素問・鍼解篇第五十四を読みすすめるうちに、諸注家の記す注がひどく混乱していることに気づいた。それは取りも直さず鍼解篇自体が混乱しているからであり、そこへ無理に注を付しているからである。
が、中にはきちんと原義をとらえて間違いのない注を書いている注家もいる。
また中には、臨床の経験がないために単純なことに気がつかないのではないかと思われる注家も、その反対の者もいる。
悪趣味と思われても致し方ないが、このようなドタバタ劇は滅多にないのではないか。ここにその顛末を記しておこうと思う。
各々の注は森立之『素問攷注』から拾った。 |
霊 枢・九 鍼 十 二 原 |
素 問・鍼 解 篇 |
(5) 大要曰、徐而疾則實。 |
5 徐而疾則實者徐出鍼而疾按之。 |
『大要』には実法と虚法について、鍼をゆっくり刺し、すばやく抜けば、実せしめることができる(実法)と書いてある。 |
ゆるやかにして、素早くすれば実せしむとは、ゆるやかに鍼を抜いて、素早く鍼孔を
按ずるのである。→不可從 |
(6) 疾而徐則虚。 |
6 疾而徐則虚者疾出鍼而徐按之。 |
刺鍼を早くし、抜鍼をゆっくり行なえば、虚せしめることができる(虚法)と書いてある。
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素早くして、ゆるやかに行なえば虚せしむとは、素早く鍼を抜き、ゆるやかに鍼孔を
按じて閉じるのである。→不可從
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(5)、(6)を説いた霊枢・小鍼解の解は各々次のように書いてあり、これが正しい。
「徐而疾則實者、言徐内而疾出也」
徐にして疾なれば実せしむというのは、鍼をゆっくり刺して早く抜くということだ。
「疾而徐則虚者、言疾内而徐出也」
疾にして徐なれば虚せしむというのは、鍼を素早く刺してゆっくり抜くということである。
鍼解篇 5、6には各注家が各自の説を述べており、くだくだしいが読めば興味深いので記しておく。
【5の注】実法(補法)
楊上善「寫法、除(徐)出鍼爲是。只爲疾按之、即耶氣不洩、故爲實」
寫法は鍼を徐やかに抜くのである。只だ、素早く按さえれば、気は洩れないので實となる。寫法のことを述べていると分っていながら、結果は実せしめると述べている。 →不可從
馬元台 「此補法也。『小鍼解』云『徐而疾則實、言徐納而疾出也』則以入鍼爲徐、而不以出鍼爲徐、與此解不同」
これは補法のことを言っている。「小鍼解」では「徐にして疾なれば実せしむというのは、鍼をゆっくり刺して早く抜くことを言っている。鍼を入れる時は徐(ゆるやか)に、抜くときは徐かならず」と説いていて、素問・鍼解篇とは違っている。
小鍼解が正しく、鍼解篇が間違っているのであるから、この通り。 →可從
【6の注】虚法(瀉法)
楊 「補法、疾出鍼爲是。只田(當作由)徐徐不即按之、令正氣洩、故爲虚也」
補法は素早く鍼を抜くのである。ただゆっくりと時間をかけて鍼孔を押えない(開いたままにしておく)ために、正気が洩れて虚となる。
補法だと分っていながら、結果は虚となると言っている。 →不可從
馬元台 「此寫法也。『小鍼解』云『疾而徐則虚者、言疾納徐出也』、亦與此不同」
これは寫法のことで、「小鍼解」では「疾にして徐なれば虚せしむというのは、鍼を素早く刺してゆっくり抜くということである」と説明しており、またこれも素問・鍼解篇とは違っている。 →可從
他のところでは素晴らしい切れ味の注を書いている楊上善を思うと、考えられない外し方をしている。臨床の経験がなかったのかと思われる。 |
(7) 言實與虚、若有若無。 |
7 言實與虚者寒温氣多少也。
8 若無若有者疾不可知也。 |
実と虚とはどんな状態かと言えば、実とは気が有るがごとくになり、虚とは気が無くなったごとくになる。
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実と虚について言えば、冷えている(虚)か温かい(実)かは、気の多少によるのである。
無いようでもあり、有るようでもあるとは、病を知ることができない状況を言っているのである。 |
なぜこんな的外れな注釈をしているのかと言えば、九鍼十二原の(7)を二つに分けて、それぞれに注を付けているからである。
この混乱は11までつづき、素問・宝命全形論についての注でも、20~22で同様のことが起きている。
不思議なのは鍼解篇のこの誤りに言及している注家がいないことで、唯一正しい解を得ている馬元台も指摘していない。それほど素問の条文というものが神聖視されていたということだろうか。
霊枢・小鍼解は、いうまでもなく霊枢本文に対する注なので正確である。
「言實與虚若有若無者、言實者有氣、虚者無氣也」
実と虚について言えば、有るが若く無きが若しとは、実は気が有り、虚は気が無いということである。→可從
【 7 注 】
王冰 「寒温謂經脈陰陽之氣也」
寒温は陰陽の気によるものである。→不可從
