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森立之小伝
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〈  森立之小伝  十三  東京集合 明治六~十年 〉

 

 

澀江抽齋の子・保は師範学校に入学して官費の給付を受けると、それを元手に明治五年、母・五百を東京に呼びよせました。立之は明治六年に、家族を福山より呼んでいます。立之の娘・娘・鑛(こう、十五歳)、柳(りゅう、十三歳)、鑛の夫・亀三郎(十八歳)、そして亡き息子・約之の妻・陽が神田元岩井町の家に着いてみると、立之のうしろに慣れた様子の女性がいます。名を百合といい、妻であることを告げられて一同は驚愕しました。

明治六年当時、立之は正名学舎という名の私塾をひらいています。月謝五十銭で、授業は平日八~十一時、三~六時、土日は休講でした。学舎とはべつに発句、漢詩、動植物の鑑定、不詳文字の回答、著作の序跋などなど、およそ文と文字にかんすることは、何でも請けおっています。また、ときおり盲人が針術にかんする講話を聞く会が催され、二、三十人ばかりが立之の宅へ集まることもありました。玄関口に雑然と履物を脱ぎすてるのですが、帰りは出口でひしめき合うのに、他人の履物を誤ることがなく、立之も家人も、ともどもに感心したということです。 立之はまた、實母散で有名な木谷家や、眼科医の桐淵家などの個人宅へも、よく講義に出向いたということです。

また文部省に十等で出仕しはじめ、その後、朝野新聞に寄稿、医学校の編書課、工学寮(のちの工部大学校)本朝学課長として講義を担当しました。明治政府は産業育成に力を入れ,工部省を設置しましたが、この工部省は明治四年に,高級技術者の養成機関として工学寮を設立しており、ここに勤めを得たものです。

明治八年、ながい無沙汰を詫びるように、立之の書簡が、福山の伊澤棠軒にとどきました。いわく、「蘭軒醫談」を上梓しました。「蘭軒遺稿」の下書きをしてくれた梶原平兵衛もすでに亡くなり、やむを得ず自分の手で書き、彫版しました。ほかに「以呂波字原考」、「詩史顰」をともに上木しております。抽齋の師であった市野迷庵の家はまったくの音信不通で、狩谷の家も、棭齋の名はだれもが知っていたが、現当主・矩之(くし)の名も、迷庵の名も、だれも知らない世の中になりました。この「蘭軒醫談」だけでも世に出せば、学恩に報いることにもなろうと、拙筆を以て刊行仕候云々。

この頃、立之の知友で、文部省に九等十等で出仕するものが多くありました。立之の知友ですから、みなみな相当の学者です。それがせいぜい平役人程度の給金で雇われているのですから、立之はおおいに腹を立てていました。保をつかまえると、鴨鍋や泥鰌鍋を食べながら「堂々たる学者が、四五十圓の月給にくびられているのだぞ」と、議論をしかけたといいます。その様が説教でもなく、愚痴でもなく、友に吹きかける議論とかわらなかったと、保は鷗外に話しています。

反対に、維新を機に、迷うことなくいち早く官吏になったものは、明治八年の頃には出世していました。保の実兄であり、矢嶋家に養子にいった優善(やすよし)や、伊澤家の門人であった鹽田良三(しおたりょうさん)などがそうでした。矢嶋優善は、立之とならんで抽齋の蔵書をおおく市中に売りながした張本人で、一時は父・抽齋に座敷牢にまでとじ込められましたが、維新後は浦和県の典獄(刑務所長)となりました。保が上京してまもなく、優善のもとを訪ねてゆくと、県境にまで迎えの駕籠がきており、その駕籠が戸田の渡船場にさしかかると、そこの役人が土下座したとあります。

さきの手紙が棠軒にとどいて間もなく、棠軒は病没しました。明治八年、棠軒四十二歳、立之六十九歳、棠軒の嗣子・徳(めぐむ)は十七歳でした。徳も二年後に上京し、母を東京にむかえましたが、この明治十二年、立之の後妻・百合が没しています。その後は、家族とはなれて日本橋坂本町にうつり、女中として、きよがやって来ました。ふたたび水谷町で家族と同居するようになり、きよを免じて、とめを女中に雇っています。とめは、その後、菊と改めさせられ三年ほど立之のもとにいましたが、のちに婚嫁。菊のあとには、そよが来るという忙しさです。

百合が没した明治十二年には、山田椿庭(ちんてい)と温知社を結成しています。椿庭も伊澤門下の医家で、維新前後は故郷の高崎にひき下がっていましたが、明治七年にふたたび上京し、神田五軒町に済衆病院を設立しました。この病院は、時勢に反して漢方治療をおこなう病院で、椿庭のこころざしは漢方復興にあったのです。明治政府は八年、医師開業試験に西洋医学のみを採用したため、全国の漢方医がこに反発しました。東京にあって、この反対運動の先頭に立ったのが山田椿庭の温知社で、同門の立之もこれに加担したのです。

立之の生活は川にながれる木の葉のようでした。文部省、医学校編書課、工学寮本朝学課長はいずれも免ぜられ、明治十二年、大蔵省印刷局に出仕することとなりました。局長ははじめ月俸は八十円だといいましたが、転職に疲弊した立之は四十円でよいから飼い殺してくれと申し出て、そのままこの願いは聞き届けられました。

< 明治時代の東京・・・国立国会図書館所蔵写真帳「写真の中の明治・大正」より >
https://www.ndl.go.jp/scenery_top/

 
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