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2023.08.20 全文に通しナンバーを付し、各章を枠囲いしました。
【第五部】の中ほどからを【第六部】として、それ以降の部分けを変更しました。
2023.01.24 【第五部】<一> <二>の題目を「気は経脈のどこにあるのか、また病処の深さによる用鍼の適宜」と変更しました。

徹底検証・靈樞 九鍼十二原・後半


文字の色分けは
素問・霊枢の本文は紺字■

読下し文は空色字■
諸注家の注文は緑字■
私の考察は茶色字■ です。

【第四部】

九鍼の名称と形状

35 (凡酌原堂・明刊本)九鍼之名、各不同形。
36 一曰鑱鍼、長一寸六分。
37 二曰員鍼、長一寸六分。
38 三曰鍉鍼、長三寸半。
39 四曰鋒鍼、長一寸六分。
40 五曰鈹鍼、長四寸廣二分半。
41 六曰員利鍼、長一寸六分。 42 七曰毫鍼、長三寸六分。
43 八曰長鍼、長七寸。
44 九曰大鍼、長四寸。
45 鑱鍼者頭大、末鋭、去寫陽氣。
46 員鍼者鍼如卵形、揩摩分間、不得傷肌肉、以寫分氣。
47 鍉鍼者鋒如黍粟之鋭、主按脈、勿陥 以致其氣。
48 鋒鍼者刃三隅、以發痼疾。
49 鈹鍼者末如劍鋒、以取大膿。
50 員利鍼者大如氂、且員且鋭、中身微 大、以取暴氣。
51 毫鍼者尖如蟁蝱喙、靜以徐往(酌源 堂明本)、微以久、留之而養、以取痛痺。
52 長鍼者鋒利、身薄、可以取遠痺。
53 大鍼者尖如挺、其鋒微員、以寫機關之水也。
54 九鍼畢矣。

《現代日本語訳》
九鍼には名があり、各々の形はちがっている。
第一鍼を鑱鍼といい、長さは一寸六分である。
第二を員鍼といい、長さは一寸六分である。
第三を鍉鍼といい、長さは三寸半である。
第四を鋒鍼といい、長さは一寸六分である。
第五を鈹鍼といい、長さは四寸廣二分半である。
第六を員利鍼といい、長さは一寸六分である。
第七を毫鍼といい、長さは三寸六分である。
第八を長鍼といい、長さは七寸である。
第九を大鍼といい、長さは四寸である。
鑱鍼の形は、鍼部の頭は大きく末は鋭くなっている。陽氣を寫し去るのに用いる。
員鍼の形は卵の如く、筋肉や筋の間を揩摩(擦る)するのに用いる。肌肉を傷ることなく、筋肉や筋の間の邪気を寫すことができる
。鍉鍼の形は、鍼先が黍や粟の棘のようになっており、脈を圧して、膚 に刺し入れることなく気を来たすことができる。
鋒鍼の形は刃に三つの角があり、皮膚に固着した瘍や瘡をひらくのに 用いる。
鈹鍼の形は剣の切っ先の如くになっていて、大膿を排するのに用いる。
員利鍼の形はヤクの尾の如く、一方はまるく一方は鋭く、その中ほどは微かに太くなっており、強い痛みを取ることができる。
毫鍼の形は蚊や虻の口先の如くになっており、静かに緩やかに体に刺し入れて、微かな刺激を長く続けることによって、患部の気を留(うかが)いながら養いながら、痛みを取るのに用いる。
長鍼は鍼先の切れ味が鋭く、その身を薄く作ってあり、刺し入れる箇所から離れたところの痛みを取ることができる。
大鍼の形は杖の如く尖っていて、鍼先はわずかにまるく、関節に溜まった水を排するのに用いる。
九鍼についての説明を畢る。

(以下の漢尺・現代における鍼の寸法は宮川浩也先生の研究による-季刊『内經』第224号 2021年秋)
「九鍼之名、各不同形」
 素・鍼解「九鍼之名、各不同形者、鍼窮其所當補寫也」
霊・九鍼十二原、後 「鍼各有所宜、各不同形」
「一曰鑱鍼、長一寸六分。鑱鍼者頭大、末鋭、去寫陽氣」 鑱は鋤。漢代の一寸は2.3cm。一寸六分は3.68cmとなる。
霊・熱病に「取之皮、以第一鍼」とあることを鑑みると、「一を鑱鍼と曰ふ」と読むべきである。また霊・九鍼論に「一者天也。必大其頭、而鋭其末」とあることを鑑みると、その形状を以て第一の鍼とされたことも分る。同論には「主熱在頭身」ともある。
霊・刺節真邪論「刺熱者、用鑱鍼」
霊・官鍼「病在皮膚、無常處者、取以鑱鍼於病所。膚白勿取」
素・刺瘧「胕髄病、以鑱鍼、鍼絶骨、出血立巳」
桂山曰、索隠注、鑱謂石鍼也。

