素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
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検 証 素問・鍼解篇第五十四・前半

素問の「鍼解篇第五十四」も、靈樞の「小鍼解第三」とならんで「九鍼十二原第一」を説いた篇ですから、この際には読まないわけにはいきません。
ここでは、まず「鍼解篇」で扱われている「九鍼十二原」の条文(このサイトでは) を掲げて、読み下しと解釈を行ない、次にそれを「鍼解篇」でどのように説いているか見てゆくことにします。
ここでも、主文である「九鍼十二原」の文を左に置き、それに対する「鍼解篇」の文を右に置いて対比させながら読んであります。
便宜上、「鍼解篇」の各節にはアラビア数字を付しました。
また霊枢の篇の名は「多(まさ)に篇字、論字を下さず」と「九鍼十二原」の冒頭に多紀元簡が記していることにならい、この通りに記してあります。

霊枢・九鍼十二原より虚法と実法

凡用鍼者虚則實之、満則泄之、宛陳則除之、邪勝則虚之。 大要曰、徐而疾則實、疾而徐則虚。言實與虚、若有若無。察後與先、若存若亡。爲 虚與實、若得若失。虚實之要、九鍼最妙。

《読み下し文》 
凡そ鍼を用るは、虚すれば之を實し、満つれば之を泄らし、宛陳すれば之を除き、邪勝れば之を虚す。 大要に曰く、徐にして疾なれば實し、疾にして徐なれば虚す。
實と虚とを言へば、有るが若く無きが若し。後と先とを察すれば、存るが若く亡きが若し。虚と實とを爲せば、得るが若く失ふが若し。虚實の要は、九鍼最も妙なり。

《解釈》 
【 四 法 】 およそ鍼をもって治療する時には、
① 虚している場合には実せしめ(実法)、
② 満ちている場合は泄らし(泄法)、
③ 鬱滞しているものは取り除き(除法)、
④ 邪が勝っている場合には虚せしめる(虚法)のである。

【 実法(補法)と虚法(瀉法) 】
『大要』には実法と虚法について、
① 鍼をゆっくり刺し、すばやく抜けば、実せしめることができる(実法・補法)。
④ また、刺鍼を早くし、抜鍼をゆっくり行なえば、虚せしめることができる(虚法・瀉 法)、 と書いてある。

【 虚 実 の 状 態 】
実とは気が有るがごとくになり、 虚とは気が無くなったごとくになる。
【 治 療 後 の 状 態 】
治療後とその前を考えれば、(実法の場合は)気が存るがごとくになり、
(虚法の場合は)気は亡きが若くになる。
虚法と実法を行なえば、気を得たようにも失くなったようにもなる。(得ることも失くすことも自在である)

【 結 語 】
虚法と実法の要については、われわれの称揚している九鍼が最もすぐれている。

霊 枢・九 鍼 十 二 原

素 問・鍼 解 篇

(1) 凡用鍼者虚則實之。

1 刺虚則實之者鍼下熱也。氣實乃熱也。

およそ鍼をもって治療する時には、虚している場合には実せしめる。(実法)

虚を刺すには実せしむとは、鍼の下が熱するのだ。気が実すると熱くなるのである。

(2) 満則泄之。

2 滿而泄之者、鍼下寒也。氣虚乃寒也。

満ちている場合は泄らす。(泄法)

満ちているところから泄らせば、鍼の下は冷たくなる。気が虚せば冷たくなるのである。

(3) 宛陳則除之。

3 菀陳則除之者、出惡血也。

鬱滞しているものは取り除く。(除法)

鬱滞している場合は除くとは、悪血を出すのである。

(4) 邪勝則虚之。

4 邪勝則虚之者出鍼勿按。

邪が勝っている場合には虚せしめる。(虚法)

邪が勝っているときに虚せしむ場合は、鍼を抜くときに、按(おさ)えない(鍼孔を閉じない)のである。

ここで九鍼十二原(1)~(4)は鍼治療の要諦である四法を述べ、それについての解説を鍼解篇が説く。四法のうち、私が「実法」「虚法」と呼んだものがあるが、これは現在の補法と瀉法と考えて間違いないだろう。

