素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  素問・寳命全形論篇第二十五 読み下しと現代語訳

霊枢・九鍼十二原第一の内容の一部を発展させた部分がある、ということで読んだものです。
細かい分析はさておいて、とりあえず読み下して、現代日本語訳を掲げておきます。

1-1 黄帝問曰、天覆地載萬物悉備。莫貴於人、人以天地之氣生、四時之法成。

《読み下し文》黄帝問ふて曰く、天は覆ひ、地は萬物を載せ悉く備ふ。人より貴きは莫く、人は天地の氣を以て生れ、四時の法、成る。

《現代語訳》黄帝が問うて言うには、天は覆い、地は萬物を載せて悉く準備を整えている。人間より貴いものはなく、その人間は、天地の気を以て生まれ、四季を司る法(のり)が運行されている。

《記》まず人間は天地にしたがい、四季にしたがう生活をすれば身体と精神は保たれるという、素問の精神が掲げられる。これは素問巻頭の上古天眞論第一、四氣調神大論第二が同様に是とするところである。

1-2 君王衆庶、盡欲全形、形之疾病、莫知其情、留淫日深、著於骨髓、心私慮(太素・患)之。余欲鍼除其疾病、爲之奈何。

《読み下し文》君王、衆庶、盡く形全からむと欲するも、形の疾病するや、其の情を知らず、留淫すること日に深ければ、骨髓に著き、心は私(ひそ)かに之を慮(太素・患)る。余、鍼にて其の疾病を除かむと欲す、之を爲すこと奈何。

《現代語訳》君王も庶衆も、皆、体が無事であることを望んでいるが、体に病気が起るや、その事情が分らないので、病が留り続ければ、身体の深く骨髓にまで着き、心ひそかに病んだ体に心を悩ませるだけだ。私は鍼を以てその病を除きたいと考えているが、どうしたら良いだろうか。

《記》 次に病を得た場合に鍼でどう治療すべきかという問いが投げかけられる。当時、鍼が湯液とならんで重要な治療法だったことが窺われる。

2-1a 岐伯對曰、夫鹽之味鹹者、其氣令器津泄。
2-1b 絃絶者、其音嘶敗。
2-1c 木敷者、其葉發。
2-1d 病深者、其聲噦。
2-2a 人有此三者、是謂壞府、
2-2b 毒藥無治、短鍼無取、此皆絶皮傷肉、血氣爭黒。

《読み下し文》岐伯對へて曰く、夫れ鹽の味、鹹(しおか)らければ、其の氣、器をして津泄せしむ。絃絶へれば、其の音、嘶(か)れ敗(やぶ)る。木(もく)敷(ひろがれ)ば、其の葉、發(廢)す。病、深ければ、其の聲、噦(えづ)く。人に此の三つ有れば、是を壞府と謂ひ、毒藥も治すること無く、短鍼は取ること無く、此れ皆な、皮、絶へ、肉、傷れ、血氣爭ひて黒し。

《現代語訳》岐伯が答えて言うには、塩の味は塩からいので、その気は腎臓・膀胱から水を滲み出させます。その上に脈が絶えると、声は嗄れます。さらに木気が盛んになると、肺葉が潰れます。さらに病が深ければ、声がしゃくり上げるようになります。この三症状が現れた場合、壞府といい、強い薬でも治すことができず、短鍼を用いた経絡の治療では治すことができません。こうなると皮膚は裂け、肉も傷れ、血気は爭って全身が黒くなります。