楊「言寒温二氣偏有多少、爲虚實也」
寒温の二気は多い少ないの偏りがあり、これが虚実をもたらす。→不可從
馬「鍼下寒而氣少者爲虚、邪氣已去也。鍼下熱而氣多者爲實、正氣已復也」
刺した鍼の下が冷えて感じるのは気が少なく、これが虚で、邪気が去ってしまっているのである。鍼の下が熱く感じるのは気が多く、これが実で、正気が戻ってきたのである。→可從
呉昆「寒爲虚、温爲實。氣少爲虚、氣多爲實」
冷えているのが虚で、温かいのが実である。気が少ないことを虚していると言い、多いのを実していると言う。→可從
呉昆の注が過不足なく、事実を正確に言っている。馬氏も寒・熱について触れているが、5、6で小鍼解を引いて正確な解を得ていたのに、ここでは素問の条文7、8に引っ張られているのが不可解だ。
王氏、楊氏は7、8に則して、陰陽の気について説いているが、九鍼十二原(7)は寒・温の気については触れていない。
【 8 注 】
王冰「言其瞑昧不可即而知也。夫不可即知、故若無、慧然神悟、故若有也」
瞑昧ですぐには分らないということを言っている。すぐには分らないから無いように感じるのであり、慧然として悟ることができれば有るように感じるのだ。→不可從・・・〔8に対する非常に好意的な解釈であり、王冰のような解釈が後世の注家を迷わせるのではないだろうか〕
楊「言病若有若無、故難知也」
病が有るようでもあり無いようでもあるが故に、知り難いということを言っている。→不可從 8をそのまま言い換えただけなので、なおいっそう外し方がひどく感じられる。それもかつての楊上善の優れた筆致を思い出せばこそである。
馬「其寒温多少、至疾而速、正恍惚於有無之間、眞不可易知也。小鍼解曰、『言實與虚、若有若無』者、言實者有氣、虚者無氣也」
寒温が多くなったり少なくなったりするのは例えようもなく速い。正に有無の間を恍惚としているようなもので、簡単には知ることができない。小鍼解は「言實與虚、若有若無」とは、実とは気が有るがごとくになり、虚とは気が無くなったごとくになるということだ、と説いている。 →可從 前半の文は素問に対する気づかいなのだろうか。「小鍼解曰」以下を書いておけばよいはずである。
霊枢・邪気藏府病形には下のようにもある。
霊・邪気藏府病形「正邪之中人也微、先見干色、不知干身、若有若無、若亡若存、有形無形、莫知其情」
正邪(すぐ前に書いてある「虚邪」に対してこう言っている)が人に入った当初は微(かす)かなもので、まず顔に現れるが、身体には感じられない。有るがごとく無きがごとく、亡くなったようだがまだ存るようでもあり、どうなっているか分らない。
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(10) 爲虚與實、若得若失。 |
10 爲虚與實者工勿失其法。→不可從
11 若得若失者離其法也。→不可從 |
虚法と実法を行なえば、気を得るが若きであり、失(な)きが若きである (気を得ることも失くすことも自在である)。
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虚と実をなせとは、鍼工に補寫の法を間違いなく行えと言っているのである。
得たごとくあるもの(実)を、失った(虚の)ようになるのは、その法に離(そむ)いているからである。
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ここも九鍼十二原の前半と後半に、各々別の解を付けているので、意味が通じない。
ここでも小鍼解は正しい解を得ている。
「爲虚與實若得若失者、言補者佖然若有得也。寫則怳然若有失也」
虚と実をなせば得るが若く失うが若しとは、補えば一杯に満ちるほど得た若くになり、寫せばぼんやりして気が抜けた若くに失うということである。 →可從
【 10 注 】
楊「刺虚欲令實、刺實欲使虚、工之守也」
【 11 注 】
楊「失其正法、故得失難定也」 其の正法を失うが故に、得失も定め難き也。
馬「『爲虚與實』者、言醫工實則虚之、勿失補寫之法也。『若得若失』者、言醫工自離其法、誤施補寫。若有所得、其實若有所失也。小鍼解曰『爲虚與實、若得若失』者、言補者、佖然若有得也。寫則、怳然若有失也。義與此亦異」
「虚と實とを爲せ」とは、醫工、實なれば則ち之を虚し、補寫の法を失うこと勿れと言ふ也。「若得若失」とは、醫工、自ら其の法に離(そむ)き、誤りて補寫を施すを言ふ。得る所有るが若きを、其れ失ふ所有るが若くに實する也(実なのに、失う所がある<虚>ように實せしめるような誤治をするのである)。小鍼解に曰く『爲虚と實とを爲せば、得るが若く失ふが若しとは、補へば、佖(ヒツ、いっぱいになる)然として有得するが若き也。寫すれば則ち、怳(キャウ、ぼんやりと)然として失の有るが若きを言ふ也』
義(素問・鍼解篇の義)と此(小鍼解の義)と亦た異れり」→可從
ここも馬元台は九鍼十二原の原義にたどり着いているのに、鍼解篇に無用の気づかいをしているように見える。 |
(12) 虚實之要、九鍼最妙。 |
