素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

素 問 の 編 集 ・ 刊 行 の 歴 史

 
 

この一文は、私の所属する古典鍼灸の研究会である青鳳会で、平成28年7月に私が担当した
講義「素問と霊枢の歴史」をもとに、再構成したものです。

【 は じ め に 】

私たち鍼灸師が鍼灸の古典書を読むということは、条文を読んで臨床に役立てようとすること
が多いのですが、出版の歴史というものを見ると、素問という書物が二千年に渡ってたどって
きた歴史が一望になり、たいへん興味ぶかいものです。
今回「素問と霊枢の歴史」ということで話をする機会をいただきましたが、今回はいつも話を
している素問の中身を解釈するのではなく、こちらの刊行の歴史についての話をしたいと思い
ます。
幸いに、最近では茨城大学教授・真柳誠先生の黄帝医籍にかんする詳細な研究に、われわれも
接することができるようになりました。この度は、主にこれをもとに話をすすめます。

※以下、両書の刊行状況が分るように同じ時代のトピックを併記しました。
素問については黒字、針経・霊枢については茶色字で表わしてあります。
また、緑字は注記紺字はその読み下し文です。

【 伝 承 】

①漢書・芸文志(当時の国家図書館の目録)に「黄帝内経十八巻」の名がある。

②傷寒論・張仲景の序に「素問、九巻、八十一難」の書名がある。(3世紀初)

③甲乙経・皇甫謐の序に「黄帝内経十八巻」とは「針経九巻」と「素問九巻」であると説か
れてある。「黄帝内経」が「素問」と「針経」であるという推測の端緒となった。
(事実は未詳で、甲乙経それ自体は、4世紀後半に無名の人が編纂して序を書いたが、7世紀初
頭に、序とともに皇甫謐が書いたことにされた)

当時の中国の文章や書物は、誰がどんな内容を書いたかということよりも、以前にあった文を
踏襲して書物を作り、有名な大家が書いたこと に託された、そういう書物があることが重要で
した。それ以降も、「昔書かれた文を踏襲して文を書く」という姿勢は、長く尊重されました。

皇甫謐(215年~282年)は、後漢の武将として有名な皇甫嵩の曾孫である。官職には就かず、
著述に専念した。寝食を忘れて書を読み、「書淫」と呼ばれたという。西晋の武帝は何度も
皇甫謐を招いたが、皇甫謐は仕官を断った。皇甫謐が武帝に対して本を借りたいと申し出た
とき、武帝は車一台の本を与えたという。

④王叔和「脈経」巻三(3世紀後半) 経文の出典に「右素問、針経、張仲景」などと記す。

中国をはじめて統一したのは秦でしたが、それ以前から蓄積されてきた医学知識が諸文献に
書かれ、その中から素問や霊枢の原型となるものが生れてきました。
これら基礎文献からの取捨選択・整理をへて後漢の1世紀前後までに「素問」の書名と原内容、
2世紀前後までに「九巻」(ないし「針経」あるいは現「霊枢」の祖本)の書名と原内容が成立し
ました。

「素問」の書名は、黄帝が問いかけ岐伯が答える形になっていることから、「素(たず)ね問う」
ことを表していると思います。素は策と通じる字で、さがす、たずねるの意があります。
「霊枢」は、霊はすぐれたもの、不可思議なものを表し(霊妙、霊長)、枢はかなめのことです
(枢要、枢務)。したがって、本源となる優れた医療や治療上の知識といったことを表している
書名ではないでしょうか。
また大雑把な分け方ですが、「素問」は四時(季節)、つまり陰陽の消長にしたがって病気も消
長し、治療もまた、それに合った治療をしてゆけば治るという大筋があるようです。
「霊枢」では、経脈の虚実の変動によって病気がおこる。よって治療も経脈の虚実を調整する
ことによって治せるという大筋があるようです。
脈法については、「素問」は三部九候診といって、頭、腕、下肢で各三か所ずつ脈をみて、そ
の虚実で診察するする。「霊枢」の方は、人迎寸口診といって、頸動脈と手くびの橈骨動脈の
拍動をくらべて診察するというのが大筋です。
素問と霊枢はおなじ「黄帝内經」という枠の中に統一されていますが、基本的な考え方は大き
く違っています。なぜこの二書が、一つのものとして扱われるようになったのか。この謎は、
宋の時代の王継先の登場によって明らかになります。