2-2a 人有此三者、是謂壞府  《記》ここに「壞府」という恐ろしい病がいきなり登場する。「壞府」とは、開胸手術に相当する病というほどの意味だと、2-2a の注に王冰が述べている。この病が突然に登場することについては新校正も怪訝に感じている節があり、これについては後に述べることとする(2-2b 記)
ここまでの論旨は、人間は天地の気を受けて身体を成し、それを全き形で保とうとしているが、如何んせんそれはできるものではない。鍼を以てすればそれも可能なのではないか、と黄帝は岐伯に尋ねるが、岐伯はいきなり鹹(しおからい)味が腎臓・膀胱から水を滲み出させる害について語り始める。何かの毒物による当時の公害かとも思われるが、ともかくも岐伯による恐ろしい病気についての説明がはじまるのである。腎臓・膀胱から水を滲み出、脈が絶え、声は嗄れ、最終的には肺葉が潰れるという病気だが、当時、こうした鍼では治らないような恐ろしい疫病が流行したのではないだろうか。
この「壞府」の病理を解く議論が王冰によってなされる。王冰はその症状が三つ上げられているとして、①脈弦絶、②肺葉發、③聲濁噦(えづく) を掲げている。これに対して森立之は、その症状とは、以下の四者でなければならない。 ①其氣令器津泄、②其音嘶敗、③其葉發、④其聲噦 である。すると素問の条文に書いてある「三者」と食い違うが、ここに書いてある「三」とは「四」なのではないか、というのが立之の主張である。「三」が「四」の誤りである根拠として、籀文では「四」を「■ 二+二」と書き、これに従って隷書でも多く「■ 二+二」と書く。古代に隷書で書かれた「■ 二+二」を「三」と読み誤った結果が、素問本文の「人有此三者」ではないのか、というのが立之の論である。
論旨を具さにみれば、岐伯の答えは「岐伯對曰、夫鹽之味鹹者、其氣令器津泄」と、第一の症状は ①其氣令器津泄 であることが明白である。王冰の上げる ①脈弦絶 は「絃絶者、其音嘶敗…脈が絶えた者は、声が嗄れる」と「音嘶敗」の条件を示しているにすぎない。森氏の挙げる ①其氣令器津泄、②其音嘶敗 の方が症状としては具体的で重みがあるのではないだろうか。
この寳命全形論では王注と森立之の対立が際立っているが、緒戦はこの場で開かれたのである。

もう一点注目すべきは、ここで「壞府」と呼んでいる開胸手術を要する病についてである。王氏によれば、「壞は其の府(胸部)を損壞して病を取る謂ひなり」と説いて、「壞府」とは「開胸手術相当の病」という意味だとしている。つづけて「『抱朴子』に云ふ、仲景、開胸し以て赤餅を納むと。此に由れば則ち、胸は啓きて病を取ること可なり」と『抱朴子』至理篇にある開胸手術についても触れている。