12 虚實之要九鍼最妙者爲其各有所宜也。 |
虚法と実法の要については、われわれの称揚している九鍼が最もすぐれている。
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虚せしめ実せしめる治療には、九鍼が最も妙を得ているとは、九鍼が各々に適宜の働きを持っているということである。
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12 王冰「熱在頭身、宜鑱鍼。肉分氣滿、宜員鍼。脈氣虚少、宜鍉鍼。寫熱出血、發泄固病、宜鋒鍼。破癰腫、出膿血、宜鈹鍼。調陰陽、去暴痺、宜員利鍼。治經絡中痛痺、宜毫鍼。痺深居、骨解腰脊節腠之間者、宜長鍼。虚風舎於骨解、皮膚之間、宜大鍼。此之謂、各有所宜也」
ここでは王冰がきわめて実際的な注をほどこしている。この注文を見るかぎり、王冰自身も治療の上で九鍼を使いこなしていたか、九鍼に熟達した者の治療を見ていたと考えられる。
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(18) 深淺在志、遠近若一。
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18 深淺在志者知病之内外也。
19 近遠如一者深淺其候等也。 |
患者の深く浅くに志を在らしめれば、遠近なく一所に病態が見える。 |
深くにも浅くにも意志を行き届かせられれば、病が内にあるか外にあるかを知ることができる。 〔「病之内外」は未詳〕
近遠を一なるが如くできれば、気の至るきざしなどを深くあるいは浅くに探ることができる。
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ここも鍼解篇は、宝命全形論の一文を前後に分けて説いているので、少々ちぐはぐな解となっている。
18 王冰「志一爲意志、意皆行鍼之用也」志を一にして意志と爲せば、意は皆な鍼の用に行なう也。
19 王冰 「氣雖近遠不同、然其測候、皆以氣至而有効也」 気の遠近は同じならずと雖も、然れども其れ候い測るに、皆気の至るを以てせば、有効なり。
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素 問・寳 命 全 形 論 |
素 問・鍼 解 篇 |
(20) 如臨深淵、手如握虎、神無營於衆物。 |
20 如臨深淵者不敢墯也。
21 手如握虎者欲其壯也。→不可從
22 神無營於衆物者靜志觀病人、無左右視也。 |
深淵に臨むがごとく、手に虎を握るがごとく、治療の際には精神を惑わせてはならない。 |
深淵に臨むが如しとは、絶対に墯ちるなということである。
手に虎を握るが如しとは、勇壯であれということだ。
神を衆物に營(まど)はすこと無かれとは、志を靜かにして病人を觀、左右視するなということである。
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宝命全形論(20)に明らかなように、深淵に臨む時のように、虎を捕まえている時のように、精神を集中せよと説いているのである。20の「不敢墯」は正しいが21の「欲其壯」は間違っている。
もとは一つの文であったものを三つの節に分けて、それぞれに対する解を求めたため、このような誤りが起るのである。
20 王冰「氣候補寫、如臨深淵、不敢墯漫失、補寫之法也」
気を候って補寫するときには、深淵に臨むように、絶対に補寫法を漫失するようなことに墯ちてはならない。
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霊 枢・九 鍼 十 二 原 |
素 問・鍼 解 篇 |
【第三部】<三>(23a) 持鍼之道、堅者爲寶。正指、直刺、無鍼左右。神在秋毫、屬意病者。
【第六部】<三> (23b) 觀其色、察其目、知其散復。一其形、聽其動靜、知其邪正。 |
23 義無邪下者欲端以正也。必正其神者欲瞻病人、目制其神、令氣易行也。
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鍼を持つ要諦は、堅きを宝とする。指を正し、まっ直ぐに刺し、鍼を左右に動かしてはならない。神経を微妙なものに感ぜしめ、気持ちを病人に属(あつ)めよ。
其の色を觀、察其の目を察して、其の散復を知れ。其の形を一にし、其の動靜を聽き、其の邪正を知れ。 |
義しく邪(なな)めに鍼を下さぬようにするには、端生でなければならない。
必ず精神を正し、病人を瞻るには、治療者の目が(自分の)精神を制していると分らなければならない。そうであれば、気を易く行らすことができる。
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ここもきちんと九鍼十二原に相対しているわけではなく、どの部分があてはまるかと言われればここだろう、という程度である。しかしながら、歴代の諸注家も同じ部分に着目しているので間違いでもないだろう。
