素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 

石 関 黑 山 墓 参 記・海保漁村による撰および書

海保漁村がみずから書した字を刻んだ墓があると『上総の人 海保漁村』(瀧口房州著 千葉日報社刊 昭和五十二年)で読み、どうしてもその字を見たくなった。同じく漁村が文字を撰んだ澁江抽齋の墓碣銘を読んだとき、あのように現代語でしか書けないような内容を、漢語でも表し得るということが私には驚きだったのだ。
それに加えて漁村の写真というものが伝わっていない。漁村自筆の自画像というものは残っていて(浜野知三郎編『海保漁村先生年譜 附論語駁異』昭和十三年刊掲載)、それはそれで興味深いが、大儒と称された人物が自画像を描こうとした意思は測りかねる。
私はその人の学問とともに、その人自身にも大いに興味があるので、漁村の字が残っているなら、ぜひそれを見たいと思ったのである。
漁村が文を撰び字を書いたのは石関黒山(寛政十年生まれ~安政五年二月十二日沒、享年五十九歳)という門人の墓表で、それは現在、群馬県前橋市陣馬町の小出神社境内にある。私は令和四年六月にここを訪れた。

 

 
小出神社社殿  
黑山墓遠景…拡大写真
 
 
 
   
 
 
墓表文-1
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墓表文-2
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石 関 黑 山 墓 表 を 読 む

《 読み下し文 》
石關黑山處士墓表 
嗚呼、是れ石關黑山處士の墓なり。處士、農家の子を以てするも、幼より乃ち學を績みて怠らず。長ずるに既(およ)んでは江戸に遊び、業を太田錦城師の門に受け、又た屡ばしば余に踵(いた)りて質疑す。蓋し将に進んで古人に己(をのれ)が為の學を求めむとす。居ること數年、河越侯※、其の名を聞くや、辟(め)して前橋の教授と為す。處士、人に教ふるに孝友惇睦※を以てし、先と爲す。藩の子弟、久しくして之に化し、駸駸として、嚮學励行せざるは莫し。侯、之を嘉みして、賜ふに紋服を以てす。人皆な之を榮とするも、處士は性、謙虚なりて託退※す。身、亦た善ばしば病み、教導の缺有るは大いに矦家の學を設けし所以の意に非ざるを懼る。ここに於いて一朝、辭去して、頺然と一室に清約して自ら甘んず。而れども子弟の之を嚮慕せる者、猶ほ昨のごとしと云ふ。處士、諱は光芳、字は子蘭、又た勝次郎と曰ひ、石𨵿は其の姓、黑山は其の自ら號する所なり。上毛陣場※の里人なり。父は太郎八と曰ひ、諱は光一、二子有り、長は正曉と曰ひ、次は即ち處士なり。處士、安政戊午二月十二日を以て家に終はり、享年五十九なり。里中、先塋の側(かたは)らに葬る。配は北爪氏、先づ卒す。子は男一、女二、皆な夭す。葬るの※明くる月、其の門人、相ひ與に謀りて其の碑を營建せむとす。處士、余を信ずること特に篤きを以てや、状を具(ぐ)し来たり、墓上の文を請ふ。余は以て辭す可からず。遂に其の概略を掲げ、以て之に表とす。
安政五秊歳次戊午冬十有一月
江戸 海保元備、撰幷びに書す 須藤永裕、鐫(ほ)る

※ 武蔵川越藩五代藩主松平典則 天保七年一月二十三日(1836年3月10日~明治十六年(1883年)七月二十四日)
※「古之學者為己、今之學者為人」〈『論語』憲問〉
※ 託退 自らの不足を知ってへりくだる 託退於不明、以求賢良、譲之至誠。<『漢書』晁錯伝>
「夫子踐位則退」<國語・楚語上> (注)退、謙退也。
※ 陣場里 現在は吉岡町陣馬。
之  独立した分の主語と述語の間に之を置くことで、「AのBすること」という句になり、文の主語や目的語となる。「狐之有孔明、猶魚之有水也」私に孔明がいることは、魚に水があることと同じことなのだ。<三国志・諸葛亮伝>

 