4の虚法について、王冰は以下のように注している(鍼解篇の注)。
「邪者不正之、目非本經氣。是則謂邪、非言鬼毒精、邪之所勝也」邪とは不正にして、本經の氣にあらざるものと目(み)よ。是れを則ち邪と謂ひ、鬼毒の精を言ふにはあらず、邪の勝る所なり。
邪とは、経脈に入って来た風邪や冷邪のような他の気で、鉱物毒や植物毒のように強い毒ではない。冷えや風気などが、経脈の正気に勝っているだけのものだ、と言っているのだが、邪を考えるうえで分りやすい説明だと思う。

(5) 大要曰、徐而疾則實。

5 徐而疾則實者徐出鍼而疾按之。

『大要』には実法と虚法について、鍼をゆっくり刺し、すばやく抜けば、実せしめることができる(実法)と書いてある。

ゆるやかにして、素早くすれば実せしむとは、ゆるやかに鍼を抜いて、素早く鍼孔を按ずるのである。→不可從

(6) 疾而徐則虚。

6 疾而徐則虚者疾出鍼而徐按之。

刺鍼を早くし、抜鍼をゆっくり行なえば、虚せしめることができる(虚法)と書いてある。

素早くして、ゆるやかに行なえば虚せしむとは、素早く鍼を抜き、ゆるやかに鍼孔を 按じて閉じるのである。→不可從

『大要』は、九鍼十二原以前の鍼治療の技術の概要が書かれていた書物だと考えられる。澁江抽齋は『大要』について、霊枢・衛気行第七十六でも触れられていると紹介している。
5、6の実法(補法)と虚法(瀉法)についての鍼解篇の解は、的を得ていない。いずれも九鍼十二原の「而」の後の節が、鍼孔を押える速さについてのことだと考え違いをしている。

霊枢・小鍼解の解は各々次のように書いてあり、これが正しい。
「徐而疾則實者、言徐内而疾出也」
徐にして疾なれば実せしむというのは、鍼をゆっくり刺して早く抜くということだ。
「疾而徐則虚者、言疾内而徐出也」
疾にして徐なれば虚せしむというのは、鍼を素早く刺してゆっくり抜くということである。


 

(7) 言實與虚、若有若無。

7 言實與虚者寒温氣多少也。
8 若無若有者疾不可知也。

実と虚とはどんな状態かと言えば、実とは気が有るがごとくになり、虚とは気が無くなったごとくになる。

実と虚について言えば、冷えている(虚)か温かい(実)かは、気の多少によるのである。
無いようでもあり、有るようでもあるとは、病を知ることができない状況を言っているのである。

なぜこんな的外れな注釈をしているのかと言えば、九鍼十二原の一条を二つに分けて、それぞれに注を付けているからなのである。
この混乱は「若得若失者離其法也」(鍼解篇)までつづく。
霊枢・小鍼解は、いうまでもなく霊枢本文に対する注なので正確である。「言實與虚若有若無者、言實者有氣、虚者無氣也」
実と虚について言えば、有るが若く無きが若しとは、実は気が有り、虚は気が無いということである。
→可從 

(9) 察後與先、若存若亡。

9 察後與先者知病先後也。
「若存若亡」に対する注なし。

治療後とその前を考えれば、(実法の場合は)存るがごとくになり、(虚法の場合は)気は亡きが若くになる。

その後と、その前を知るとは、病に罹る前と罹った後の状態を知ることを言っているのである。

九鍼十二原では、前条に「若無若有」とあり、ここでは「若存若亡」とある。鍼解篇ではこの二つを同じ謂と見なしたのか、説いていない。

小鍼解が正しい解を示している。
「察後與先若亡若存者、言氣之虚實、補寫之先後也。察其氣之已下與常存也」
後と先とを察すれば亡きが若く存るが若しとは、気の虚実についてのことで、補寫の前と後のことを言っているのだ。その気が虚して已に去ってしまっているか、実して常に存るかを察するのである。