「二曰員鍼、長一寸六分。員鍼者鍼如卵形、揩摩分間、不得傷肌肉、以寫分氣」 員はまるい。抽齋「圓與員通用」
霊・九鍼論「二者地也。筩其身而員其末」 筩は魚をとらえる漁具で、口がひろく末が細くなっている。
揩はこする。分間は筋と筋、肉と肉のあいだ。

「三曰鍉鍼、長三寸半。鍉鍼者鋒如黍粟之鋭、主按脈、勿陥以致其氣」 鍉は矢じり。鋒は兵器の鋭いほこさき。黍粟之鋭は、黍や粟の殻のとげ。
霊・官鍼「病在脈、気少當補之者、取之鍉鍼干井栄分(合)輸」
素・調經「神之不足者、視其虚絡、按而致之、刺而利之、無出其血、無泄其気、以通其經、神気乃平」

「四曰鋒鍼、長一寸六分。鋒鍼者刃三隅、以發痼疾」 鋒は兵器の鋭いほこさき。
「五曰鈹鍼、長四寸廣二分半。鈹鍼者末如劍鋒、以取大膿」 鈹は両刃の剣。
「六曰員利鍼、長一寸六分。員利鍼者大如氂、且員且鋭、中身微大、以取暴氣」 員はまるい、利はとがった。

「七曰毫鍼、長三寸六分。毫鍼者尖如蟁蝱喙、靜以徐往、微以久、留之而養、以取痛痺」 毫はやわらかな毛。長三寸六分は、八センチメートル強であり、現在の二寸半の鍼の長さとなる。ただ太さが不明なのが、如何にも惜しまれる。
霊・刺節真邪論「刺寒者用毫鍼」「凡刺寒邪、日以温、徐往徐来、致其神」
霊・九鍼論「靜以徐往、微以久留、正気因之、真邪倶往、出鍼而養者也」

「八曰長鍼、長七寸。長鍼者鋒利、身薄、可以取遠痺」 鋒は刃先。長七寸は現在の十六センチメートル強。
霊・九鍼論「長鍼、取法於綦鍼」 綦(キ)は靴のひも。綦鍼とは、長い縫い針のようなものか(宮川) 同「必長其身、鋒其末」
「九曰大鍼、長四寸。大鍼者尖如挺、其鋒微員、以寫機關之水也」 挺は梃(つえ)か? 
機關は関節。長四寸は現在の九センチメートル強。
霊・熱論「偏枯、身偏不用而痛、言不變、志不亂、病在分腠之間、巨鍼取之」

《記》再度繰り返すことになるが、黄帝の求めている鍼の治療とは、微鍼を もって経脈を通じ、血気を調え、経脈の逆順や血気の出入りの会を調える治療 である(【第一部】<一> <一> )。これを実現できる鍼というものは、この九鍼のなかで は、員鍼、鍉鍼、員利鍼、毫鍼、長鍼といったところではないか。鑱鍼、鋒鍼、鈹鍼、大鍼は、明らかに患者の身体を傷つけて治療するものである。さらに、【第二部】【第三部】に述べられているような高い精神集中のもとで、患者の気を通じたり、補寫を行なったりする(【第一部】<一> <一> )となると、それができるのは毫鍼しかないと考えられる。
こう考えると、黄帝の意思とここに述べてある九鍼とは、かけ離れたものなのである。ならば、【第三部】まで進めてきた論とは異なる鍼を、なぜここで掲げることにしたのか。これ以後の論を読むと、【第一部】から【第三部】までは、 【第四部】以降の論につけ加えられた、別論なのではないかという疑問が浮かんでくるのである。

【第五部】

【第五部】<一> 気は経脈のどこにあるのか、また病処の深さによる用鍼の適宜

55 夫氣之在脈也、邪氣在上、濁氣在中、清氣在下。
56 故鍼陥脈、則邪氣出、鍼中脈、則濁氣出、鍼大深、則邪氣反沈、病益。
57 故曰、皮肉筋脈、各有所處。病(各有所舎、鍼_甲乙)各有所宜、各不同形、各以任其所宜。

《読み下し文》 夫れ氣の脈に在るや、邪氣、上に在り、濁氣、中に在り、清氣は下に在る。故に鍼、脈に陥すれば、則ち邪氣、出で、鍼、脈に中れば、則ち濁氣、出ずる。鍼すること大ひに深ければ、則ち邪氣は反つて沈み、病も益す。故に曰く、皮、肉、筋、脈、各々處す所を有し、病も、各々舎る所を有す。鍼も各々宜しき所を有せば、各々形、同じならず、各々以て其の宜しき所に任ず。

