九 鍼 十 二 原 |
小 鍼 解 |
【第二部】<二> |
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小鍼之要易陳而難入。 |
所謂易陳者易言也。難入者難著于人也。 |
九鍼の治療の要は、言うのは簡単だが、身につけるのが難しいのである。 |
陳(の)ぶるに易(やす)しというのは、口で言うのは簡単だということで、入るに難(かた)しというのは、身につけるのは難しいということである。 |
麤守形、上守神、神乎神。
客在門、未覩其疾、惡知其原 |
麤守形者、守刺法也。上守神者、守人之血氣。有餘不足、可補寫也。
神客者、正邪共會也。神者正氣也、客者邪氣也。在門者、邪循正氣之所出入也。
未覩其疾者、先知邪正何經之疾也。
惡知其原者、先知何經之病、所取之處也。 |
粗工は刺す形を守っているだけだが、上工は鍼治に付随する優れた精神を守って刺す。上工の神技こそ、まさに神威の現れである。
邪が体に取り付いたばかりで、まだ病に罹ったといえる状態でもないのに、上工はどのようにしてその原因を見極めるのだろうか。 |
粗工が形を守るというのは、刺法を守っているだけだということである。
上工が神を守っているというのは、人の血気を守っているということで、血気に有余不足があれば、補寫の法を行なうべきである。
神、客すとは、正気と邪気がともに会しているということで、神とは正気、客とは邪気のことである。門に在(い)るとは、邪気が生気の出入りする所を循っているということである。
いまだその疾を覩(み)ざるにとは、すでに邪か正か、何経の疾患かが分っているということ。
なぜその源を知っているのかというのは、すでに何経の病で、治療点の在り処が分っているということである。 |
九鍼十二原には「神乎神」 と書いてあるものを、小鍼解では「上守神、神乎。神客在門」と読んで、「神」とは人の血気だといい、「神客在門」とは、血気中の正気と邪気とが、ともに在ることだと説いているが、是とはし難い。これについて抽齋は「神乎神は、甚だ句法に合す。素問・八正神明論の『形乎形、神乎神』は、正に此と同じなり。且つ神、門、と原とは韻なり。神客と連讀するは疑うべきなり」と論じている。
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【第二部】<三>
この<三>は、上工がタイミングを重視して鍼を用いていること(○)と、病の来襲期と衰退期における治療法(●)が交互に書かれている。 |
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○ 刺之微在速遲。麤守關、上守機。機之動、不離其空。空中之機、清静而微。 |
刺之微在速遲者、徐疾之意也。
麤守關者、守四肢、而不知血氣正邪之往來也。
上守機者、知守氣也。
機之動不離其空中者、知氣之虚實、用鍼之徐疾也。
空中之機清淨以微者、鍼以得氣、密意守氣勿失也。 |
○鍼を刺す巧妙さとは、素早く行なうか、ゆっくり行なうかにかかっている。粗工は関節にある原穴の位置(取穴)にだけこだわるものだが、上工は 鍼の刺抜のタイミングを大事にしている。刺抜・運鍼のころあいが至るに際しては、無心を心がけねばならない。無心の心で知ることのできる頃合とは、清静にして微かなものだ。 |
刺鍼の巧妙さが速遅にあるというのは、刺抜をゆっくり行なうか、素早く行なうかにかかっているということである。
粗工が関節を守っているだけだというのは、四肢の関節にある原穴の位置ばかりを厳守しているということで、血気や、世気邪気の往来というものを知らないということだ。
上工が刺抜のタイミングを守っているというのは、気の往来や、気が溜まる・泄れるなどの機微を知って、それが実際にできるように操作を行なっているということである。
機の動くやその空中を離れずとは、無心で用鍼を行なうことで治療部の気の虚実を覗いつつ、それに合わせて鍼をゆっくり操作するか、素早く行なうかを決めるということである。
空中の機が清淨にして微だということは、無心の境地で鍼を以て気を集めた後、そのまま精神を集中して、その気を治療点から散じさせぬようにすることである。 |
● 其來不可逢、其往不可追。 |
其來不可逢者、氣盛不可補也。其往不可追者、氣虚不可寫也。 |
●病の来襲期には、迎え撃ってはならない。また衰勢期には、追って鍼をしてはならない。
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その来たるは逢うべからずとは、気が盛んなときには気を補ってはならないということだ。
その往くは追うべからずとは、気が虚しているときには寫してはならないということだ。 |
この一条は気の状態についての一般論としても読めるが、熱性病の来襲期と衰勢期についての治療論として読むべきだろう。「九鍼十二原」にこの後「知其往來、要與之期(その来襲期であるか衰退期であるかを知り、必ず決まった治療をせよ)」と書かれている。「期」は約束事の意で、病の来襲期と衰退期に合致した治療法という意味だから、往・来は病の来襲期・衰退期の意味にとらえるべきである。