2-2b 毒藥無治、短鍼無取、此皆絶皮傷肉、血氣爭黒。新校正も「壞府」の登場について怪訝に感じているのである。それを「岐伯の對へと黄帝の問ふ所とを詳らかにするに、相當せざるなり」、すなわち岐伯の答えが黄帝の問いと食い違っているという言葉で示している。以下に、新校正注を見よう。
新校正云ふ、岐伯の對へと黄帝の問ふ所とを詳らかにするに、相當せざるなり。別けて(特に)太素の云ふを案ずるに、「夫鹽之味鹹者、其氣令器津泄。弦絶者其音嘶敗。木陳者其葉落。病深者其聲。人有此三者、是謂壞府。毒藥無治、短鍼無取。此皆絶皮傷肉、血氣爭」三字を此の經と異とし(敷→陳、發→落、黒→ナシ)、同じならず。而れども大異に注意すべし。楊上善、注して云ふ、病の徴(きざし)を知らむと欲すと言はば、須らく其の候を知るべし、鹽の器に在りて中(み)ち、津液、外に洩れ、津、見はれれば而ち、鹽に鹹(しおから味)有るを知る也。聲、嘶(か)れれば、琴瑟の弦、將に絶ゑむとするを知るなり。葉、落ちれば、陳ぶる木の已に盡きるを知るなり。此の三物を舉げ、衰壞の徴とす。聲を比べるを以て、噦する(えづく)は病深きの候と識るなり。人に聲の噦する有るは三(鹽之有鹹、聲嘶弦將絶、葉落者知陳木之已盡)と同じなりて、譬へば是れ、府壞の候たりて、中府の壞れるは病の深き也。其の病、既にして深き故に、鍼藥も取ること能はず。其の皮肉、血氣は、各々相ひ得ざる故なり。
再び上善の作を詳らかにすれば、此等の注の義、方に黄帝上下の問答の義と相ひ貫穿(貫き通る)す。王氏の解は、「鹽鹹器津」の義、注に於けるや淵微(深淵で理解しがたい)の至りと雖も、「絃絶音嘶、木敷葉發」は殊なりて帝の問ひと相ひ協せず。これを考えるに、楊義(楊注の示している解釈)の得ること多なるには若(およ)ばざるなり。
素問の王冰注とは、一貫して史上諸注家の尊崇するところと私は盲信していたのだが、この新校正の態度を見ると考え直さざるをえない。(この妄信を最初に破ったのが『素問攷注』だったのだが)
以下に当該の王注を掲げておく。
2-1a 岐伯對曰、夫鹽之味鹹者、其氣令器津泄。 王注…鹹は鹽味の謂ひなりて、苦は浸淫して物を潤す者なり。其れ鹹は苦と爲りて水より鹹を生み、水を有すなり(水から鹹ができ、水もできる)。潤ほし下して苦(苦味)、泄るるが故に、能く器をして水を中(ミつ、みたす)たし、津液も潤滲して泄る。凡そ器に中(み)ちて物を受くる者は、皆な之を器と謂ひ、其の體外に於けるや、則ち陰嚢と謂ひ、其の身中に於けるや、所を同じうすれば則ち膀胱と謂ふ。然れども、以て病を五藏に配せば則ち、心氣、腎中に伏して去らざれば、乃ち是(ゼ、よい)と爲す。何となれば、腎は水を象りて味は鹹、心は火に合して味は苦、苦は汗液を流し、鹹は胞嚢に走り、火は水を持せ爲(し)む。故に、陰嚢の外は、津潤すること汗の如くして、滲泄すること止まざるなり。凡そ鹹の氣に爲(お)けるや、天、陰(かげ)れば則ち潤し、土に在れば則ち浮かしめ、人に在れば則ち、嚢、仔して皮膚は剝起す。
2-1b 絃絶者、其音嘶敗。 王注…陰嚢より津、泄れれば、而ち脈絃、絶すとは、診、當に言音、嘶嗄し、舊聲は敗易せむとす。何となれば、肝氣、傷るる也。肝氣、傷れれば則ち、金本は缺す。金本、缺すれば則ち、肺氣、全からず。肺は音聲を主るが故に、言音、嘶嗄す。
2-1c 木敷者、其葉發。 王注…敷とは布(ひろ)がる也。木氣の外に散り布がるを言ふ。部(わ-ケル)くる所に榮ゑるとは、其の病、當に肺葉の中に發せむとする也。何となれば木氣を以て發散する故なり。平人氣象論に曰く「藏真、肝に散れば、肝、又た木に合する也」と。
張…敷とは、内に潰るる也。發とは、飄堕せる也。「木敷於外」者、凋殘の兆なり。喩へて言はば、人の肝脾、已に損ずれば則ち、色、夭し、肉、枯るる也。
森…「太素に」云ふ「木、陳ぶるとは、其の葉、落つるなり」と。義に尤も切(密着する)す。「史記・扁鵲傳」に「破陰、絶陽の色にして、已に廢す」と。徐廣、曰く「一は、發に作る」と。
右の張介賓と森立之、両者の注によれば、この「發」は「廢」の借字のようである。
2-1d 病深者、其聲噦。 王注…噦くとは聲の濁惡せるの謂ひ也。肺、惡血を藏するが故に、是の如し。
2-2a 人有此三者、是謂壞府、 王注…「府は胸の謂ひなり。肺を以て胸中を處す故なり。壞とは其の府を損壞する謂ひなりて、而ち病を取る也。抱朴子に云ふ、仲景、開胸して以て赤餅を納むと。此れに由れば則ち、胸は啓(ひら)きて病を取ること可なり。三とは①脈弦絶、②肺葉發、③聲濁噦 なり」
2-2b 毒藥無治、短鍼無取、此皆絶皮傷肉、血氣爭黒。 王注…病、内のかた肺中に潰ゑるが故に、毒藥も治せず。外のかた經絡にも在らざるが故に、短鍼も取ること無し。是れ以て、皮、絶ゑ、内、傷られ、乃ち之を惡血を以て攻むること久しくして可なれば、肺氣と交爭す。故に當に血、見はれて、色、黑き也。