《現代日本語訳》 気が経脈にどのようにあるかを考えると、邪気というものは経脈の上部(表面)にあり、濁気は經脈の中にあり、清い気(精気)は経脈の深くにあると考えられる。
したがって脈に鍼が押し当てられた(陥)ときには、邪気が身体から出る。鍼が脈の中まで刺さったときには濁気が出る。脈の大いに深くにまで達したときには、邪気は却って経脈の深くまで押し込まれて、病は益す。よって、皮、肉、筋、脈には、それぞれ在る深さがあることを考えなければならない。したがって、病にもそれぞれ舎る深さがあり、その深さに合わせて鍼を下さねばならない。それに合わせて鍼もそれぞれ形が違っており、以て任ずるところがあるのである。

「清氣在下」 清気はこの場合は精気。脈に対して邪気、濁気、精気がどこにあるかを論じている。
「故鍼陥脈」 陥はこの場合、足りない、欠けているの意で、鍼が脈に圧し当っているものの、刺し通していない状態を言う。
「病各有所宜」 甲乙経では、「病各有所舎、鍼各有所宜」

《記》病には各々存在する深さがあり、鍼もそれによって使い分けるべきだという論である。九鍼を述べた後の論としては、至極もっともな論だと考えられる。

【第五部】<二> 病理(1)・・・補寫に関する誤治、五陰脈・三陽脈に関する病理

58 無實無虚(無實實虚虚_甲乙、無實實無虚虚_太素) 。損不足而益有餘、是謂甚病、病益甚。
59 取五脈者死、取三脈者恇。
60 奪陰者死、奪陽者狂。鍼害畢矣。

《読み下し文》 實を實すること無かれ、虚を虚すること無かれ。不足を損なひ、有餘を益せば、是、甚病と謂ひ、病、益々甚し。五脈を取る者は死に、三脈を取る者は恇す。奪陰せる者は死に、奪陽せる者は狂す。鍼害、畢る。

《現代日本語訳》 実している所を実させてはならないし、虚している所を虚させてはならない。 不足している所を損なわせたり、有り余っている所を益した場合を、甚病といい、病がますます甚しくなったものである。
そうした甚病患者の五陰経をすべて取らなければならないような患者は死に、三陽経をすべて取らなければならないような患者は衰弱してしまう。
奪陰したものは死に、奪陽したものは精神障碍を患うのである。以上で、鍼の害についての説明を畢る。

「無實無虚」甲乙経と八十一難では「無實實虚虚」。太素では「無實實無虚虚」(素・鍼解に付した鍼経についての王注)。
「是謂甚病」 甲乙経では「是爲重病」、太素では「是謂重病」。

《記》 この前の<一>で鍼の使い分けについて説いた後、「実している所を実させてはならないし、虚している所を虚させてはならない」と説くのは【第一部】から【第三部】で泄法と除法をすててまで、補法と瀉法に刺法を収斂させた論旨との整合を図ろうとして述べているのだろう。
実が実した場合、虚が虚した場合の病で、甚病と名づけており、陰經にかかわるものは死に(死)、陽經にかかわるものは衰弱する(狂)という。虚実と陰陽の概念で、病を説いている。
鍼害について述べているようだが、これは当時の病理認識を述べたものと理解すべきなのではないか。

【第五部】<三> 刺の要・・・気が至れば有効となる

61 刺之、而氣不至、無問其數。刺之、而氣至、乃去之、勿復鍼。
62 鍼各有所宜各不同形各任其所爲。

(62は57に混交されている文の一部)
63 刺之要、氣至而有効、効之信、若風 之吹雲。明乎、若見蒼天、刺之道畢矣。

《読み下し文》
刺して、氣、至らざれば、其の數を問ふこと無かれ。刺して、氣、至らば、乃ち之を去り、復た鍼すること勿れ。刺の要は、氣、至れば効有り。効の信は、風の雲を吹く若し。明らかなるかな、蒼天の見はる若し、刺の道、畢る。

《現代日本語訳》 
刺して気が至らなければ何度でも刺すべきで、気が至れば鍼を抜き、再び刺してはならない。 鍼治療の要は、気が至れば有効だということである。その徴(しるし)は風の雲を吹き払う如くである。それは明らかで、蒼天の現れるが如くである。刺の道についてを畢る。