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○ 知機之道者不可掛以髪、不知機道、叩之不發。 |
不可掛以髮者、言氣易失也。
扣之不發者、言不知補寫之意也、血氣已盡、而氣不下也。 |
○刺抜・運鍼のタイミングが分る工は間髪を入れずに行なうが、分らない工は、手控えてしまうので、鍼を効かせられないのだ。 |
髪を掛けることもできないとは、気は失われやすい(ので、間髪を入れずに鍼の操作を行なわねばならない)ということだ。
これを扣(ひか)えて發せずとは、補寫の意味を知らないということ(ではなく、タイミングが分らない粗工が手控えてしまい、鍼を効かせられないということ)である。そうなると、血気はすでに盡きてしまっているので、思った所に気を至らしめることができないのである。 |
● 知其往來、要與之期。 |
知其往來者、知氣之逆順盛虚也。要與之期者、知氣之可取之時也。 |
● その来襲期であるか衰退期であるかを知り、要(かなら)ず決まった治療をせよ。
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その往来を知るとは、気の逆順、盛虚を知るということだ。要(かなら)ずこれが期を與(な)せとは、気の補寫すべき時を知れということである。 |
○ 麤之闇乎、妙哉工、獨有之。
往者爲逆、來者爲順。
明知逆順、正行無問。 |
麤之闇者、冥冥不知氣之微密也。
妙哉上獨有之者、盡知鍼意也。
往者爲逆者、言氣之虚而小、小者逆也。
來者爲順者、言形氣之平、平者順也。明知逆順正行無問者、言知所取之處也。 |
○ 粗工というものは理解がない。それに比べて上工の妙であること、上工だけがそれを会得している。
粗工は衰退期に迎え撃ち、来襲期には熱に随う治療をする。
上工ははっきりと逆順を知って、正しく治療を行なうので問題となる所がない。 |
粗工が暗いというのは、勘が悪く、至っている気が微(わず)かなのか、密なのかが分っていないということだ。
上工が妙味を会得しているというのは、上工だけが鍼に集まる気について、知悉しているということだ。
往くを逆とするというのは、気が虚して少なくなっている者のことで、少ないことを逆しているとする。
来るを順とするというのは、形気が平かになっている者のことで、平らかに調っていることを順とする。
はっきりと逆順を知り、問題となる所がないというのは、治療点のありかが分っているということだ。
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九鍼十二原では前述の「其來不可逢、其往不可追」 を承けて、ここで「往者爲逆、來者爲順」と書いているのだから、こうした理に合わない治療をするのは粗工に他ならない。ここでも上工と粗工について、交互に書かれている。小鍼解は一文ごとに解釈を付しているためか、気の状態の一般論として話が続けられている。 |
迎而奪之、惡得無虚、追而濟之、惡得無實。
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迎而奪之者、寫也。追而濟之者、補也。 |
これから体を充実させねばならない熱病の衰退期に、迎え撃って奪うような治療をすれば、虚が無くなるということがない(ますます虚してしまう)。
また、病の来襲期に、これに随って済(たす)けるような治療をすれば、実がなくなるということがない(ますます実してしまう)。
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迎えて奪うというのは寫法のことで、追って濟(たす)けるとは、補法のことである。 |
ここで九鍼十二原は「惡得無虚」「惡得無實」と粗工の治療について、反語を使った非常に強い書き方をしている。これは小鍼解のいうように補寫の一般論ではなく、人の生死にかかわる問題だからここまで強く書くのである。迎・追が病の来襲期・衰退期における治療法である所以である。
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【第三部】
<一> 虚法と実法 |
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凡用鍼者虚則實之、満則泄之、宛陳則除之、邪勝則虚之。 |
所謂虚則實之者、氣口虚而當補之也。
滿則泄之者、氣口盛而當寫之也。
宛陳則除之者、去血脈也。
邪勝則虚之者、言諸經有盛者、皆寫其邪也。
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およそ鍼をもって治療する時には、
虚している場合には実せしめ(実法)、
満ちている場合は泄らし(泄法)、
鬱滞しているものは取り除き(除法)、
