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< 後 半 >
 

< 付 記 >
 
< 霊枢による
九鍼十二原の解説を
検証する >
< 鍼解篇前半を検証 >
< 鍼解篇・後半 >
< 鍼解篇 諸注家混乱 >
 
2023.01.24 【第四部】<二>の題目を「気は経脈のどこにあるのか、また病処の深さによる用鍼の適宜」と変更しました。
2023.01.17 「九鍼之名、各不同形」の訓みと解釈を変更しました。
2023.01.04 【第二部】<三>を訂正しました。
【第三部】<一>の通釈を一部訂正しました。

徹底検証・靈樞 九鍼十二原・前半

 霊枢の第一に掲げられている「九鍼十二原第一」は、古来非常に重要な篇として扱われてきた。実際に更めて読んでみると、我々が日々鍼治療の上で経験していることや、心に銘ずべきであるのにいつの間にか忘れてしまっていることなどが具さに述べられていて、赤面する思いがある。鍼治療というものが、患者の気を扱うものだという、基本中の基本がくり返し述べられている。
 最近では日本内経医学会の宮川浩也先生が、『季刊内經』に霊枢のダイジェストとして論じておられ(※)、九鍼十二原についても、古来の諸注を広汎に引きつつ、新しい視点から解釈しておられる。
 私の訓読会でも、会員からの熱心な要望に圧されて当篇を読むことになったが、澁江抽齋『霊枢講義』と並行して、宮川先生の最新の研究を参考に読み進めることにした。
 本文テキストは、四部備要版(臺灣商務印書館本)に拠ったが、所々澁江抽齋『霊枢講義』(酌原堂所蔵・明刊本)にしたがい、また甲乙經、太素などからも補って読み、そのつど括弧内に注してある。
※『季刊内經』No.221,2020年冬号から。「九鍼十二原」についてはNo.222~No.226

 

多紀桂山「本經は多(まさ)に篇字、論字を下さず。乃ち古書たる所以なり」

【第一部】
 <一> 黄帝が歧伯に微鍼を以てする萬民の治療を求める

黄帝問於歧伯曰、余子萬民、養百姓而収租税。余哀其不給(終_太素)而屬有疾病。余欲勿使被毒薬、無用砭石。(欲以_酌原堂明刊本)微鍼、通其經脈、調其血氣、營其逆順出入之會。令可傳於後世、必明爲之法。令終而不滅、久而不絶、易用難忘、爲之經紀、異其(篇_太素)章、別其表裏、爲之終始、令各有形、先立鍼經、願聞其情。

黄帝、歧伯に問ふて曰く、余、萬民を子とし、百姓を養ひて租税を収めしむ。余、其の終らざるを哀れみ、疾病有るを屬(恤-あはれ)む。余、毒薬を被らざらしめ、砭石を用いざることを欲す。微鍼を以て、其の經脈を通じ、其の血氣を調へ、其の逆順、出入りの會を營さむことを欲す。後世に傳へしめ、必ず明に之を法と爲さむ。終にして滅びず、久しく絶へず、用ゐるに易く忘るるに難からしめ、之を經紀と爲し、篇章を異とし、其の表裏を別け爲めむ。之に終始を爲り、各々形有ら令めむ。先ずは鍼經を立てよ。願はくは其の情を聞かむ。

《通釈》 黄帝が歧伯に問うて言うには、私は万民を自分の子のように思い、百姓を養って租税を収めさせている。しかし民が寿命を迎える前に死ぬ(終)のを哀れみ、また病を得るのを 恤(あわれ、=屬)んでいる。私は民が強い薬を飲ませたくないし、砭石で我が身を傷つけたりさせたくない。微鍼をもって経脈を通じ、血気を調え、経脈の逆順や血気の出入りの会を 調えさせたいのだ。それを後世に伝えられるよう、誰にでも分るような(明)法とさせたいと思っている。それは久しくあって滅びることなく、ながく絶えず、用いるに易く忘れ難いも のとしたい。それを經紀としてつくり、篇章を分け、表裏も別けて、終りと始めをつくって、 各々形あるものとしたいのだが、まずは鍼経をつくりたい。どうすればよいか、聞かせてもらいたい。  