《記》
再び鍼治療と気との深い関連性を説く部である。
62「鍼各有所宜各不同形各任其所爲」は、甲乙經の通り、57に「病各有所宜、各不同形、各以任其所宜」という文があり、病と鍼について混交して書いてある。したがって、「病には各々宿る所があり、鍼にも各々治療に適した形のものがある云々」という文に訂正するのが自然だろう。
素・八正神明 「耳不聞、目明心開、而志先(洗)、慧然獨悟。口弗能言、倶視獨見(皆で見ているのに、その人にだけ現れて見える)。適(まさに)若昏、昭然獨明。若風吹雲。曰神」とある。

【第六部】

【第六部】<一> 五藏六府と五兪穴・原穴の関係、また経脈、絡脈との関係

64 黄帝曰、願聞五藏六府所出之處。
65 歧伯曰、五藏五腧、五五二十五腧、 六府六腧、六六三十六腧。
66 經脈十二、絡脈十五、凡二十七、氣以上下。所出爲井、所溜爲榮、所注爲腧、所行爲經、所入爲合。二十七氣所行、皆在五腧也。

《読み下し文》黄帝曰く、願はくば五藏六府の出づる所の處を聞かむ。
歧伯曰く、五藏に五腧あり、五五、二十五腧なり。六府に六腧あり、六六、三十六腧なり。經脈は十二、絡脈は十五、凡そ二十七、氣、以て上下す。出づる所を井と爲し、溜る所を榮と爲し、注ぐ所を腧と爲し、行(めぐ)る所を經と爲し、入る所を合と爲す。二十七氣の行る所、皆五腧、在るなり。

《現代日本語訳》 黄帝が言うには、願わくは五藏六府の気の出ずる所の位置を聞かせてもらえないか。歧伯が答えて言うには、五藏には井栄兪経合、五つの腧穴があり、五藏それぞれに有るので、合計二十五腧穴となります。六府には、井栄兪経合、五つの腧穴に原穴が加わるので、六つの腧穴があり、六府の合計は三十六腧穴有ることになります。經脈は、五藏と六府の十一経脈に加えて、心包経脈が加わるので十二経脈。絡脈は、上の十二に、督脈、任脈、脾の大包脈を加えた十五脈があります。経絡合わせると二十七脈となり、気はこの経脈・絡脈を流れております。その脈上の気が出ずる所を井穴、気の溜まる所を栄穴、気の注ぐ所を兪穴、気の行(めぐ)る所を経穴、気の入る所を合穴とします。二十七の経脈・絡脈の気の行(めぐ)る所には、かならず五腧穴があります。

「五藏六府所出之處」 張介賓は「五藏六府所之脈気、出之處」と補っているが、至当であろう。處は位置。
「五藏に五腧あり」 井栄兪経合の五兪穴。このテキストでは五腧とある。
「六府に六腧あり」 府は井栄兪経合に原穴を加えた六兪となる。藏の経脈では、兪穴が原穴となる。
「經脈に十二あり」 五藏の心肝脾肺腎の各経脈、六府の小腸、胆、胃、大腸、膀胱、三焦の各経脈に加えて、霊枢・経脈篇では心包経脈を藏の経脈と認め、十二経脈としている。
「絡脈に十五あり」 右十二経脈に、それぞれ一絡脈をみとめて十二絡とし、この他に督脈、任脈、脾の大包絡を加えた十五絡脈を霊枢・経脈篇では掲げている。
「所出爲井」 太素「井者、古者、以泉源、出水之處、、爲井也」
「所溜爲榮」 六十八難・史崧注「當作流」。明堂・楊注「水溢爲栄」。

《記》鍼治療が患者の気に深くかかわる治療であることを念押ししたうえで、 五藏六府の気が体表に出る箇所としての穴(ツボ)についての説明である。九鍼十二原は九鍼と十二原穴についての論なので、九鍼に次いで穴についての説明と なる。ただし、五藏六府の穴(腧穴)は経脈によって繋がれており、その経脈の気のめぐる所に、各々五腧穴があると説く。 ここでも治療の主体は気を整えることにあるとする、冒頭に掲げた黄帝の意思にそっ た穴についての論が説かれるのである。 最後に「二十七氣の行(めぐ)る所、皆五腧、在る也」と書かれているが、全体を読むか ぎり、十二経脈は五兪穴を有しているが、十五絡脈に五兪穴はなく、絡穴一つがあるだけである。

【第六部】<二> 経穴とは何か

67 節之交、三百六十五會、知其要者一言而終。不知其要、流散無窮。
68 所言節者、神氣之所遊行出入也、非皮肉筋骨也。

《読み下し文》 節の交りは、三百六十五會あり、其の要を知れば、一言にして終る。其の要を知らざれば、流散して窮ること無し。言ふ所の節とは、神氣の遊行、出入する所なり。皮肉筋骨には非ざるなり。

《現代日本語訳》 気の交わる節(経穴)は三百六十五箇所ある。その要は一言で言えると知れ。その要を知らなければ、流散して終る所はなくなる。節とは神気の遊行、出入りする経穴で、皮肉や筋骨ではない。