邪が勝っている場合には虚せしめる(虚法)のである。 |
虚している場合には実せしめるとは、気口脈を診て虚している場合は、補の治療を行なうということである。
満ちている場合は泄らすというのは、気口脈が盛んな場合は寫すということだ。
鬱滞しているものは取り除くというのは、血絡を取り除くということである。
邪が勝っている場合には虚せしめるとは、諸經脈が盛んであれば、その盛んな脈の邪を
皆寫すということである。
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九鍼十二原のこの四法は、治療全般についての四つの方法である。よって「虚則實之」「滿則泄之」も、小鍼解が説くような脈の虚実を補寫する方法ではない。
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大要曰、徐而疾則實、疾而徐則虚。
言實與虚、若有若無。 |
徐而疾則實者、言徐内而疾出也。
疾而徐則虚者、言疾内而徐出也。
言實與虚若有若無者、言實者有氣、虚者無氣也。
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『大要』には実法と虚法について、鍼をゆっくり刺し、すばやく抜けば、実せしめることができる(実法)。また、刺鍼を早くし、抜鍼をゆっくり行なえば、虚せしめることができる(虚法)、と書いてある。
実と虚がどのような状態かといえば、実とは気が有るがごとくになり、虚とは気が無くなったごとくになる状態だと書いてある。 |
徐にして疾なれば実せしむというのは、鍼をゆっくり刺して早く抜くということを言っている。
疾にして徐なれば虚せしむというのは、鍼を素早く刺してゆっくり抜くということである。
実と虚について言えば、有るが若く無きが若しとは、実は気が有り、虚は気が無いということである。 |
察後與先、若存若亡。爲虚與實、若得若失。 |
察後與先若亡若存者、言氣之虚實、補寫之先後也。察其氣之已下與常存也。
爲虚與實若得若失者、言補者佖然若有得也。寫則怳然若有失也。 |
治療後とその前を考えれば、(実法の場合は)気が存るがごとくになり、(虚法の場合は)気は亡きが若くになる。虚法と実法を行なえば、気を得ることも失くすことも自在である。
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後と先とを察すれば亡きが若く存るが若しとは、気の虚実についてのことで、補寫の前と後のことを言っているのだ。その気が虚して已に去ってしまっているか、実して常に存るかを察するのである。
虚と実をなせば得るが若く失うが若しとは、補えば一杯に満ちるほど得た若くになり、寫せばぼんやりして気が抜けた若くに失うということである。
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【第四部】
<二> 気は経脈のどこにあるのか、また病処の深さによる用鍼の適宜 |
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夫氣之在脈也、邪氣在上、濁氣在中、清氣在下。 |
夫氣之在脈也、邪氣在上者、言邪氣之中人也高、故邪氣在上也。
濁氣在中者、言水穀皆入于胃、其精氣上注於肺、濁溜于腸胃、言寒温不適飮食不節(絶_台湾本)、而病生于腸胃。故命曰、濁氣在中也。
清氣在下者、言清濕地氣之中人也、必從足始。故曰清氣在下也。 |
気が経脈にどのようにあるかを考えると、邪気というものは経脈の上部(表面)にあり、濁気は經脈の中にあり、
清い気(精気)は経脈の深くにある。 |
そもそも気が脈に在るとき、邪気が上に在るというのは、邪気が人に侵襲するときは上部(の脈)から侵襲するということを言っている。したがって、邪気が上に在ると書いてあるのだ。
濁気が中に在るというのは、水穀(食汁)はすべて胃に入り、その精気は上って肺に入り、濁ったものが腸胃に溜ることを言っているのである。寒温が適さず、飲食も不摂生だと病が腸胃に生ずるので、濁氣在中という病名を名付けたのである。
冷たい気(清気)が下に在るというのは、冷たい湿った地の気が人に侵襲する場合、必ず足から入ることを言っているのである。ゆえに清気は下に在ると言う。
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ここも小鍼解では九鍼十二原を独自に読み換えている。
九鍼十二原では邪気・濁気・清気(ここでは精気を指していると思われる)の三者が経脈のどこを通っているかを論じているのに対して、小鍼解は身体のどこに位置しているかを説いているのである。
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故鍼陥脈、則邪氣出。
鍼中脈、則濁氣出。
鍼大深、則邪氣反沈、病益。 |
鍼陷脈則邪氣出者、取(起_台湾本)之上。
鍼中脈則邪氣出者、取之陽明合也。