(10) 爲虚與實、若得若失。

10 爲虚與實者工勿失其法。→不可從
11 若得若失者離其法也。→不可從

虚法と実法を行なえば、気を得るが若きであり、失(な)きが若きである (気を得ることも失くすことも自在である)。

虚と実をなせとは、鍼工に補寫の法を間違いなく行えと言っているのである。
得たごとくあるもの(実)を、失った(虚の)ようになるのは、その法に離(そむ)いているからである。

ここも九鍼十二原の前半と後半に、各々別の解を付けているので、意味が通じない。
ここでも小鍼解は正しい解を得ている。
「爲虚與實若得若失者、言補者佖然若有得也。寫則怳然若有失也」
虚と実をなせば得るが若く失うが若しとは、補えば一杯に満ちるほど得た若くになり、寫せばぼんやりして気が抜けた若くに失うということである。
→可從

(12) 虚實之要、九鍼最妙。

12 虚實之要九鍼最妙者爲其各有所宜也。

虚法と実法の要については、われわれの称揚している九鍼が最もすぐれている。

虚せしめ実せしめる治療には、九鍼が最も妙を得ているとは、九鍼が各々に適宜の働きを持っているということである。

ここでは王冰がきわめて実際的な注をほどこしている。この注文を見るかぎり、王冰自身も治療の上で九鍼を使いこなしていたか、九鍼に熟達した者の治療を見ていたと考えられる。
12 王冰 「熱在頭身、宜鑱鍼。肉分氣滿、宜員鍼。脈氣虚少、宜鍉鍼。寫熱出血、發泄固病、宜鋒鍼。破癰腫、出膿血、宜鈹鍼。調陰陽、去暴痺、宜員利鍼。治經絡中痛痺、宜毫鍼。痺深居、骨解腰脊節腠之間者、宜長鍼。虚風舎於骨解、皮膚之間、宜大鍼。此之謂、各有所宜也」

(13) 補寫之時、以鍼爲之。
寫曰(迎之_甲乙)。(迎之意_甲乙)、必持内之、放而出之。排陽、得(出_甲乙)鍼、邪氣得泄。按而引鍼、是謂内温、血不得散、氣不得出也。
補曰隨之。隨之意、若妄(忘_甲乙)之、若行、若按。如蟁蝱止、如留、如還。去如絃絶。 令左屬右、其氣故止。外門以閉、中氣乃實。必無留血、急取誅之。

13 補寫之時者與氣開闔相合也。

補寫の時は、鍼を以て之を爲す。
寫とは迎へるを曰ふ。迎へるの意は、必ず持ちて之を内(い)れ、放ちて之を出だす。陽を排して、得て鍼を出だせば、邪氣、泄るるを得、按 じて鍼を引く。是を内温と謂ひ、血、散るを得ず、氣も出づるを得ざるなり。
補とは隨ふを曰ふ。隨ふの意は、忘るるが若く、行(すす)むが若く、按(おさ)ふるが若く、蟁蝱の止るが如く、留るが如く、還るが如くす。去るときは絃の絶ゆるが如くす。 左をして右に屬(つづ)か令め、其の氣、故に止まる。外門、以て閉じ、中氣、乃ち實するなり。必ず留血を無からしめ、急ぎ取りて之を誅(う)つ。

補寫のタイミングは、刺鍼時の手技の徐疾と、抜鍼時の鍼孔の開閉とに合致しているのである。

王冰は補寫を行なう時刻が、時制に適っていなければならないという注をほどこしている。道士という立場の上からはそうだろうが、霊枢を読むかぎり果たしてそうだろうかという疑問がある。霊枢に則するかぎり、鍼解篇に対応する九鍼十二原の条文は上に掲げたものと考えられる。