3 帝曰、余念其痛、心爲之亂惑、反甚。其病不可更代、百姓聞之、以爲殘賊、爲之奈何。

《読み下し文》帝曰く、余、其の痛(かなし)みを念(おも)へば、心に亂惑を爲し、反すること甚し。其の病、代を更ふる可からず、百姓之を聞けば殘賊と以爲(おも)ふ、之を爲すは奈何。

《現代語訳》黄帝が言うには、私はその悲しみを思えば、心は乱惑し、自分の治世を反省するばかりだ。このような病は次世に伝えるべきではない。どんな民も、この病のことを聞けば痛ましいと思うだろう。一体、どうすれば良いのだろうか。

《記》 この黄帝の言葉には、定型ではない真実味が感じられ、当時流行したのであろう疫病の悲惨さが察せられる。

4-1 岐伯曰、夫人生於地、懸命於天。天地合氣、命之曰人。
4-2a 人能應四時者、天地爲之父母。
4-2b 知萬物者、謂之天子。
4-2c 天有陰陽、人有十二節。天有寒暑、人有虚實。
4-2d 能經天地陰陽之化者、不失四時。
4-2e 知十二節之理者、聖智不能欺也。
4-3 能存八動之變、五勝更立、能達虚實之數者、獨出獨入、呿吟至微、秋毫在目。

《読み下し文》岐伯曰く、夫れ人は地に生れ、天に命(めい)を懸く。天地の合氣、之を命(なづ)けて人と曰ふ。
人の能く四時に應ずる者は、天地を之が父母と爲す。
萬物を知る者は、之を天子と謂ふ。
天に陰陽有りて、人に十二節有る、天に寒暑有りて、人に虚實有るなり。
能く天地陰陽の化を經(ふ)る者は、四時を失はず。
十二節の理を知る者は、聖智も欺(=侮)ること能はざる也。
能く八動の變、五勝の更立を存し、能く虚實の數に達する者は、獨り出で、獨り入り、呿吟も至微なりて、秋毫も目に在り。

《現代語訳》岐伯が言うには、人というものは地に生れ、天に運命を委ねています。したがって、天地の合気が人であると言うことができます。
こう考えると、四時の法則通りに生きられる者は、天地を自分の父母とすることができます。
万物について知る者は、天命を受けて天下を治める天子と言うことができるのです。
天に陰陽があるように、人は外に十二月を有し、内には十二經脈を有しています。天に寒暑があるように、人には虚實があります。
天地陰陽の創造物を治める者は、四時の法則を取り違えることはありません。
また一年十二月、人にあっては十二経脈の理に通暁している者に対しては、聖智と呼ばれる存在であっても侮ることはできません。
八節の気の変化、五行の気の交々旺ずる機を捉える事ができ、また虚実に対する補寫の技術に通暁している者は、誰にも知られることなく幽冥の境を出入りすることができ、呼吸もごく微かであり、世界の変化の秋毫がことごとく見えているものです。

《記》疫病であろう病の跳梁に苦渋する黄帝に対する岐伯の最初の答は、まずは順当なところから始まっている。

5 帝曰、人生有形、不離陰陽。天地合氣、別爲九野、分爲四時、月有小大、日有短長。萬物並至、不可勝量。虚實呿吟、敢問其方。
6-1 岐伯曰、木得金而伐、火得水而滅、土得木而達、金得火而缺、水得土而絶、萬物盡然、不可勝竭。