《記》 まず黄帝が求めているのは、「微鍼」を以てする治療である。その治療とは、微鍼を もって経脈を通じ、血気を調え、経脈の逆順や血気の出入りの会を調える治療で、患部にしろ全身にしろ、強い刺激や薬物で傷めるような治療を求めいないことが、まず述べられる。

「余哀其不給而屬有疾病」 給は太素では終、終は寿命を全うするの意。屬は康煕字典では恤に通じ、あわれむの意となると、佐合昌美先生が説いている。
「(欲以)微鍼、通其經脈」 抽齋は酌原堂所蔵の明刊本を原本としていると書いているが、欲以の右肩に小さく善按と書いて、二字を自分で補ったように記している。
「必明爲之法令」 ここは「法令」と熟語にして読みたくはない。しかし、この後の第二 節は四字句としてまとめられているから、令は第一節に入れてしまわなければならない字だという(宮川先生)が、それほど四字句にこだわらなければならないのだろうか。また、「明」は「明らかに」と読んでは、何も表していないことになる。「メイに」と読むほかはなく、顕教・密教の顕、経典・緯典の経を指しているものと考えなくてはならない。
「終而不滅」 終はひさしい。滅はたえる、ほろびる。だから次の「久而不絶」と同じ読みになる。
「異其章」 太素では異其篇章。

 
【第二部】

<一> 歧伯が微鍼治療のための經の編纂を開始する

歧伯答曰、臣請推而次之、令有綱紀。始於一、終於九焉。請言其道。

歧伯答へて曰く、臣、請ふ、推して之に次で、綱紀有ら令しめむ。一に始り、九に終ら令めむ。其の道を言はむことを請ふ。

《通釈》 歧伯が答えて言うには、まずは熟慮させていただき、その後綱紀をつくりたいと思います。第一篇に始まり、第九篇で終るものとなります。どのようなものか申し上げます。

「臣請推而次之」 推は熟慮する

 
 <二> 微鍼による治療での神(精神集中と、その集中下で行なわれる得気術)の重要性

小鍼之要易陳而難入。麤守形、上守神、神乎神。客在門、未覩其疾、惡知其原。

小鍼の要は陳ぶるに易く、入るに難し。麤は形を守り、上は神を守る、神なるかな神。客、門に在り、いまだ其の疾を覩ざるに、惡んぞ其の原を知らむ。

《通釈》 小鍼を用いた治療の要は、言うのは簡単だが、身につけるのが難しいのであ る。粗工は刺す形を守っているだけだが、上工は鍼治に付随する優れた精神を守って刺す。上工の神技こそ、まさに神威の現れである。また、邪が体に取り付いたばかりで、まだ病に罹ったといえる状態でもないのに、どのようにしてその原因を見極めるのだろうか。

《記》 ここで歧伯は「小鍼」を用いることについて述べており、小さな鍼を用いれば、黄帝が求めるような経脈を通じ、血気を調えるような治療ができると説いている。黄帝は微鍼といい、歧伯は小鍼と言う、この差をどう理解すべきか。恐らく「小鍼」とは、九鍼の中でも毫鍼などの細く短い鍼のことを指しているのではないか。九鍼十二原の解説である第三篇に「小鍼解」と名づけてあるのも、九鍼十二原の本分が小鍼によって気を集めたり、得気したりすることだからではないか。