(14) (凡)九鍼之名、各不同形。

14 九鍼之名各不同形者鍼窮其所當補寫也。

およそ九鍼は名によって各々の形がちがっている。

九鍼は名によって各々形が違っているので、形状に合致した補寫法を窮めているのである。


これより後、鍼解篇が解くのは素問・宝命全形論第二十五の一部である。


素問・寳命全形論篇第二十五より
帝曰、何如而虚、何如而實。
岐伯曰、刺虚者須其實、
刺實者須其虚。
經氣已至、愼守勿失。
深淺在志、遠近若一、
如臨深淵、手如握虎、神無營於衆物。


《読み下し》 帝曰く、何如にすれば虚し、
何如にすれば實す、と。
岐伯曰く、虚を刺すは須く其れ實すべく、
實を刺すは須く其れ虚せしむべし。
經氣已にして至らば、愼しみて守り失ふこと勿れ。
深淺に志在らしめれば、遠近も一なるが若し。
深淵に臨むが如く、手に虎を握るが如く、神を衆物に營(まど)は無(ざ)らしめよ。

《解釈》
帝が言うには、どのようにすれば虚せしめ、
どのようにすれば実せしめることができるのか。
岐伯が言うには、虚した者を刺すときは、必ず実せしめねばならず、
実した者を刺すときは、必ず虚せしめねばなりません。
鍼下に経気が十分に満ちたら、その気を愼しみ守って失ってはなりません。
患者の深く浅くに志を在らしめれば、遠近なく一所に病態が見えます。
深淵に臨むがごとく、手に虎を握るがごとく、治療の際には精神を惑わせてはなりません。

素 問・寳 命 全 形 論

素 問・鍼 解 篇

(15) 刺實者須其虚。
刺虚者須其實。

15 刺實須其虚者留鍼、陰氣隆至、乃去鍼也。
16 刺虚須其實者陽氣隆至、鍼下熱、乃去鍼也。

実を刺すときには、必ず虚せしめなければならない。
虚を刺すときは、必ず実せしめねばならない。

実を刺す時は必ず虚せしめなければならないが、それには鍼を留め、陰気が隆至してから抜くのである。
虚を刺す時は必ず実せしめなければならないが、それには陽気が隆至し、鍼下が熱してから抜くのである。

16に付された王注は
「言要、以氣至而有効也」
というものだが、これは九鍼十二原【第五部】<二> にある辭で、全体は以下のようになる。

「刺之要、氣至而有効。効之信、若風之吹雲。明乎、若見蒼天」
鍼治療の要は、気が至れば有効だということである。その信(しるし)は風の雲を吹き払う如くである。それは明らかで、蒼天の現れるが如くである。

これはまた素問・八正神明論にも現れる。
「耳不聞、目明、心開而志先慧然獨悟。口弗能言、倶視獨見。適(まさに)若昏、昭然獨明。若風吹雲。曰神」
耳に聞えずとも、目が明るく心が開かれているので、まず意志だけが先に慧然として悟ることができる。口では説明できないことで、皆でみているのに、その人にだけ現れて見えている。まさに暗い中で、昭然としてひとり明るみにいるのだ。風が雲を吹き払うような、これが何にもまして優れた精神というものだ。
「神」については

(17) 經氣已至、愼守勿失。

17 經氣已至、慎守勿失者、勿變更也。

鍼下に経気が十分に満ちたら、その気を愼しみ守って失ってはならない。

経気が十分に集まったならば、慎んで守り失うことがないようにしなければならないとは、手技を変えてはならないということだ。

ここは前条の王注に示したものと同じく、九鍼十二原【第五部】<二> に関わる部分である。

(18) 深淺在志、遠近若一。

18 深淺在志者知病之内外也。
19 近遠如一者深淺其候等也。

患者の深く浅くに志を在らしめれば、遠近なく一所に病態が見える。

深くにも浅くにも意志を行き届かせられれば、病が内にあるか外にあるかを知ることができる。 〔「病之内外」は未詳〕
近遠を一なるが如くできれば、気の至るきざしなどを深くあるいは浅くに探ることができる。

