素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

療 治 奇 譚

「遊相醫話」「蘭軒醫談」より治療にまつわる奇妙な話

孔子は乱神怪力を語らず、といって怪奇なものについては言葉を慎んだそうですが、森立之も怪談は信用しないと書いています。しかしながら、医事に怪談話は付き物で、信用しなかった立之にも怪談めいた話があります。その話が、失禄時代について自ら記した「遊相醫話」の最後に載せてあります。
また、これは立之自らの体験ではありませんが、師である伊澤蘭軒から聞き学んだことを書き留めた「蘭軒醫談」(安政三年、1856年、立之自ら上梓)という本にも、怪異な話がいくつかあります。「かかる談話は、よく人口に残れるものながら、余は信據せざりし」と言った立之ですが(「遊相医話」)、師の経験であり、立之自身が書き留めたものですから採録しようと思います。
もっとも、立之の書く松茸や木耳の博物学的な話などは、怪異譚の極みのように私には思えるのですが。

 

< 「遊相醫話」最後のエピソード >

戊申の正月十日(嘉永元年、1848年。この年の五月、立之は赦免により躋壽館にもどる)、勝瀬村(失禄当時に住んでいた神奈川県相模湖近辺の村。現在は湖底に沈んでいる)より伊勢太講に上る者が、私(立之)を含め五十二人あった。伊勢にて勝瀬の筬(はた)屋(機織り職人)のある人が疫病に罹ってしまった。難治症だったので
村長らと協議して十人で療治しながら帰郷することになった。就寝中にうわ言を言うことがあり、白衣の女二人が枕元にきて座るのだと決まって言った。須走に泊まった夜は、白い犬が二匹、寝床の中に走り入ったと言ったが、その夜以降はうわ言は言わなくなった。
翌日は猿橋に泊まり、うわ言もなく、勝瀬村に帰宅したときは、戸口より一二町ほどは自分で歩いたほどだった。この者は、こうして平癒したのである。
この筬屋が病んだという話を聞いた村人が迎えに来てくれたのだが、途中ですれ違いになってしまい、そのまま須走に着いたのである。すると、宿の主人が昨夜亡くなったというのであった。実をいえば、私がこの宿を出る際に、主人は風邪をひいたといって髪を解いていたのだが、もしや筬屋の白衣の女二人が、旅亭の主人に憑りついたのではなかったか。私はこうした怪談はあまり信用しないものだが、自ら目撃したことなので、奇怪のあまり、ここに記し置くのである。

 
森立之・療治奇譚
 

< 「蘭軒醫談」最後から三つ目の逸話 >

「灌水の法」というのが「傷寒論」の五苓散の条にのみ書いてあり、これが書物に書かれたものでは最古のものである。活人書(蘇生法を扱った書※)には「傷寒可水法」あるいは水中に漬す法として載してある場合もある。「儒門事親」という医説にも痘瘡を病んだ時に水に漬す法を説いてある。したがって「灌水の法」は「傷寒論」を書いた張仲景以前からあったものではないか。その後、廃れて、また宋代に再び俗間で行なわれるようになったものであろう。平清盛が「灌水の法」を施されたのも、宋の俗間の法を伝える者があってのことだろう。そうでなければ、高位の人を容易に水に漬けたり、飲ませたりすることなどできるはずがないのである。

さて、この「灌水の法」だが、熱因の証には治効があるはずである。私(蘭軒)は二人の奏功例を見たことがある。
一人は年六十あまりの温疫を病んだ人で、舌苔は黒く、絶食してより数日経過しており、まず助からない証であった。私は診察したうえで薬を三貼(処方は失念したが、おそらく承気湯の類であった)渡して辞したが、この夜というのは実に文化三年丙寅の大火事で、家族は病人を伴って逃げるうちに、火は早くも近隣にまで及んだ。家族は是非もなく、病人を夜着のまま戸板に寝かせて、あたりの川べりの雑具の積み出された間に置いた。そのうちに、その川べりにも火煙が迫ってきたので、已むを得ない、所詮は死ぬ運命の人間だと諦めて、家族は逃げることにしてしまったのである。
さて病人は、熱にうかされて終始夢中だったが、夜半になって潮が満ちてきて、ようやく気づき、徐々に正気がもどってきたらしい。それまでに潮水もずいぶん呑んでいたのである、ついに私の薬ものまずに全快したのであった。

もう一人は、体躯壮実の男子、年は三十ばかりで、これも疫病を患い医者に治を求めたが何日たっても癒えなかった。医者は、あろうことか、この治療ではだめだと自ら怒りだして浴室に走り込み、冷水数十杯を患者に浴びせかけた。するとたちどころに癒えてしまったのである。医者は、草屋住まいの自宅で友人と談ずるに、これは疫病などの外邪ではなく、単に平生からずっと悪寒している人がいるものだ。つまり陽気が体内に沈伏しているのであるから、灌水して潜んでいる陽気を劫(おびやか)し出すと癒えてしまうことがあるということであった。なるほど、理屈はそういうことかも知れないのである。

※古代の蘇生法については、首吊り縊死に対する蘇生法が「大同類聚法」や「医心方」に述べられているようで、槇佐知子『日本の古代医術』〔文春新書〕の226頁に紹介がある。現在では蘇生不可能とされる自縊死の場合でも、蘇生が試みられており興味深い。この場合、「大同類聚法」「医心方」ともに、首吊りの縄を切ってはならないとされている。

 
森立之・療治奇譚
 

< 「蘭軒醫談」最後から二つ目の逸話 >

ある農家の一老婆が、消渇(喉が渇いて水を飲みたがる症状)を病み、水を多量に飲むのだが、大小便はともに出ず、全身が水腫してしまい、いろんな治療を試みてみたがだめだった。煩悶してもう死ぬるかという時、ある人が青蛙を生で食えば必ず治るぞと勧めたが、生き物を食うに忍びず、薬だけを服していた。
そうしたある晩、煩悶消渇がさらに甚だしかったので、看病人が眠ったのを幸いに、匍匐して手桶の水を飲もうとしたのだった。ところが、桶には水が一滴もない。はるか庭の彼方に水音がするので、再びそろそろと匍匐して、ついに筧の下にたどり着き、手で掬って飲んだ。その時、口の中に何か触るものがあったが、大渇するあまり、そのまま飲み下してしまった。さらにもう一度手に掬ったとき、また手中に物があると分ったので確かめようした。折から月光が昼の如くにあたりを照らしたので、手のひらを熟視した。なんと青蛙であった。が、これぞ天の与えし、兼ねて飲めと勧められた蛙であると思い定めて呑んだ。三度掬うと、三度手に蛙を得た。すべて青蛙三枚を呑んだ。
さて、ようよう床へ帰ろうとすると、家に入る前に俄かに両便ともに大いに出て爽快を覚え、水腫もとみに減じた。つづいて下痢を数回くり返して、徐々に平復したのであった。
私(蘭軒)は、これは一大奇事と思ったが、「謹治要決」に「凡そ全身水腫、あるいは単に腹脹する(腹が膨れ上がっている)者は、青■(かえる、圭+黽)を一、ニ枚、皮を去り、炙ってこれを食えば、自ら消ゆる也」とある。その後、この証に遭わば試さんと思えども、いまだ及ばず。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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