《読み下し文》帝曰く、人生れて形有り、陰陽を離れず。天地の合氣、別れて九野と爲り、分れて四時と爲る。月に小大有り、日に短長有り。萬物並びに至り、勝げて量る可からず。虚實の呿吟、敢へて其の方を問ふ。
岐伯曰く、木は金を得て伐られ、火は水を得て滅ぶ、土は木を得て達(とほ)し、金は火を得て缺け、水は土を得て絶ゆ。萬物盡く然り、勝げて竭す可からず。

《現代語訳》黄帝が言うには、人間は生れるや体を持つので、陰陽を離れることはできない。天と地の合した気は、別れて九野・九州の中国全土を作り、また分れては 四季・四時をなす。月は満ち欠けを繰り返し、日は季節によって長短を繰り返す。万物はこのように一斉に揃って行なわれ、それがどれだけあるものか量ることはできない。虚實の呿法(補法)と吟法(瀉法)を、何としても聞きたいものだ。
岐伯が答えていわく、樹木は金刃を以て伐られ、火は水によって消されます、土は木の根によって通され、金刃は火に入れると欠け、水は土を盛れば堰き止められます。万物が互いに力を削ぎ合う関係はこのようなもので、いま掲げた例えで全て言い尽すことができるでしょう。

《記》疫病(と思われる病)を駆逐するための具体的な方法として、虚實の補法と瀉法(呿法と吟法)を問われた岐伯は、五行の相剋に基づいた方法を黄帝に示す。

6-2a 故鍼有懸布天下者五、黔首※共餘食、莫知之也。

《読み下し文》故に鍼の天下に懸け布がる者、五有るも、黔首共に食を餘らせ、之を知ること莫き也。

《現代語訳》故に鍼が天下に広く示し得るものは五つありますが、現今の庶民は飽食することを知ってしまい、この五つなど気にもかけません。

《記》鍼の補法と瀉法について訊かれた岐伯は、五行の相剋に基づいた鍼を示したのだが(6-1)、それに続いて「鍼有懸布天下者五 鍼が広く天下に示しうるもの」として五つを挙げている。しかし、ここから論はまた辻褄が合わなくなって来る。「黔首共餘食、莫知之也 現今の庶民は飽食することを知ってしまい、この五つなど気にもかけません」という辭を以て、岐伯=素問は霊枢の九鍼十二原を糾弾したいようなのである。

6-2b一曰治神、
6-2c 二曰知養身、
6-2d 三曰知毒藥爲眞、
6-2e 四曰制砭石小大、
6-2f 五曰知府藏血氣之診。
6-3a 五法倶立、各有所先、今末世之刺也。

《読み下し文》一を神を治むと曰ひ、
二を身を養ふを知ると曰ふ、
三を毒藥、眞を爲すを知ると曰ひ
、四を砭石の小大を制すと曰ひ、
五を府藏の血氣の診を知ると曰ふ。
五法、倶に立てば、各々先とする所有るも、今は末世の刺なり。

《現代語訳》その第一は、鍼師が精神を平らかに治めるということです。
第二は、身を養うということを知ることです。
第三は、強い薬が本当の効きめを持っていることを知ることです。
第四は、砭石の小大を見極めて、よく使いこなすことです。
第五は、府藏の血気の診断を確実につけるということです。
『九鍼十二原』のいう小鍼で經気を調整するだけでなく、毒薬や砭石も含めたこの五つを運用することができ、何を先に用いて治療を行なえばよいか理解できていれば万全ですが、今の小鍼にたよる鍼治療というものは末世の鍼です。

《記》黄帝が補法と瀉法について訊ねた問いについて、岐伯は五行相剋の治療を以て答え、さらに鍼が天下に広く示せるものとしてこの五つを上げたのであるが、やはり問答は噛み合っていない。
そしてもう一度「
今末世之刺也 今の小鍼にたよる鍼治療というものは末世の鍼です」と、霊枢の九鍼十二原学派を非難するのである。