ここも鍼解篇は、宝命全形論の一文を前後に分けて説いているので、少々ちぐはぐな解となっている。
18 王冰「志一爲意志、意皆行鍼之用也」志を一にして意志と爲せば、意は皆な鍼の用に行なう也。
19 王冰 「氣雖近遠不同、然其測候、皆以氣至而有効也」 気の遠近は同じならずと雖も、然れども其れ候い測るに、皆気の至るを以てせば、有効なり。

(20) 如臨深淵、手如握虎、神無營於衆物。

20 如臨深淵者不敢墯也。
21 手如握虎者欲其壯也。→不可從
22 神無營於衆物者靜志觀病人、無左右視也。

深淵に臨むがごとく、手に虎を握るがごとく、治療の際には精神を惑わせてはならない。

深淵に臨むが如しとは、絶対に墯ちるなということである。
手に虎を握るが如しとは、勇壯であれということだ。
神を衆物に營(まど)はすこと無かれとは、志を靜かにして病人を觀、左右視するなということである。

宝命全形論の文に明らかなように、深淵に臨む時のように、虎を捕まえている時のように、精神を集中せよと説いているのである。「不敢墯」は正しいが「欲其壯」は間違っている。
もとは一つの文であったものを三つの節に分けて、それぞれに対する解を求めたため、このような誤りが起るのである。


ここから鍼解篇は、ふたたび九鍼十二原にもどる。

霊 枢・九 鍼 十 二 原

素 問・鍼 解 篇

【第三部】<三>(23a) 持鍼之道、堅者爲寶。正指、直刺、無鍼左右。神在秋毫、屬意病者。
【第六部】<三> (23b) 觀其色、察其目、知其散復。一其形、聽其動靜、知其邪正。

23 義無邪下者欲端以正也。必正其神者欲瞻病人、目制其神、令氣易行也。

鍼を持つ要諦は、堅きを宝とする。指を正し、まっ直ぐに刺し、鍼を左右に動かしてはならない。神経を微妙なものに感ぜしめ、気持ちを病人に属(あつ)めよ。
其の色を觀、察其の目を察して、其の散復を知れ。其の形を一にし、其の動靜を聽き、其の邪正を知れ。

義しく邪(なな)めに鍼を下さぬようにするには、端生でなければならない。 必ず精神を正し、病人を瞻るには、治療者の目が(自分の)精神を制していると分らなければならない。そうであれば、気を易く行らすことができる。

ここもきちんと九鍼十二原に相対しているわけではなく、どの部分があてはまるかと言われればここだろう、という程度である。しかしながら、歴代の諸注家も同じ部分に着目しているので間違いでもないだろう。

【第八部】<三>
(24) 陰有陽疾者、取之下陵三里。

24 所謂三里者下膝三寸也。

陰に陽病があるものは、これを足の三里に取れ。

三里は、膝を三寸下ったところである。

王冰の24に付した注である。
「三里穴名、正在膝下三寸、胻外兩筋肉分間。極重按之、則足跗上動脈止矣。故曰舉膝分易見」三里は穴名で、正(まさ)に膝を三寸下ったところ、胻(すね)の外側の二つの筋の間にある。ここを極めて強く圧すと、足背の動脈が止まる。故に膝を挙げると、かんたんに現れる所と書いてある。
 
「ここを極めて強く圧すと、足背の動脈が止まる」は、九鍼の注 とともに、王冰の深い臨床経験がよく現れている。

(25) 九鍼十二原に対応する条なし。

25 所謂跗之者舉膝分易見也。

いわゆる跗上とは、膝を挙げると、その下方の筋肉の間に、たやすく現れる所である。

新校正の注には、素問・骨腔論によれば「跗之」は「跗上」だとある。→可從

九鍼十二原に対応する条なし。

26 巨虚者矯足胻獨陥者、下廉者陥下者也。

巨虚は脛を上げると窪んで見えるところで、下腿の陥下している部分である。

26 王冰「矯謂舉也」
「矯」キョウ 曲がったものを真っ直ぐにする、上に持ち上げる。

鍼解篇のこれ以降は、いわゆる「九数」と関係させた別論になるので、頁をあらためてアップすることにします。

 

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