「節の交わりは三百六十五會あり」 とあり、「節と言う所の者は、神氣の遊行、出入する所なり。皮肉筋骨にはあらざるなり」 とある所をみれば、節とは経穴のことである。

《記》この前<一> (6566) <一>では兪穴という名で、原穴について説いたが、ここでは「節」という名で、原穴以外の穴について説く。これは物質としての身体ではなく、神気のめぐる場所だと説き、鍼治療においては気を用いて治療するのだということの重要性を、更めて説くのである。

【第七部】

【第七部】<一>  診察法・・・望診法と脈診の重要性

69 觀其色、察其目、知其散復。
70 一其形、聽其動靜、知其邪正。

《読み下し》 其の色を觀、察其の目を察して、其の散復を知れ。其の形を一にし、其の動靜を聽き、其の邪正を知れ。

《現代日本語》 患者の顔つきをよく診、目の色・訴えを察して、患者が死んでしまうか、生きるかを知れ。精神を一つにして脈をとり、脈から邪気の動静を聞き分け、患者の予後を知れ。

「一其形」 形はからだ、身体。
霊・四時気 には下のようにあって、「一其形」以下を脈診のことと解している。「観其色、察其目、知其散復、視其目色、以知病之存亡也。一其形、聽其動靜者、持気口、人迎以視其脈」

《記》患者の顔色から予後を見極めることができ、また脈診で患者の気の様子を知ることができると説く。

【第七部】<二> 右手、左手の役割と脈診の重要性(2)  

71 右主推之、左持而禦之、氣至而去之。
72 凡將用鍼、必先診脈、視氣之劇易、乃可以治也。

《読み下し文》 右は推(すす)むるを主り、左は持(ささ)へて禦(さまた)げ、氣、至らば去る。凡そ將に鍼を用いむとすれば、必ず先ず脈を診、氣の劇易を視れば、乃ち以て治すこと可なり。

《現代日本語訳》 鍼の治療を始めるには、まず患者の脈を診察し、その気が激しいか平らかかを判断すれば、治療をはじめることが可能になる。

《記》鍼を用いるに当っての右手と左手の役割を説き、次に前部<三>に引き続き、脈診の重要性を説く。

【第七部】<三>  病理(2)・・・重竭と逆厥、 恇と癰瘍  

73 五藏之氣、已絶於内、而用鍼者、反實其外。
74 是謂重竭、重竭必死、其死也靜。治之者、輒反其氣、取腋與膺。
75 五藏之氣、已絶於外、而用鍼者、反實其内。
76 是謂逆厥、逆厥則必死、其死也躁、治之者反取四末。
77 刺之害中而不去、則精泄、害中而去、則致氣。
78 精泄則病益甚而恇、致氣則生爲癰瘍。

《読み下し文》 五藏の氣、已に内に絶へ、而るに鍼を用ゐれば、其の外は反つて實す。
是を重竭と謂ふ。重竭すれば必ず死し、其の死や靜かなり。 之を治すは、輒(すなは)ち其の氣を反(かへ)す。腋と膺とを取る。
五藏の氣、已に外に絶へ、而るに鍼を用ゐれば、其の内は反つて實す。
是を逆厥と謂ふ。逆厥すれば則ち必ず死し、其の死や躁なり。之を治するは、反すに四末を取る。
刺して中を害して去らざれば、則ち精、泄れ、中を害して去らば、則ち氣を致す。
精、泄れば、則ち病、益々甚しく恇す。氣を致せば則ち癰瘍を生じ爲す。

《現代日本語訳》 五藏の気が内に絶えているのに、鍼で治療をすると、反対に外が実する。
これを重竭(二重に内の気が竭きる)といい、重竭した者は必ず死ぬ。その死に方は、気が竭きて死ぬので、静かなものである。こうならぬように治療するには、輒(すなわ)ち、その気を内に返す。腋と膺(むね)を取る。
五藏の気が外に絶えているのに、鍼で治療すると、却って内が実することがある。
これを逆厥(下から上へ、もしくは内から外へ気が流れる)といい、逆厥した者は必ず死ぬ。その死は、気が自然に反して逆流して死ぬので、騒がしいものになる。こうならぬように治療するには、反対に四肢に鍼をする。
鍼をして、中を害して抜鍼しなければ、(鍼孔から)精気が泄れる。中を害したまま抜鍼すれば、そこに気が集中する。
精気が泄れれば、病はますます甚しくなり、衰弱する。気が集中して極まった部分には、潰瘍が生ずる。