素問の歴史は、中国歴代の学者の編集したものが、現われては失われてゆく歴史です。下の図
を見ながら、その歴史を追ってみましょう。
拡大⇒

素問の存亡

 


【 歴  史 】
① 全元起(500年前後の人)が、訓解や篇順の整理をくわえ、『黄帝素問』八巻を編纂した。(全元起
本、北宋以降に散佚)
② 唐代では王冰が全元起本も参照し、各篇「次」にわたり「注」を加えた「次注本」を編纂し
『黄帝素問』とした(762年序)。この王冰次注本も現存しない。
王冰は「素問」の序で「黄帝内経」十八巻の内容が、「素問」と「霊枢」であるとしている。
また、王冰の行った編集は、それまでにあった素問を、文章こそ変えていないものの、章の途
中で区切って入れ替えたり、他の文章に付け加えたりして、ほとんど換骨奪胎するようなもの
でした。また「運気七篇」というものも19,20,21巻に新しく書き加えています。ここで素問の
原型は大きく失われたのです。

③ 北宋では校正医書局による校正が4度行なわれ3度の校定本『黄帝内経素問』が出された。
(11~12世紀初) この時、全元起本、王冰次注本も参照されている。

(1) 針経(のちに「霊枢」と呼ばれる)についても、本格的に校正が試みられたのは北宋におい
てであるが、宋朝の所蔵していた針経は、欠落・欠本の多い零細な「針経」一巻というもので
あった。
その後、高麗からの将来本をもって、秘書監(秘書省長官)・王欽臣が「黄帝針経」の刊行をす
るよう上申した。〔1093年 元祐本「針経」、現存しない〕

北宋校正医書局主要メンバー
高保衡…高若訥(枢密使、997~1055、『素問誤文闕義』一巻、『傷寒類要』四巻)の次男
林億…高若訥の女婿
孫奇…太医令・孫用和の長男。
孫兆…孫用和の次男。高若訥の門下。

「臣億等按」と書き出す「甲乙経」や全元起本との校異注が4箇所あるだけなので、「新校
正云」と書き出す数多くの注は、孫兆が担当したのではないかと考えられる。

④  北宋が金に滅ぼされ(1126年)、首都に保存されていた③の版木も持ち去られた。そのため、
南宋では二度目の校定本(熙寧本)を覆刻して、新たに素問を行刊した(紹興本)。                                                                                                                                                                           
(2) 針経は南宋時代、有力な民間医である史崧(しすう)の上申により、皇帝の侍医・王継先の
主導で素問とともに合刻、公刊された。『重広補註黄帝内経素問霊枢』[重広…二書の合刻 の
意]  <紹興本、現「霊枢」の祖本>

史崧が民間医でありながら由緒ある「針経」の書名を変更して「家藏の旧本『霊枢』九巻」と
記すことはありえません。また典籍を管理する秘書省ができることでもありません。巻数を素
問二十四巻と同一にしたこととともに、これは当時絶大な権力を持っていた皇帝の侍医・王継
先のアイデアでした。王継先はこうすることによって、素問と霊枢こそが「黄帝内經」である
という王冰序の主張にしたがって、漢書・芸文志の「黄帝内經」を再現することに成功したの
です。
                  

史崧と王継先
霊枢の史崧序に「・・・国子監令崧、専訪請名医、更乞参詳・・・」とある。南宋の秘書省
は蔵書と校書、国子監は出版を担当した。国子監が史崧に命じて参詳を懇願させた「名医」
すなわち、当時の最高医とは、高宗を籠絡したため佞幸と称された王継先(1098~1181)が
第一に想起される。
王継先は南宋の高宗(位1127~62)に侍医として仕え、幸医・国医・王医師と呼ばれた。11
42年、金との和平で拉致から送還された顕仁太后(徽宗の妻、高宗の生母)の病を治し、さら
に寵を得て高官を歴任し、絶大な権力を数十年ふるった。金との和平を実現させた専制実権
者・秦檜も王継先と義兄弟をむすび、高宗に「国事は(秦)檜、家事は(張)去為、一身は(王)
継先に委ねる」と言わしめ(張去為は宦官頭で、高宗の最側近のひとり)、この三人が紹興中
後期の中枢を牛耳っていた。