鍼大深則邪氣反沈者、言淺浮之病、不欲深刺也。深則邪氣從之入。故曰反沈也。 |
したがって脈に鍼が押し当てられたとき(陥)には、邪気が身体から出る。
鍼が脈の中まで刺さったときには濁気が出る。
脈の大いに深くにまで達したときには、邪気は却って経脈の深くまで押し込まれて、病は益す。
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鍼が脈に陥すれば邪気出ずるとは、身体の上部の病を取る時のことである。
鍼が脈に当たれば邪気(九鍼十二原では濁気)出ずるとは、陽明經の合(土)穴に治療点を取ったような場合である。
鍼大深なれば邪気反って沈むとは、浅く浮いている病の場合、深く刺さないでよいということで、すなわち深刺すれば邪気も鍼にしたがって深くに入る。よって却って沈むと言うのである。 |
この前の部分で、九鍼十二原が邪気・濁気・清気の三者が経脈のどこを通っているかを論じているのに、小鍼解は身体のどこに位置しているかを説いてしまったので、ここでも小鍼解の論には枉(くる)いが生じている。
「鍼が脈に当たれば邪気出ずるとは、陽明經の合(土)穴に治療点を取ったような場合だ」と、小鍼解の筆者は書いているが、陽明經の合土穴である三里穴に鍼が響くと、確かに大きく響いて胃の邪気が一掃されたように感ずる。こんなことから、書き手は経脈治療を本とする臨床家なのではと思われる。
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故曰、皮肉筋脈、各有所處。病(各有所舎、鍼_甲乙)各有所宜、各不同形、各以任其所宜。
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皮肉筋脈各有所處者、言經絡各有所主也。 |
よって、皮、肉、筋、脈には、それぞれ在る深さがあることを考えなければならない。したがって、病にもそれぞれ舎る深さがあり、その深さに合わせて鍼を下さねばならない。それに合わせて鍼もそれぞれ形が違っており、以て任ずるところがあるのである。
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皮肉筋脈は各々處る所有りとは、經絡には各々主る所があるということを言っているのである。 |
ここでは九鍼十二原が皮、肉、筋、脈は、各々在る深さが違っていると論じているのを、小鍼解は各経脈・絡脈は各々主っている部分が違うと解釈していて合致していない。
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【第四部】<二> 「気は経脈のどこにあるのか、また病処の深さによる用鍼の適宜」 についての補足⇒
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【第五部】
<一>病理(1)・・・補寫に関する誤治、五陰脈・三陽脈に関する病理 |
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無實無虚(無實實虚虚_甲乙、無實實無虚虚_太素)。
損不足而益有餘、是謂甚病、病益甚。
取五脈者死、取三脈者恇。
奪陰者死、奪陽者狂。
鍼害畢矣。 |
取五脈者死、言病在中氣不足、但用鍼盡大寫其諸陰之脈也。
取三陽之脈者、唯言盡寫三陽之氣。令病人恇然不復也。
奪陰者死、言取尺之五里五往者也。
奪陽者狂、正言也。 |
実している所を実させてはならないし、虚している所を虚させてはならない。
不足している所を損なわせたり、有り余っている所を益した場合を、甚病といい、病がますます甚しくなったものである。
そうした甚病患者の五陰経をすべて取らなければならないような患者は死に、三陽経をすべて取らなければならないような患者は衰弱してしまう。
奪陰したものは死に、奪陽したものは精神障碍を患うのである。
以上で、鍼の害についての説明を畢る。
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五脈を取るものは死すというのは、病が中(体表より少し内部に入った所)にあり気が不足している場合のことを言っている。但し鍼を用いて、諸陰脈を大寫し盡くした場合である。
三陽脈を取るというのは、これ(唯)は、三陽の気を寫し盡すことを言うのである。病人をして衰弱し、回復できなくさせてしまう。
奪陰せる者は死すとは、尺沢の後の五里穴(禁鍼穴)を五回刺した(往)ような場合を言うのである。
奪陽せる者は狂う、とは正にその通りである。
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九鍼十二原では「実している所を実させてはならないし、虚している所を虚させてはならない。不足している所を損なわせたり、有り余っている所を益した場合を甚病といい、病がますます甚しくなったものである」という前段があり、この甚病患者の予後として、四例を掲げている。