「則致氣」 致は、ある所に到達する、きわまる。

《記1》【第五部】<二>(58,59,60) <一>に続き、鍼害について説くが、やはり同様に病理について の論と捉えるべきだろう。 【第五部】 <一> の病理理解は、過度の虚や実によって起る陰經と陽經の病で、甚病と称したが(陰經・死、陽經・狂=衰弱)、ここでは内と外が各々虚実反対になって起こる病(①重竭と逆厥)と、刺鍼によって中を損ない、気が泄れた場合・泄れなかった場合についての害(②恇と癰瘍)について論じている。
《記・二》重竭(五藏の気が内に絶えたもの)と、逆厥(外に絶えたもの)について、 この【第五部】<二> には死ぬと書かれているが、霊枢・経脈篇には是動病という名称で、死なないまでも、様々な症状呈する例が述べられている。
<霊・経脈篇の是動病>
・肺手太陰之脈、…是動則病肺脹満、膨膨而喘欬、缺盆中痛、甚則交両手而瞀(ボウ、目がかすむ)。此為臂厥。
・胃足陽明之脈、…是動則病洒洒振寒、善呻、数欠、顏黒、病至則悪人与火、聞木声則惕然而驚、心欲動、独閉戸塞牖而処、甚則欲上高而歌、棄衣而走、賁響、 腹脹。是為骭厥。
・心手少陰之脈、…是動、則病嗌乾心痛、渇而欲飲。是為臂厥。
膀胱足太陽之脈、…是動則病衝頭痛、目似脱、項如抜、脊痛、腰似折、髀不可 以曲、膕如結、踹如裂。是為踝厥。
・腎足少陰之脈、…是動則病飢不欲食、面如漆柴、欬唾則有血、喝喝而喘、坐而欲起、目巟巟如無所見、心如 懸若飢状。気不足則善恐、心惕惕如人将捕之。是為骨厥。
・胆足少陽之脈、…是動則病口苦、善太息、心脇痛、不能転側、甚則面微有塵、 体無膏沢、足外反熱。是為陽厥。

【第八部】

【第八部】<一> 十二原穴再論  

79 五藏有六府、(おそらく_「五藏」)六府有十二原。
80 十二原出於四關。四關主治五藏、五藏有疾、當取之十二原。
81 十二原者、五藏之所以稟三百六十五節(骨之甲乙)氣味也。
82 五藏有疾也、應出十二原。
83 十二原、各有所出、明知其原、覩其應、而知五藏之害矣。

《読み下し文》 五藏に六府有り、(五藏)六府に十二原あり。
十二原は四關に出で、四關は五藏の治を主る。五藏に疾、有らば、當に十二原を取るべし。
十二原とは、五藏の三百六十五節(骨之甲乙)の氣味を稟(う)くる所以なり。
五藏に疾、有るや、應じて十二原に出づ。
十二原、各々出づる所を有すれば、 其の原を明知し、其の應を覩、而して五藏の害を知れ。

《現代日本語訳》 五藏には六府がしたがっており、五藏六府には十二の原穴がある。原穴は四つの関節に出ているので、この四関節で五藏の治療ができる。五藏に病があれば、この十二原穴を取るべきである。十二原穴は、五藏の三百六十五穴の気を稟(う)ける場所なのである。五藏に病があると、それに応じて十二原穴に反応が出る。十二原穴は、それぞれそうした気を出す場所を有っている。 はっきりとその場所を知り、それがどんな応じ方をしているか覩て、五藏の受けている害を知れ。

《記》1 79 原穴が十二あるとすれば、藏府をともに考えなければ数が合わない。ここに「六府有十二原」とあるのは、藏と府あわせてのことだろう。
《記》2

64
で岐伯は「五藏五腧、五五二十五腧、六府六腧、六六三十六腧」の腧穴があると答えている。
67
では「 節之交、三百六十五會」と經穴全般を「節」と呼んでいる。
79~83では五藏と六府の「十二原」と呼んで十二原穴のことが述べられている。
章ごとに「腧(原も含む)」「節」と呼称が違うのは、書き手=書かれた時期が異なるからだろう。書かれた時期は 1.原穴 2.原穴を含む腧穴 3.三百六十五會の節 という順になると思われ、その順が入れ替えられたのは「二十五腧、三十六腧」がもっとも重要だからに他ならない。黄帝の当初の目的である「微鍼をもって経脈を通じ、血気を調え、経脈の逆順や血気の出入りの会を調えさせたい」という当初の願いに応えるために、経脈に流れる気を鍼で整える治療が提唱され、それに極力少数の穴で対処できる治療が考えられた結果だと思われる。
《記》3  
一方【第六部】<一>で、黄帝から「
64 願はくば五藏六府の出づる所の處を聞かむ」と岐伯は尋ねられたのに、岐伯は兪穴があると答えただけ(65,66)で、その「處=ありか」を答えてはいないのである。 十二原穴の「處=ありか」については、穴名だけだが、次の<二>(84~90)で説かれる。