霊枢・史崧序(部分)
諸書を参對し、校正家藏の舊本靈樞九巻ともども八十一篇の校正を再行し、音釋を譬修し
て巻末に附し、勒(まとめ)て二十四巻と爲す。庶(こいねがわく)ば、生を好むの人をして、
開巻すること易く、明了ならしめ、差別なく除かしめん。 状を具(そな)え、所屬を經て明
外を申し、使府の指揮に准(したが)い、條(規則)に依り、奮運司に申し、詳定を選官し、書
を具えて秘書省に送る。国子監、崧をして専(ただ)に名医を訪い請わしめて、更に参詳を 乞
わしめ、誤りを免れしめて、利益の無窮を将来せしむ。功實、おのずから有り。

⑤ 北宋で校定された素問はいずれも現存していないが、熙寧本を祖本とする紹興本をもとにし
て、金、元でも素問が出され、この中には現存するものがある。

⑥ 明代では宮廷に仕えていた顧從徳(こじゅうとく、生没年不詳)が、⑤の紹興本をもとに素問
を覆刻しました。顧從徳の仿宋本が善本(字句に間違いのない本)であることは常識となってい
ます。この明代の本は北京、台北などに現存しています。 現在、私たちの読むことができる
「素問」は、明代に顧從徳が覆刻したこの素問です。

顧從徳仿宋本 嘉靖29年(1550年)
底本は南宋の紹興本(1155年)であり、その祖本は北宋の徽寧本(1069年)である。
「天下之意甚切朋欲廣其佳本公、暇(手の空いたとき)校讐至忘寝食、予小子敢遂翻刻」

「天下の意、甚だ切朋にしてその佳本を公に廣めんと欲す。ひまひまに校讐するも、寝
食を忘るるに至り、予小子、敢えて遂に翻刻す」


※仿宋本とは、宋代に出された本をまねて公刊した本です。 仿は「まねる」、「類似」の意
味があります。宋代に公刊された本は美しい字で版木に彫られたものが多いので、これを真似
て作った本をとくに仿宋本といい、珍重されました。ほかに「槧本」という言い方があります
が、これは印刷本の意味です。とくに文字の美醜についてはニュアンスを持たない言葉のよう
で、元槧本といった言い方に使います。
「刊本」も「槧本」とおなじく印刷された本のことで、この当時は版木を彫って印刷するのが
主でした。印刷されず手で書き写した本は、「抄本」といいいます。木彫印刷が普及するまで
は、抄本が主流でした。
活字は木活字が12世紀までには中国で発明されていました。金属活字は、13世紀になってから
朝鮮で発明されました。
また「影抄本」というものもありますが、これは現代になってから、写真に撮って印刷したも
のです。

顧定芳(1489~1554)と顧從徳
1993年2月から4月にかけ、上海の打浦橋で七基の明墓が発掘され、その一基が顧定芳のも
のであった。顧氏は代々上海の名家で、定芳は世宗(嘉靖帝)の太医院御医となり、聖済殿御
薬房に勤務、官位は修職郎にのぼっている。入手した宋版「医説」十巻(1228年)を家伝の秘
とせずに影刻した(1544年)ことでも知られ、その序では素問の重要性を幾度も強調している。
定芳には六男三女があり、長男・従礼の墓からは、その妻ともども未腐乱の乾屍(もと湿屍)
として出土して話題となった。
從徳は二男で官位は鴻臚寺序班にいたった。鴻臚寺は朝廷儀礼の主管庁で、序班は儀礼時に
官僚班位の整理をつかさどる職であった。從徳は素問の影刻以外に、秦漢の古印1750方を録
した「集古印譜」四巻も出版している(1572年)。
三男・從仁も金石家・収蔵家として知られ、顧定芳一家には好古の風があり、それが宋版医
書の影刻にも通底する。
               