「小鍼之要易陳而難入」 小鍼とは、この篇で説く九鍼の中でも細く短い鍼のことで、 前に黄帝が述べている「微鍼」のことである。 小鍼解篇では、「入」を身に着けることと解しているが、九鍼十二原篇では「入」は総じて鍼を刺すことをいっている。しかしながら、ここでは主語は「小鍼之要(小鍼をあつかう要点)」であるから、小鍼解で言うように「身に着ける・会得する」が正しい。
「麤守形、上守神」 粗工は刺す形を守っているだけだが、上工は鍼治に付随 する優れた精神を守って刺す。
「神乎神」 上の神は、すぐれた精神の働き。下の神は、上工の神技をいう。九鍼十二 原篇全体を通じて、鍼を以て気を至らしめる・散ずる技法が必要であることが説か れ、それに付随して、患部に気が至っているか否かが分る感覚の必要性も説かれる。そ うした技術と感覚を神といい、その技術をもった技術者を上工と言っている。

神字解 ・・・天の神、精神のすぐれた働き

神-1・金文

 

 

神-2・金文

申は電光が斜めに屈折して走る形で、神威の現れるところ。説文に「天神なり」とし、「萬物を引き出すものなり」と、神・引の畳韻をもって訓ずるが、このような音義的解釈は漢代の語源学に共通のものである。
神は天神で祖霊を含むことはなく、人の霊には鬼という。
神事のみでなく精神のはたらきや、そのすぐれたものを神爽(しんそう)・神悟のように言い、人智を越えるものを神秘という。<白川静『字統』>

 

<三> 上工はタイミングを重視していることと、病の来襲期と衰退期における治療

この節は上工がタイミングを重視して鍼を操作していること(○)と、病、具体的には熱性病の来襲期と衰退期に行なう治療について(●)、交互に書かれている。
また第五条の○と第六条の《まとめ》には、麤(粗)工の治療〔粗工〕と上工の治療〔上工〕について、ここも交互に書かれている。

〇刺之微在速遲。麤守關、上守機。機之動、不離其空。空中之機、清静而微。
● 其來不可逢、其往不可追。
○ 知機之道者不可掛以髪、不知機道、叩之不發。
● 知其往來 要與之期。
○〔粗工〕麤之闇乎、〔上工〕妙哉工、獨有之。
《まとめ》〔粗工〕往者爲逆、來者爲順。〔上工〕明知逆順、正行無問。〔粗工〕逆(迎抽 齋・明刊本)而奪之、惡得無虚、追而濟之、惡得無實。
迎之隨之。以意和之、鍼道畢矣。

〇刺の微は速遲に在り。麤は關を守り、上は機を守る。機の動くや、其の空を離れず。空中の機は、清静にして微(かす)かなり。
● 其の來たるや逢ふべからず、其の往くや追ふべからず。
○ 知機の道を知る者は髪を以て掛くるべからず。機の道を知らざれば、、叩(ひか)へて發さず。
○〔粗工〕 麤の闇き乎、〔上工〕妙なるかな工、上(甲乙)獨り之れ有り。
《まとめ》〔粗工〕往く者には逆を爲し、來る者には順を爲す。〔上工〕明らかに逆順を知り、正行して問ふこと無し。〔粗工〕 迎(抽齋・明刊本)へて之を奪へば、惡んぞ虚無きを得む、追ひて之を濟(たす)くれば、惡んぞ實無きを得む。
迎へよ、隨へよ。以て意、和したり。鍼道畢矣。

 

《通釈》 
〇およそ鍼をもって治療する時には、虚している場合には実せしめ(実法)、満ちている場合は泄らし(泄法)、鬱滞しているものは取り除き(除法)、邪が勝っている場には虚せしめる(虚法)のである。
●病の来襲期には、迎え撃ってはならない。また衰勢期には、追って鍼をしてはならない。
〇抜・運鍼のタイミングが分る工は間髪を入れずに行なうが、分らない工は、手控えてしまうので、鍼を効かせられないのだ。
●その来襲期であるか衰退期であるかを知り、要(かなら)ず決まった治療をせよ。
○粗工というものは理解がない。それに比べて上工の妙であること、上工だがそれを会得している。
《まとめ》 粗工は衰退期に迎え撃ち、来襲期には熱に随う治療をする。上工ははっきりと逆順を知って正しく治療を行なうので問題となる所がない。 これから体を充実させねばならない熱病の衰退期に、迎え撃って奪うような治療をすれば、虚が無くなるということがない(ますます虚してしまう)。また、病の来襲期に、これに随って済(たす)けるような治療をすれば、病はますます実してしまう。
正しく迎え撃ち、あるいは随うことである。以上で私の言おうとしていることが、まとまった。鍼道畢。