「三百六十五節氣味也」 甲乙経では「三百六十五骨之氣味也」

【第八部】<二> 十二原穴の名  

84 陽中之少陰肺也、其原出於大淵、大淵二。
85 陽中之太陽心也、其原出於大陵、大陵二。
86 陰中之少陽肝也、其原出於大衝、大衝二。
87 陰中之至陰脾也、其原出於太白、太白二。
88 陰中之太陰腎也、其原出於太谿、太谿二。
89 膏之原出於鳩尾、鳩尾一。
90 肓之原出於脖胦、脖胦一。
91 凡此十二原者、主治五藏六府之有疾者也。

《読み下し文》
陽中の少陰は肺なり、其の原は大淵に出づ。大淵、二あり。
陽中の太陽は心なり、其の原は大陵に出づ。大陵、二あり。
陰中の少陽は肝なり、其の原は大衝に出づ。大衝、二あり。
陰中の至陰は脾なり、其の原は太白に出づ。太白、二あり。
陰中の太陰は腎なり、其の原は太谿に出づ。太谿、二あり。
膏の原は鳩尾に出づ。鳩尾、一あり。
肓の 原は脖胦に出づ。脖胦、一あり。
凡そ此の十二原は、五藏六府に疾有れば治を主る者なり。

《現代日本語訳》 
体幹を上下に分け、上部を陽、下部を陰とした場合、その陽中の少陰は肺で、その原穴は大淵穴である。大淵は左右の二穴ある。
陽中の太陽は心で、その原穴は大陵である。大陵も左右二穴ある。
体幹下部、陰中の少陽は肝で、その原穴は大衝である。大衝も左右二穴ある。
陰中の至陰は脾で、その原穴は太白である。太白も左右二穴ある。
陰中の太陰は腎で、その原穴は太谿である。太谿も左右二穴ある。
膏の原穴は鳩尾で、一穴。
肓の原穴は脖胦(臍)で、一穴。
およそこの十二原穴で、五藏六府の病を治療できる。

《記》 【第六部】<一>で、黄帝から「64 願はくば五藏六府の出づる所の處(ありか)を聞かむ」と尋ねられたのに対する岐伯の答である。ここでは穴名を掲げることによって、その處を黄帝に示している。
【第八部】<二> では
「89 此の十二原は、五藏六府に疾有れば治を主る者なり と原穴で五藏と六府の疾患を治療できるとといているが、【第六部】<一>で示されているのは「66 (經脈と絡脈)二十七氣の行る所、皆五腧、在るなり」 と原穴・兪穴を含む經・絡脈上の疾患を治療できることが示唆されている。
まず原穴での治療が始められた後、經・絡脈上の原・兪穴を使った治療に発展していったことが窺える。
時期的に後のものが先に書いてあるのは、先に述べたように(【第八部】<一>《記》2)、後にできた治療の方が有用だからである。

【第九部】

【第九部】<一> 腹部の病理…脹と飧泄 (衍文)   

92 脹取三陽。飧泄取三陰。

《読み下し文》 脹は三陽を取る。飧泄は三陰を取る。

《現代日本語訳》 腹脹の治療は足の三陽経を取り、下痢は足の三陰経を取れ。

《記》 腹部の症状の治療について、突然ここに掲げられているが、この九字は本来【第九部】<三>「98 疾高而内者」の前に置いて、腹部疾患の治療をまとめて論じたものと思われる。当時、腹部の疾患を治すことが急務だったというのは頷首できる。

【第九部】<二> 病理概論・・・久病であっても治すことができる  

93 今夫五藏之有疾也、譬猶刺也、猶汚也、猶結也、猶閇也。
94 刺雖久猶可拔也、汚雖久猶可雪也、結雖久猶可解也、閇雖久猶可決也。或言久疾之不可取者、非其説也。
95 夫善用鍼者取疾也、猶拔刺也、猶雪汚也、猶解結也、猶決閇也。
96 疾雖久猶可畢也、言不可治者、未得其術也。

《読み下し文》今、夫れ五藏に疾有るや、譬へば猶ほ刺すがごとく、猶ほ汚れるがごとく、猶ほ結ぼるるがごとく、猶ほ閇(と)ざすがごとし。
刺すこと久しと雖も、猶ほ拔くこと可なるなり、汚るること久しと雖も、猶ほ雪ぐこと可なるなり、結ぼるること久しと雖も、猶ほ解くこと可なるなり、閇すこと久しと雖も、猶ほ決(き)ること可なるなり。
或る人、久疾を取ること不可なりと言ふは、其れ説くに非ざるなり。
夫れ善く鍼を用ゐる者は、疾を取るや猶ほ刺(とげ)を拔くなり、猶ほ汚れを雪ぐなり、猶ほ結ぼれを解くなり、猶ほ閇を決(き)るなり。
疾の久しと雖も猶ほ畢へること可なり。 治すべからずと言ふ者は、未だ其の術を得ざるなり。

