽齋の時々病臥することがあって、其間には書籍の散佚することが殊に多かった。又人に貸して失った書も少なくない。就中森枳園と其子養真とに貸した書は多く還らなかった」と書いています。失
禄して足かけ十二年も相模の野を彷徨ったというのに、こうした風はまったく治っていなかったのです。

抽齋の嗣子・保(たもつ)は、父・抽齋が死んだときわずかに二歳でしたが、長ずるに及んで、父の畏友を知るようになります。立之も澀江家を継ぐ子として、保に親身に接するようになりました。保は当時の森父子のことをよく覚えていて、「森枳園傳」として書き記しています。いわく、立之は色の白い、目の大きい、鼻のスーッとした中々の美男子であった。しかし惜しいことに小男で、みすぼらしい人で、貧乏ゆすりをするのが癖だった・・・

また曰く、私が森父子を知ったころ二人は揃って古本屋めぐりをし、そのついでによく私の家に寄った。父子はあたかも学友のごとく、家にいれば相対して研究し議論し、また連れ立って珍本の掘り出しのために歩いた。息子の約之は父親とちがって大男で、色黒く品も悪く、気忙しい態度が目障りだった。ことに体をもじもじさせながら、「えっ、左様、左様」と早口に言いつづけるので、こちらも落ちつくことができなかった。私の母(五百 ゐほ)も「よくあれで勉強ができるものだ」と訝しがったものだった。

また、これもぜひ書いておかなければならないと思われるのは、立之は乳の味をたいそう好んで、抽齋の家で乳母を雇ったおりには、立之を呼んで乳の試験をさせるほどだったということです。立之は「またうまいものが無銭で飲める」と小躍りしてやって来て腹いっぱい飲むので、抽齋がたしなめたということです。抽齋が戒めたのですから、呼んだのは妻の五百だったのではないか。五百が抽齋と結婚した後のことですから、立之はどんなに若かったとしても四十近くになっていたはずです。立之は、なにしろ七、八歳まで母親の乳をのんで育ったということでした。

さて立之が心血をそそいだ攷注各書ですが、「傷寒論攷注」が成ったときは、すでに慶応四年春、官軍が江戸におし迫っていました。立之は医学館で「傷寒論」を講義していましたが、二月にはこれも中断となりました。三月に「傷寒論攷注」を書き終えていますが、その後書きにはこうあります。「慶応四戊辰の年三月二十三日(現歴四月十五日)。近日、官軍の諸卒も、すでに都下に入ったので、近隣も寂寥として、細雨は蒙昧としている。満目の春色がかえって秋色の如く覚えられる」(原文は漢語文)

六月、官軍との戦争で手負い人の救護所となっていた江戸医学館も、ついに閉館となりました。明治改元は同年の九月です。医学館に最後まで残ったのは、立之・約之父子のほか二名だけでした。薩長方からは、希望する医師があれば、その人柄に応じて採用する旨の通達がありましたが、四人は当然のこととしてこれを一蹴しています。

立之も江戸にいては危ないと感じて、息子の約之夫婦とともに福山に身をよせて、七月、城南の医者町に居をさだめました。この時の西下は船旅で、江戸時代も明治との境になると、一般人も蒸気船で船旅をしたことが分ります。約之の妻は、大槻磐渓の娘・陽です。磐渓の子に文彦がいて、明治の国語辞書「言海」を書いています。

同じころ、澀江保も弱冠十二歳でありながら澀江家当主として、慶応四年四月、江戸・亀沢町の自宅・土地三千坪をわずか四十五両で売りはらい、祖藩の地、弘前をめざして江戸を出ました。もっともこの旅を現実に宰領したのは、母の五百でした。家族はその五百(53歳)のほか、陸(23歳)、水木(16歳)、専六(15歳)。それから異母兄で矢嶋家に養子に行った優善(34歳)。これに若党二人がしたがい、また同藩の矢川文一郎(28歳)、浅越玄隆(31歳、表医師、抽齋門下)の一家が同道しました。

この他、澀江家には抽齋の代から出入りしている飾物屋、鮓屋などがあり、また弘前までの遠路を歩くことのできぬ老尼などもいたので、こうした人たちの身の振り方を決めるという難題もありました。これを一手に采配したのも五百で、保の母という人はそれだけの決断力、胆力がそなわっていた人だったのです。江戸から弘前まで、秋田一藩をのぞいて敵地ばかりという旅をつづけて、弘前手前の碇関(いかりがせき)の関所まで来たときに、あれが津軽富士といわれる岩木山だと指さす人があった、その麓が弘前の城下だときいた五百は、涙がこぼれたと「澀江抽齋」にはあります。

〈 澁江保自筆、鷗外の綴装による「森枳園傳」 東京大学総合図書館所藏、Webサイト 「鷗外文庫」よりhttps://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/008d386c-9e2a-4b69-b907-9073228b1bb8
立之は号して枳園と名乗った。いまではこうした文献も、インターネット上で見られるようになっている 〉

 
 
澁江保・森枳園傳・森立之小伝
 
 
 
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