小鍼解が説いているのは、この予後四例についてであるが、「奪陰者死、言取尺之五里五往者也」という説き方は、我々の臨床でも経験することであり興味深い。張介賓も「尺之五里、尺澤後之五里也。手陽明経穴、禁刺也」と注を付している。
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【第六部】
<二> 経穴とは何か |
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節之交、三百六十五會、知其要者一言而終。
不知其要、流散無窮。
所言節者、神氣之所遊行出入也。非皮肉筋骨也。 |
節之交三百六十五會者、絡脈之滲潅諸節者也。 |
気の交わる節(経穴)は三百六十五箇所ある。その要は一言で言えると知れ。
その大切さを知らなければ、流散して終る所はなくなる。
節とは神気の遊行、出入りする経穴で、皮肉や筋骨ではない。
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気が交わる節である三百六十五会とは、絡脈が諸節を滲潅するところである。 |
小鍼解のこの一文は、次々の条「調氣在于終始、者持心也」の後に続くものである。
九鍼十二原が「節の交わりは三百六十五會あり」 とあり、「節と言う所の者は、神氣の遊行、出入する所なり。皮肉筋骨にはあらざるなり」 とある所をみれば、節とは経穴のことである。鍼治療が患者の気を左右して治癒に至らしめるものであることを説く、まことに懇切な一言なのである。
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<三> 診察法・・・望診法と脈診の重要性(1) |
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觀其色、察其目、知其散復。
〔※1〕一其形、聽其動靜、知其邪正。 |
覩其色、察其目、知其散復、一其形〔※2〕、聽其動靜者、言上工知相五色、于目有知、調尺寸小大緩急滑濇、以言所病也。
知其邪正者、知論虚邪與正邪之風也。
〔※3〕所以察其目者、五藏使五色循明、循明則聲章、聲章者、則言聲與平生異也。 |
患者の顔つきをよく診、目の色・訴えを察して、患者が死んでしまうか生きるかを知
れ。
〔※1〕精神を一つにして脈をとり、脈から邪気の動静を聞き分け、患者の予後を知れ。 |
患者の色を覩、目を察し、その散復を知れ、その形を一にして〔※2〕、患者の動静を聴け、というのは、上工は顔色(相)の五色を知り、目から察知できるものがあるということを言っているのである。寸関尺脈の小大、緩急、滑濇を調べ、以て病について言及するのである。
その正邪を知れというのは、虚した結果の邪であるのか、単純な邪風に当たったのかを知れということを言っている。
〔※3〕その目を観察する理由は、五藏は五色を用いて目の色を明るくしているからであり、目の色が明るければ声も章らかとなる。声が朗らかであれば日ごろの様子も異なってくるという。
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〔※1〕霊・四時気 には下のようにあって、「一其形」以下を脈診のことと解している。
「観其色、察其目、知其散復、視其目色、以知病之存亡也。一其形、聽其動靜者、持気口、人迎以視其脈」
〔※2〕については、次の<四>で言及される。
〔※3〕この一条は、小鍼解篇の最後に位置する。小鍼解の最後で、ふたたび目を察する論が持ち上がっているのは、九鍼十二原では終わり近くで、五藏の病を論じており、目の診察が五藏の診察に直結するからだろう。森立之は素問・鍼解に付した案文で次のように述べている。「案、五色修明、謂目明。音聲能彰、謂耳聰也。修明、蓋謂目能修収五色之明。能彰謂耳能聽別音聲之彰也」(五色修明というのは、目が明らかなことで、音聲能彰というのは、耳が聰(さと)いことだ。修明というのは、蓋し目がよく五色(すなわち五藏の状態を表す色)が見分けられる明らかさのことで、能彰というのは、耳がよく五藏の状態を表す音聲を聽き別けられる彰らかさのことである)
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<四> 右手、左手の役割と脈診の重要性(2) |
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右主推之、左持而禦之、氣至而去之。
凡將用鍼、必先診脈、視氣之劇易、乃可以治也。 |
右主推之左持而御之者、言持鍼而出入也。
氣至而去之者、言補寫氣調而去之也。
調氣在于終始。
一者持心也。 |
右手は鍼を進め、左手では鍼を持って進めすぎを禦(おさ)え、患部に気が至れば、鍼を抜き去る。
鍼の治療を始めるには、まず患者の脈を診察し、その気が激しいか平らかかを判断すれば、治療をはじめることが可能になる。