「刺之微在速遲」 微は功妙さ。
「不離其空」「空中之機」 ここでいう空とは、鍼を持つときの無心の境地を言うものと思われる。無心であるとき、患者の気の動静が分る。
「其來不可逢、其往不可追」 其來、其往は、病の来襲期と衰退期を指している。 病は、熱性病と解釈したほうが理解しやすい。小鍼解の言うように気がやって来るとき、去ってゆくとき、と解していたのでは読みが浅い。
「叩之不發」 叩は控える。
「要與之期」 「要(かなら)ず之(これ)が期(き)を與(な)せ」 要はかならず。期の本義は「とりきめ」であるから、約束、決まったこと。
「獨有之」 甲乙經では、「上獨有之」
「麤之闇乎、妙哉工、上(甲乙)獨有之。往者爲逆、來者爲順。明知逆順、正行無問」 ここは粗工と上工の治療について、交互に書かれている条で、いくつかの語を補ってみると分る。このような例は素問などにもあるので、例として次に掲げる。
素問・挙痛論39「所謂、言ふを知ること可なるや、視て見はすこと可なるは奈何」いわゆる、(患者が)訴えて(治療者が)分ることを、(治療者が)視ただけで明からにできるようになるには、どうすればよいか。
素問・八正神明論26「俱に視るに、獨り見る」(皆が)ともに視ているのに、(その人に)独りだけ現れて見える。
論語・学而「人知らずして慍みず」人が分ってくれなくとも、(私は)気にかけない。
「以意和之」 この意は、書き手・話し手の意であろう。

 《記》 【第二部】<三>は宮川先生が説いているように、二つの論とが交互に書かれているのである。どうしてこんな書き方をしているのか不明だが、【第三部】<三>でも①持鍼の心構えと②瀉血法を説く文が交互に書かれている。
 

【第三部】                

 <一> 虚法と実法

凡用鍼者虚則實之、満則泄之、宛陳則除之、邪勝則虚之。
大要曰、徐而疾則實、疾而徐則虚。言實與虚、若有若無。察後與先、若存若亡。爲虚與實、若得若失。虚實之要、九鍼最妙。

凡そ鍼を用るは、虚すれば之を實し、満つれば之を泄らし、宛陳すれば之を除き、邪勝れば之を虚す。
大要に曰く、徐にして疾なれば實し、疾にして徐なれば虚す。實と虚とを言へば、有るが若く無きが若し。後と先とを察すれば、存るが若く亡きが若し。虚と實とを爲せば、得るが若く失ふが若し。虚實の要は、九鍼最も妙なり。

「宛陳則除之」 宛陳について、ウッチンと読み、宛は鬱に通じるとしている記載が幾つかあるが、表立っては宛にウツの音はないようである。しかしながら、史崧(十二世紀、南宋で針経を霊枢として刊行した)が、「宛、音鬱、又音蘊、又於阮切」として「ウツ」音を挙げている。
宛陳の用例としては、霊枢・小鍼解に同文がある他、霊枢・陰陽二十五人に「寒與熱爭者導而行之其宛陳」、素問・湯液醪醴論に「平治於権衡去宛陳莝」(莝は太素では茎)がある。
「大要曰」 当時、『大要』という名の書物があったのであろう。この後の論を読むと、九鍼十二原篇がまとめられる以前の鍼治療の技術の概要が書かれていた書物だと考えられる。九鍼十二原篇はこの『大要』よりも新しい内容であることを印象付ける狙いをもって書かれていると考えられる。
抽齋は、大要については、霊枢・衛気行第七十六でも触れられていると紹介している。「大要曰常以日之如(ゆく)於宿上也」
また、この『大要』から引かれた文を理解するうえでも、いくつか語を補わなければ、文の正確な意図が理解できないと思われ、【第二部】<三>と同様である。