※明代の顧從徳本素問は江戸時代の日本にも何冊かがあったことが森立之・澀江抽齋『經籍訪
古志』に記されています。澁江抽齋の所蔵というものもあり、「澀江氏の顧本は、久志本氏こ
れを滅して和刻本と成す」と、覆刻して和刻本を公刊したことが記されています。これには「實
に惜しむべし」という森立之の辭も添えられていますが、この裏には深い意味がありそうです。
久志本氏とは、徳川家康が関東にやってきたとき、医師としてともにやって来た、もと伊勢神
宮の宮司でした。抽齋や立之の属する医学館=多紀家も元をたどれば12世紀に「医心方」を書
いた丹波康頼にたどり着きますから、決して見劣りする家柄ではありませんが、徳川家に近い
か遠いかという意味では、久志本氏のほうに軍配が上がります。なので、森立之にとっては、
一種のパワハラに感じられたのではないかと思うのです。古本を愛して已まない立之ゆえ、書
かねばならなかった一言なのだと思います。


≪内經医学会版「素問」と「霊枢」について≫

現在、世に伝わっている「素問」と「霊枢」は、南宋代に刊行された『重広補注黄帝内経素問
霊枢』以外にはありません。ことに「素問」は明代に顧從徳が刊行したものだけです。
そして、もっとも入手しやすい内經医学会版の「素問」も、この流れに沿ったものです。その
封面(表紙をめくった第一ページに当る頁で、その本の由来が書いてある)を見ると「四部叢刊」
とあり、涵芬楼所蔵としてあります。涵芬楼は1902年に上海で開設された商務印書館内にあっ
た図庫で、開設者である張元済(1867~1959)の所蔵する図書「四部叢刊」をおさめた図書館
でした。商務印書館は初期には主に商業簿記を取り扱っていたので、「商務」の名があります。
ここでは辞書として「辞源」も刊行されました。

  枳竹鍼房・素問の歴史
日本内経医学会・影抄版

 

この一方で、数年前まで「台湾本」として日本でも凡用されていた「素問」「霊枢」もあります。
これは陸費逵(りくひき)の所蔵する「四部備要」に納められていたものを、活字に打ち直して刊
行したものです。現在は絶版になってしまいましたが、素問、霊枢の内容を実際に読んで理解し
ようとすると、写真版(日本内経医学会版)よりも、目から脳に入りやすいという理由で、今でも
重宝されています。
中華書局は1912年に上海で開設され中国各地に支店がありましたが、大陸に人民共和国ができ
て以来、台北の支店だけが残り、今でも繁体字(旧体の漢字)で本を作り続けています。辞書は
「辞海」を刊行しました。

枳竹鍼房・素問の歴史
中華書局・活字翻刻版

 

【 補 足 】
以下は真柳誠『黄帝医籍研究』(汲古書院 2014年)に記されていることですが、私の手元 にあ
る天宇出版と内經医学会版の「黄帝内経素問」でも確認できたことなので、採録しておきます。

まず、天宇堂出版から刊行されている「素問」を見ると、顧定芳の校記がある(①-5行目)。初
刻本にはこの校記がなかったことを考えると、こちらは補刻本であることが分る。(①)

 
枳竹鍼房・素問の歴史


一方、内經医学会版「素問」の最終頁をみると、一行削除されて9行になっているのが分る。
これ は顧定芳校記の一行を版木から削除した補刻本である。(②)

 
枳竹鍼房・素問の歴史


双方の匡郭を見比べると、同じ箇所が欠けていることも分り、同一の版木を使って印刷された
ことも分る。(① ② の丸囲い部分) わざわざ顧定芳校記の一行を削除する理由は、顧氏の名が
あれば、明代の本と分る。明より宋代の本の方が高く売れることから、書賈はこの一行を去っ
て印刷し、宋代のものと偽って売ったということである。
また補刻本で顧定芳校記をあとから入れ木したとあるが、この一行だけ、版木がわずかに短く
なっていることも分って興味ぶかい。(③)

 
枳竹鍼房・素問の歴史

 

顧氏初刻本: 顧從徳の跋文(二葉)のみで、顧定芳の校記なし。
補刻本 : 定芳の校記(1行)が、最終頁にある。(②)
顧從徳跋の二葉は本文と連続しない単独であるため、抜き去られても不審が生じない。こうし
た理由によってか、顧從徳跋を書頭に配する本もある。のち、二度目の彫版では定芳校記を入
木で補刻した。

また、内經医学会版「霊枢」には「炳卿珍蔵」の蔵書印がある。「炳卿」は内藤湖南博士の号
である。

≪参照≫
真柳誠『黄帝医籍研究』汲古書院 2014年
真柳誠『素問』版本研究(その一)~(その四) 「季刊内經」No.188~191

 
 
 
 
 
 
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