《現代日本語訳》 五藏に病がある場合、たとえば刺すような痛みのものがあり、汚れのような病、結ぼれのような病、閉ざしたような病がある。ただ棘を刺すような痛みが長く続いていても、なおその棘を抜くことはできるし、汚れが長く着いていても、汚れを雪ぐことはできる。長く結ぼれていても、なお解くことはできるし、長く閉ざされていても、その閉塞を決(き)ることはできる。久しい病を治すことができない工は、治療について語るべきではない。
上工は病を治すことができるものである。棘を抜き、汚れを雪ぐことができる。結ぼれを解き、閉塞を決(き)ることができる。久しい病であっても、なお終わらせることができるのである。治すことができない下工は、その術を得ていないのだ。

「或言久疾之不可取者、非其説也」後に再び「言不可治者、未得其術也」とある。

《記》 五藏の病について、これまで表裏、内外、過度の虚実を病因として説明してきたが、ここでは刺、汚、結、閉、という症状を掲げて治療できると説いている。また、これができないのは、工が未熟だからだと論ずる。

【第九部】<三> 熱病と寒冷病の運鍼法、陰中の陽病・腹部内外の病の治療穴   

97 刺諸熱者、如以手探湯、刺寒清者、如人不欲行。
98 陰有陽疾者、取之下陵三里。正往無殆、氣下乃止、不下復始也。
〔92 脹取三陽、飧泄取三陰。<一>より〕
99 疾高而内者、取之陰之陵泉。疾高而外者、取之陽之陵泉也。

《読み下し文》 諸熱を刺すは、手を以て湯を探るが如くせよ。寒清を刺すは、人の行くを欲せざるが如くせよ。陰に陽疾有る者は、之を下陵三里に取れ、正に往くに殆り無かれ。氣、下れば乃ち止め、下らざれば復た始めよ。「脹は三陽を取れ。飧泄は三陰を取れ」〔<一>より〕疾、高くして内なる者は、之を陰の陵泉に取れ。疾、高くして外なる者は、之を陽の陵泉に取れ。

《現代日本語訳》 熱病患者に鍼をする場合は、手で湯の中を探る如くに、さっと刺せ。寒冷に侵された患者を刺す場合には、去り難い思いがあるように、時間をかけて鍼を留めよ。
陰分に熱を持つ病のときには、足の三里を取り、休むことなく鍼を進めよ。邪熱が下ってくれば止め、下がって来ないなら再び始めよ。
「腹脹の治療は足の三陽経を取り、下痢は足の三陰経を取れ」〔<一>より〕
腰より上の内にある疾病(飧泄=下痢)は、陰陵泉を取れ。腰より上の外にある疾病(腹脹=腹部膨満)は、陽陵泉を取れ。

「如人不欲行」 張介賓「有留戀之意也。宜留鍼若此」
「陰有陽疾者」 ここでは腹部の病を中心に論じているようなので、腹部に裏熱がある病を考えると、消化不良、腸チフス、コレラ、子宮内膜症などが、これにあたると思われる。婦人科以外の病なら、ここで論じているように、三里穴で腹部の熱を寫すことはできるのではないか。反対に「陰有陰疾者」なら、腹中の冷えが問題の病で、厥冷性 の下痢、胃カタルなどが考えられる。これも三里穴を使って補うことで治療できるのではないか。
「正往無殆」 抽齋は『釋文』にある「思而不学則殆」<論語>を引いて、「殆、本作怠」としている。
「疾高而内者」 楊上善は霊・終始に基づいて、高とは腰以上のことを言うとしている。

《記》 まず熱病患者と寒冷に侵された患者に対する鍼の仕方を説く。
次に①陰分に熱を持つ病が説かれ、<一>より移した、②脹、③痢についての刺法が説かれる。この後、④「腰より上の内にある疾病」と⑤「腰より上の外にある疾病」の治療穴が明らかにされるが、これは④は③と同じもの、⑤は②と同じものと考えられる。 ①で陰分に熱を持つ病の治療穴と刺法に触れながら、陽分に熱を持つ病の治療法に触れていない理由は不明である。
また、病を分類する仕方は、これまで通り、陰陽、表裏、内外などで、【第八部】<二>に見られるような、太陽、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰の、陰陽を六つに分類する方法は取られていない。

 
 

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