《通釈》 およそ鍼をもって治療する時には、虚している場合には実せしめ(実法)、満ち ている場合は泄らし(泄法)、鬱滞しているものは取り除き(除法)、邪が勝っている場合には虚せしめる(虚法)のである。
『大要』には実法と虚法について、鍼をゆっくり刺し、すばやく抜けば、実せしめることができる(実法)。また、刺鍼を早くし、抜鍼をゆっくり行なえば、虚せしめることができる(虚法)、と書いてある。 実と虚がどのような状態かといえば、実とは気が有るがごとき状態で、虚とは気が無きがごとき状態だと書いてある。 治療後とその前を考えれば、(実法の場合は)気が存るがごとくになり、(虚法の場合は)気は亡きが若くになる。虚法と実法を行なえば、気を得ることも失くすことも自在である。 虚法と実法の要については、われわれの称揚している九鍼が最もすぐれている。

 

<二> 補寫の運鍼法 

補寫之時、以鍼爲之。寫曰(迎之_甲乙)。(迎之意_甲乙)、必持内之、放而出之。排陽、得(出_甲乙)鍼、邪氣得泄。按而引鍼、是謂内温、血不得散、氣不得出也。
補曰隨之。隨之意、若妄(忘_甲乙)之、若行、若按。如蟁蝱止、如留、如還。去如絃絶。令左屬右、其氣故止。外門以閉、中氣乃實。必無留血、急取誅之。

補寫の時は、鍼を以て之を爲す。寫とは迎へるを曰ふ。迎へるの意は、必ず持ちて之を内(い)れ、放ちて之を出だす。陽を排して、得て鍼を出だせば、邪氣、泄るるを得、按じて鍼を引く。是を内温と謂ひ、血、散るを得ず、氣も出づるを得ざるなり。
補とは隨ふを曰ふ。隨ふの意は、忘るるが若く、行(すす)むが若く、按(おさ)ふるが若く、蟁蝱の止るが如く、留るが如く、還るが如くす。去るときは絃の絶ゆるが如くす。左をして右に屬(つづ)か令め、其の氣、故に止まる。外門、以て閉じ、中氣、乃ち實するなり。必ず留血を無からしめ、急ぎ取りて之を誅(う)つ。 

《通釈》 補法と寫法を行なうには(『大要』には実=実法と虚=虚法という名で 表されていた)、鍼を以て行なう。
寫とは迎えるということである。気を迎えるにはどうすればよいかと言えば、鍼を制 御しつつ内に入れ、抜く時には放つようにして出す。陽気を排するように鍼を抜き出 せば、邪気は体外に泄れるのである。この時、鍼孔を按(おさ)えて鍼を引き出すと、 内温ということになり、血はそれ以上分散することがなく、正気もそれ以上に体外 に出ることがない。
補とは、随うということである。気に随うにはどうすれば良いかと言えば、、忘れてし まうほどの時間をかけて、鍼を行(すす)めたり按(と)めたりする。あたかも蟁(カ)や蝱 (アブ)が動物にとまり、あたりを留(うかが)い、還(かえりみ)るごとくに時間をかけ る。そして、絃が切れるごとく去るように、左の押し手(鍼を押さえる手)を右の刺し 手(鍼を持っている手)に属(つづ)けて、鍼を抜いた時に鍼孔をサッと閉じる。それ で、集められた気は体内に留まることになる。外門が閉じるので、中の気は実す るのである。出血した場合は、かならず留まらないように、搾り出して取り除いておか なければならない。

