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〈  森立之小伝  十四  立之・抽齋の「經籍訪古志」と楊守敬 〉

 

 

明治になって十余年、江戸の末期に輝かしい業績をあげた医家たちは、荒波に翻弄されつづけていました。維新当時は、皆いったんは故藩に帰りましたが、しばらくすると再び上京しました。江戸の世も明治の世も個人でなく、家の時代です。それぞれに自らの家の再興をこころがけますが、森家、伊澤家の福山藩、澀江家の弘前藩はともに幕府方でしたので、再起の目途はたちません。おまけに明治政府は医療制度に西洋医学を採用したため、漢方医の立場はますます悪くなりました。

立之もさまざまに官員として身を持そうとしますが、しばらく勤めると免ぜられました。明治十二年、大蔵省印刷局に出仕することとなりました。そんな折に、変わった客が立之のもとを訪れました。清の人で名を楊守敬(ようしゅけい)といい、在日清国大使・何如璋(かじょしょう)の随員として明治十三年に来日した文人でした。

楊守敬は能書家であり、もともと金石学(金属器、石刻の銘文の研究)に通じていましたが、来日当時には書誌学にも開眼し、中国本土で亡失された書籍が日本に多くあることを知って、その購入に務めました。一万数千といわれる膨大な拓本・法帖・古銭・古印などとともに来日し、日本では一年足らずのあいだに三万巻あまりの書籍を集めたといいます。その手引きとなったのが、抽齋と立之が編集した「經籍訪古志」でした。

森立之の業績として「素問攷注」や「傷寒論攷注」、「神農本草經」とならんで、いま一つ触れておかなければならないのが、この「經籍訪古志」です。書物は少し目を離せば、瞬く間になくなるものと見えて、江戸の蔵書家たちは書籍の逸散に心をいためました。なかでも蔵書家が死ぬと、とたんにその蔵書は無くなったので、多紀元堅は、抽齋と立之に命じて日本に現存する書籍の目録である「經籍訪古志」をつくらせました。

「經籍訪古志」を見ると、「論語」ならば刊本(印刷本)から抄本(手で書き写した本)まで二十六本が載せられています。寺田平氏(薩摩)の所有する静節山房にある刊本の論語、足利学黌の抄本、京都錦小路家の抄本、栂尾の高山寺の巻子抄本、狩谷(棭斎)氏・求古楼の摺本、幕府の楓山文庫の抄本などなど全国の蔵書について、巻数はもとより、印行・抄写の年月、序文は誰が書いたかまで調査してあり、気の遠くなるような仕事です。

全国的な調査をどのように行なったのか明確には分りませんが、狩谷棭斎という人は、生涯に四度、関西、広島にまで足をはこんで、碑文や社寺に蔵されている文書や古書籍を調査しています。また京都の宮廷人、医家の門人となって、家藏の古書籍を筆写しています。そうした成果を、多紀元堅は「經籍訪古志」として抽齋・立之にまとめさせようとしたのだと思われます。

いくら元堅の命令でも二人にとって完遂までは遠い道のりでしたが、それでも多紀元堅の督促が追いかけてきたので、小嶋寶素の子・抱沖や伊澤柏軒も協力することになりました。そして安政四年(1857年)、ようやく稿は成りました。この稿を改めること三度にして「經籍訪古志」六巻は完成したとあります。しかしこれは日本で印刷されることはなく、小嶋抱沖、森約之(立之の子)と抽齋の三人が、それぞれ写しを持っていました。明治十八年になって、清の姚子梁がこの中のいずれかを得て刊行したのです。

立之を尋ねた楊守敬も、写しを一本持っていましたが、誤りの多い盗写本でした。楊守敬は、立之にこの校正も依頼しましたが、それよりも狙いは、この「經籍訪古志」の編者である立之に、日本に現存して清では失われている書籍を集めてもらい、買い取ることでした。
明治十四年一月、楊守敬は客として立之の自宅を訪れました。意思の疎通は筆談でしたので、立之は両者の書いたものを「清客筆話」と題して残しておきました。これは現在、慶応義塾大学に所蔵されています。

はじめに楊氏が「先生(立之)は小学(考証学)に精(くわ)しく、収蔵なさつている古書も甚だ富(おお)いということで、何としてでもと思い、拝謁を得るために参りました」とあります。これに対して立之は「今は大半を估却(うりはらう)してしまい、珍書(よい本)は多くありません。ただ九代目の医者であるだけで、故經や史類が最も少ない。年七十五にして子孫もなく、やむを得ず貧しい小官暮らしをしているだけで、恥じ入ります」と応えています。

その後、楊守敬は十五年十二月まで、二年にわたって何度も立之宅へやってきて書物を打ってくれるように依頼します。二人は互いに筆談で用件を弁じていたので、立之の留守中に楊守敬の訪れることがあると、家人は文言不通で大騒ぎをしたのだと、当時応対に出た孫娘の鐄は、その時でも困じ果てたような顔をして、川瀬一馬に物語ったということです。

〈 楊守敬の名刺・・・実寸18.6cm×7cm で、添書きがしてあり「頓首今日謁城拝謁不遇為悵。約於明日三時再詣府。幸勿他出為禱。枳園先生閣下」とある。初めて来訪した時、立之は留守だったようで、明日三時にもう一度参ります、他出ないことを禱(いの)っております、とある。『書論』第26号所載 〉

 
楊守敬名刺・森立之小伝
 
 
 
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