23 王冰「正指直刺、鍼无左右」指を正しまっ直ぐに刺せ、鍼を左右させるな。
23 王冰「検彼、精神令无散越、則氣爲神使中外易調也」病人を検するには、精神を散越させぬようにせよ。そうすれば神を中外に易く調えしむことができる。
→可從
馬元台「義無斜下者、言正指直鍼、欲端以正、而無偏斜也。必正其神者、病人之神也(ここのみ難從、病人の神ではなく術者の神)。欲瞻病人目、制其神氣、使之専一、令病人之氣易行也」
→おおむね可從
馬氏は22の「神」を医工の神と読んだので、ここを病人の神と読んだようである。
楊上善「不自御神、爲義耶下」 →不可從
自ら神を御さざらば、義(容儀)は耶下とならむ。
王冰、馬元台は「義」を正しいと読んでいるのに対して、楊上善は「容儀」の意味にとっている。従いがたいが、久しぶりに楊氏らしい解にスカッとする思いがある。
森立之も楊説の立場をとっている。
森立之「此注依王説、諸家皆同、非是。楊注以爲醫者之神、可從」
馬元台の言っていることは王冰に依拠していて、他の諸注家も同じであり、間違っている。楊氏だけが医者の神としており、正しい。
森氏は「検彼、精神令无散越」を「検彼精神、令无散越」と読んだのだ。馬氏は私が指摘した部分のみ間違っているにすぎない。問題は、前項に書いたように、王冰の注を諸家が重みのある辭として扱っている点だろう。「依王説、諸家皆同、非是」という辭には、森立之の悔しさのようなものが滲み出ている。
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【第八部】<三>
(24) 陰有陽疾者、取之下陵三里。
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24 所謂三里者下膝三寸也。
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(24) 陰に陽病があるものは、これを足の三里に取れ。 |
24 三里は、膝を三寸下ったところである。
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王冰の24に付した注である。
「三里穴名、正在膝下三寸、胻外兩筋肉分間。極重按之、則足跗上動脈止矣。故曰舉膝分易見」三里は穴名で、正(まさ)に膝を三寸下ったところ、胻(すね)の外側の二つの筋の間にある。ここを極めて強く圧すと、足背の動脈が止まる。故に膝を挙げると、かんたんに現れる所と書いてある。
「ここを極めて強く圧すと、足背の動脈が止まる」は、九鍼の注 ⇒ とともに、王冰の深い臨床経験がよく現れている。
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(25) 九鍼十二原に対応する条なし。 |
25 所謂跗之者舉膝分易見也。 |
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いわゆる跗上とは、膝を挙げると、その下方の筋肉の間に、たやすく現れる所である。 |
新校正の注には、素問・骨腔論によれば「跗之」は「跗上」だとある。→可從
24、25 楊上善「言三里付陽穴之所在也。付陽穴在外踝上三寸、舉膝分之時、其穴易見也。又付三里所在者、舉膝分其穴易見也」
三里穴と付陽穴がどこにあるかについてである。付陽穴は外踝上三寸で、膝の分かれ目を挙げたときに、すぐ見つかる。また付三里穴も、膝の分かれ目を挙げたときに、容易に分る。→?
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九鍼十二原に対応する条なし。 |
26 巨虚者矯足胻獨陥者、下廉者陥下者也。 |
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巨虚は脛を上げると窪んで見えるところで、下腿の陥下している部分である。 |
26 王冰「矯謂舉也」
「矯」キョウ 曲がったものを真っ直ぐにする、上に持ち上げる。
24、25、26 多紀元簡が霊枢・「邪気藏府病形篇」に「三里者、低胻取之、巨虚者、舉足取之」と書いてあると説明している。
この霊枢の一文で煩雑な議論に決着がつく。加えて「挙膝分」というのも、椅子に座って膝関節を伸ばすのか、立って下肢を下垂させた状態で膝を曲げるのか、膝を曲げたまま肉の分かれ目の端を膝蓋骨側に引き上げるのか、さっぱり分らなかったことが、椅子に座って膝関節を伸ばすことだと分った(巨虚者、舉足取之)。三里は「低胻取之」だから、椅子に座って膝下を垂らしたまま取穴するのである。
元簡先生の同様のスマッシュヒットは素問・刺腰痛篇の「直陽之脈」にもあり、頼もしい。
ただ「九鍼十二原」は篇字も論字も付けない古経だと書いておきながら ⇒、ここには「邪気藏府病形篇」と書いてしまっている。
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