《記》 この前の【第三部】<一>で九鍼を用いて行なう虚、実、泄、除の四法から、『大要』にしたがって実法と虚法に焦点をあてて論を進めることになったが、この<二>では、さらに詳しく補法(実法)、瀉法(虚法)についての手順が説かれている。

 
 <三> 持鍼の心構え(○)と瀉血法(●) 

○ 持鍼之道、堅者爲寶。正指、直刺、無鍼左右。神在秋毫、屬意病者。 
● 審視血脈者剌之無殆。
方刺之時、必(心_甲乙)在懸、陽、及與兩衛。神屬勿去、知病存亡。
●(取_甲乙)血脈者在腧、横居、視之獨澄(滿_甲乙)、切之獨堅。

鍼を持つ道は、堅きを寶と爲す。指を正し、直く刺せ、鍼を左右すること無かれ。神は秋毫に在れ、意を病者に屬(あつ)めよ。 
●審かに血脈を視れば、之を剌すに殆(あやふ)きこと無し。
方(まさ)に刺さむとする時、心は懸、陽、及び兩衛とに在れ。神を屬(あつ)め、去ること勿らしめば、病の存亡を知る。
● 血脈を取るは腧に在りて横居す。之を視れば獨り滿ち、之を切すれば獨り堅し。

《通釈》 〔○では精神集注について論ずる〕 鍼を持つ要諦は、堅きを宝とする。指を正し、まっ直ぐに刺し、鍼を左右に動かしてはならない。神経を微妙なものに感ぜしめ、気持ちを病人に属(あつ)めよ。
〔●では血絡の治療法を論ずる〕 くわしく血絡を視たら、躊躇なく刺絡せよ。
○ まさに刺そうとする時、意識はかならず懸(鼻筋)、陽(眉の上下)、衛(額)に集めておかねばならない。集中を持続して切れさせなければ、病の行く末も自分の手の内にある。
●血絡は患部のすぐ近くにあるものである。膨れ上がり、触れてみると、そこだけが堅くなっている。

「必(心_甲乙)在懸、陽、及與兩衛」 必は甲乙經では心。懸は縣に通じ、はなすじのこと。陽は揚に通じ、眉の上下。衛は太素では衡に作り、眉上。霊枢・論勇に「勇士者、目深以固、長衡直揚」(勇敢な者は、目は静かで動かない、長い額、まっすぐな眉)とある。太素・楊上善注には「先観気色者也、縣陽、鼻也、懸於衡下也、鼻爲明堂、五藏六府気色、皆見明堂及與眉上兩衡之中」とある。(以上、宮川)

《記》 ここでも鍼を刺すときの心構えと、瀉血法とが交互に書かれている。この指摘をされたのも、宮川浩也先生である(『季刊内經』No.223)。この心構えが、寫血時の心構えだと読めないこともないが、「神在秋毫、屬意病者」と書かれているのを読むと、瀉血に関する限定的な心構えだけを説いている訳ではないように考えられるのである。
ここまでの論の進め方をみると、第三部では初めに、鍼治療には実法、泄法、除法、虚法の四法があると説きながら、『大要』を引いて、実法(補法)と虚法(寫法)の二法だけに限定して論を進めている。泄法や除法を説くならば、九鍼のすべてを用いて行なう治療が説かれることになるだろうが、実際は補法と寫法に論が収斂して、「小鍼」を用いて、集中した精神(神)のもとに無我の境地(空)でタイミング(機)をつかむ、上工の補法・寫法の論に話は進んで行くのである。
もっとも、当初黄帝は、岐伯に「微鍼」を用いた治療の経を立てることを願ったのだから、それで良いことになる。その治療とは、微鍼をもって経脈を通じ、血気を調え、経脈の逆順や血気の出入りの会を調える治療なのだから(【第一部】<一> <一> )、ここまでに論じられてきたことは、黄帝の意を得ているのである。

 

< 後 半 >

< 付 記 >

< 小鍼解を検証 >

< 鍼解篇・前半>

< 鍼解篇・後半>

< 鍼解篇 諸注家混乱 >
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