《 現代日本語訳 》
石関黒山処士墓表
嗚呼、これは石関黒山処士の墓である。黒山処士は農家の子であったが、幼時より学を積んで怠らず、長ずるに及んでは江戸に出て太田錦城師に入門し、また度々私のもとへ至って疑わしきを質した。恐らくは、孔子の言われた「自己を高め、深めるための学問」を進んで求めたのだろう。江戸で数年学ぶと、その名は川越侯の聞き及ぶところとなり、召されて前橋にある藩校の教授となった。そこでは、黒山処士は孝友惇睦、すなわち孝行・友愛・誠実・親睦を以て教授し、またそれを第一としたので、時を経ると学生は感化され、速やかに勉学に励行せざる学生はいなくなった。河越侯はこれを嘉みして紋服を下賜されたので、前橋の人々、陣馬の人々は皆なこれを栄誉とした。しかし黒山は性、謙虚であったので、まだ己に不足ありとして謙(へりくだ)った。また病気がちでもあったので、教導に欠のあった際には川越侯の学校を設けた所以を大きく違えることになると懼れたのである。このような次第で、ある日突然に侯のもとを辞去し、その後は故郷でつつましく、心安らかに自らを楽しみ、それを良しとしたのである。しかしながら、子弟の処士を據慕することは変りがなかったといわれる。 処士の生前の名は光芳、通称は子蘭、または勝次郎である。石関はその姓で、号しては黒山と名乗った。上毛(こうずけ)の国、陣場の里人である。父の通称は太郎八、生前の名は光一で、男児二子を挙げ、長男は正曉、次男がすなわち黒山処士である。黒山は安政戊午五年二月十二日を以て自宅で終焉を迎え、享年五十九であった。陣馬の里中の、先祖の墓にならんで葬られた。妻は北爪氏で、先に死んだ。子は男児ひとり、女児二人があったが、共に幼くして死んだ。黒山を葬った翌月、その門人たちが相い図って碑を建てることとなった。黒山処士の、私に対する信が特に篤かったからであろうか、門人たちが書状を携え来って、墓上の文を請うたのである。私は辞すこと可ならずして、黒山処士の概略を掲げ、ここに碑文とするのである。
安政五年戊午 冬十一月
江戸 海保元備が撰文し書す 須藤永裕が石に刻んだ

 

よそ行きの海保漁村の書

ここに見る海保漁村の書は、幕府の祐筆であった小島成斎(抽齋墓碣銘を書した)に比べて、遙かにのびのび、生き生きしている。これは私が予想していた通りだった。当時の大儒と称され、「周易漢注攷」「尚書漢注攷」の著者として高名な人であったが、その傍らで考証学者らと親交があり、彼らの著書に多く序文を書いているのであれば、身を修めて読書に日々を送っていただけの人とは思えない。
字を子細に見れば、縱に長くのばす線は多くがゆるやかな弧を描いており、横に長くのばす線も同様である。「はらい」「はね」は必ず右に大きく伸び、大きく跳ねている。これだけを多々見せられるのであれば食傷するが、もともとの字の構えがゆったりとしている。字のところどころに空気を吸ったような隙があって(9行目「場」、11行目「相」「謀」、1,8行目「石」、14行目「安」、4,14行目「以」など)、これが字にゆったりとした感じを与えているのだと分る。それ以上に、扁額の「石」字などは遊びを感じさせる。
漁村自筆の稿本は「玉篇真本水部攷証」(関西大学所蔵)や「周易古占法 四巻」<存二巻> (東京大学所蔵)などが伝わっているが、この墓表の字は墓に刻まれることを前提に書かれたためか、多分に余所行きの風があり、その分だけ美しい。
故人を訪ねようとする時、まず思い浮かぶのは墓に参ることだが、漁村の墓は大正の大震災で失われたという。嗣子である海保竹逕の墓は府中市紅葉丘の普賢寺にあるが、漁村その人の墓ではない。石関黒山と同様に、仕官することなく処士として生涯を終えながらも、大儒として畏怖された漁村の、少々畏まった姿がこのようなかたちで見られるのであれば、大変に貴重な墓表と言えるのではないだろうか。

 
 

■このページの基となる論考は日本内経医学会『季刊内經』2024年夏号(No.235)に「石関黒山墓表訪問記 海保漁村による撰と書」として掲載されたものです。その際には、当会の荒川緑先生に親切なご教示を頂きました。末筆ながら、篤く感謝の意を申し上げます。

 
 

■参考図書
濱口富士雄「群馬の漢文碑」東豊書店 平成19年

 
 
 
 
 
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