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右は推すを主り、左は持って制御するとは、鍼を持って刺抜することを言っている。
気の至ればこれを去るとは、補寫して気が調えば、鍼を抜き去るのである。
気を調えることが、始めにも終りにもある。一というのは心を維持して集中することだ。 |
<三>に書かれていた「一其形」の解が、ここに出ている。霊・四時気篇では脈診の心構えとして説かれているが、小鍼解では鍼を持つ心構えとして説かれている。 |
<五> 病理(2)・・・五藏の気が内に絶えた重竭と外に絶えた逆厥、
精気が泄れた恇と集まり過ぎた癰瘍 |
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五藏之氣已絶於内、而用鍼者、反實其外。
是謂重竭、重竭必死。其死也靜。
治之者、輒反其氣、取腋與膺。
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所謂五藏之氣已絶于内者、脈口氣内絶不至、反取其外之病處、與陽經之合。
有留鍼以致陽氣、陽氣至則内重竭、重竭則死矣。其死也、無氣以動、故靜。 |
五藏の気が内に絶えているのに、鍼で治療をすると、反対に外が実する。
これを重竭(二重に内の気が竭きる)といい、重竭した者は必ず死ぬ。その死に方は、気が竭きて死ぬので、静かなものである。
こうならぬように治療するには、輒(すなわ)ち、その気を内に返す。腋と膺(むね)を取る。 |
ここにいう五藏の気が内に絶えてしまっているというのは、気が内に絶しているため脈口に至らないのである。反対にその外に現れている病處と、陽経の合土穴を取るとよい。
鍼を留めて陽気を盛んにし(致)、陽気が最大に至れば、内は(五藏の陰気が尽きている所に、最大限の陽気でさらに五藏を傷られることになるので)二重に竭きることになる。この重竭になると患者は死ぬ。この時は生きる(動)に足る気がないのだから、静かな死となる。 |
五藏之氣已絶於外、而用鍼者、反實其内。
是謂逆厥。逆厥則必死、其死也躁。
治之者反取四末。 |
所謂五藏之氣已絶于外者、脈口氣外絶不至、反取其四末之輸。
有留鍼以致其陰氣、陰氣至、則陽氣反入、入則逆、逆則死矣。其死也、陰氣有餘、故躁。
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五藏の気が外に絶えているのに、鍼で治療すると、却って内が実することがある。
これを逆厥(下から上へ、もしくは内から外へ気が流れる)といい、逆厥した者は必ず死ぬ。その死は、騒がしいものになる。
こうならぬように治療するには、反対に四肢に鍼をする。 |
言うところの五藏の気が外に絶えてしまっているというのは、気が外に絶しているため脈口に至らないのである。これは反対に四肢の輸土穴に鍼をするとよい。
鍼を留めて陰気を盛んにし、陰気が最大に至れば、反対に陽気は体の中に入っていってしまう。(本来内にあるべき五藏の陰気が外で最大になっていて、外にあるべき陽気は)体の中に入ってしまうのだから、陰陽は逆になる。逆になれば、患者は死んでしまう。五藏の陰気が有り余っているのだから、その死は騒々しいものになる。 |
五藏の気が内に絶えているのに鍼で誤治を行なって重竭させた場合と、五藏の気が外に絶えているのに誤治を行なって逆厥させた場合の病理を小鍼解が解説しているのだが、非常に分りやすい。
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【第四部】<二> 「気は経脈のどこにあるのか、また病処の深さによる用鍼の適宜」 についての補足※
「清気」について言えば、この「氵」は「米」の精に読み換えなければ九鍼十二原の論旨と合わないのだが、私は小鍼解の筆者が「清湿の地気」とあえて書いているのではないかとも考えている。
個人的なことを以下に長く書くことになるが、森立之の『遊相醫話』を読んでいるとき、「骨蒸熱」という語に行き当たった。調べるうちに、湯液の用語では「骨熱」という語があると知ったが、私は皮熱・肉熱・骨熱と抽象的に身体にある熱の深さを表した語だろうと、その当時は考えていた。
しかしその後、自分の患者さんから「私の知り合いが、足の骨が冷えるというのだ」という話を聞いて、身体の深部が熱したり冷えたりするのではなく、実際に骨(その場合は脛骨だったのだが)が冷たく感ずることがあるのだと知った。骨が冷えるな
ら、骨が熱く感ずることもあるに違いない。私の不明という他ない。
話は元に戻るが、中国医学にはこういうことがあるので、小鍼解の筆者は、九鍼十二原が脈に取りついている邪気の位置について論じて、経脈の上(表面)・中(経脈の中)・大
深(経脈の大いに深く)と言っているものを、敢えて身体の上(頭)・中(腸胃)・下(下肢)と言い替えたのではないかとも深慮するのである。
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