6-3b 虚者實之、滿者泄之、此皆衆工所共知也。若夫法※1天則※2地隨應而動、和之者若響、隨之者若影。道無鬼神、獨來獨往。

《読み下し文》虚する者は之を實し、滿つる者は之を泄らすは、此れ皆な衆工の共に知る所なり。若し夫れ天に法り地に則つとらば、隨ひ應じて動き、之に和す者は響くが若く、之に隨ふ者は影の若し。道に鬼神無く、獨り來り獨り往く

《現代語訳》『靈樞』に書いてある「虚する者は之を實し、滿つる者は之を泄らす」の文句はどんな鍼師も諳んずるところとなったが、天地の法に随いさえすれば、患者も響くがごとく和し、影のように随い治るものです。鍼の道には鍼師を手助けする怪しい鬼神などなく、上工はまったく一人で、天地の法と四時の法に則るべく患者を調えて治すのです。

6-3b についての注は、王冰、楊上善、森立之を比較すると興味深いものがある。
王…「隨ひ應じて動く」とは、其の効を言ふ也。影の若く響くが若く、とは、其の近きを言ふ也。夫れ影の形に隨ふが如く、響きは聲に應ず。豈に復た鬼神の召し遣わさるること有らむ耶。蓋し隨ひ應ずるに由つて、動は自ら得らるる爾。
楊…天地の動きに應ずる者は、之を道と謂ふ。有道の者とは其れ鬼なり。神ならざるが故に道に與(あづか)りて往來す。鬼神に假すこと無し。
森立之「素問攷注」に引いてあるこの注は「有道之者其鬼不神」と記してあるが、「其不鬼神」ではないだろうか。
森…「往來」は虚實の謂ひなり。「獨」とは「工獨有之」なり。靈樞・九鍼十二原第一に云ふ「知其往來、要與之期(正気が来る<實>のか去ってゆく<虚>のかを見極めて、必ずそのタイミングに合せなければならない)。麤之闇乎、妙哉工、獨有之」と此れと同義なり。諸注、皆な觧を失せり。詳しくは下文「可玩往來(往來を玩す可し、虚實をじっくりと診察せよ)」に見はる。
楊氏は王注に従って、天に応じ、従うことによって治療が成されるとしているが、森氏はこの「往来」は鬼神の往来ではなく、気の虚実を言っているのだと説いている。正論であり、いつもながら森注の視点の高さを思わされる。

7-1 帝曰、願聞其道。
7-2a 岐伯曰、凡刺之眞、必先治神、
7-2b 五藏已定、九候已備、後乃存鍼、衆脈不見、衆凶弗聞。
7-2c 外内相得、無以形先、可玩往來、乃施於人。

《読み下し文》帝曰く、願はくは其の道を聞かむ。岐伯曰く、凡そ刺の眞は、必ず先づ神を治め、
五藏已に定り、九候已に備る、後ち乃ち鍼存れば、衆脈見はれず、衆凶も聞こゑず。
外内相ひ得るも、以て形を先にすること無く、往來を玩(め)づること可ならば、乃ち人に施す。

《現代語訳》帝が言うには、願わくはその鍼の道を聞かせてもらいたい。
岐伯いわく、およそ鍼の眞は、まず治療者が自分の精神を集中させるところから始まります。
五藏の診断が決定し、三部九候の脈診結果も決まった後に鍼をはじめると、七死脈もなく、相乗、相侮といった不正な五藏関係も認められなくなります。
患者の体の内と外に現れている様が相合うようになっても、体外の表相だけにたよらず、病の来襲期なのか、退潮期なのかを玩味できるようになったら、病人に鍼をしてもよいと言えます。

7-3a 人有虚實、五虚勿近。五實勿遠、至其當發、間不容□(日+寅) 。
7-3b 手動若務、鍼耀而匀、
7-3c 靜意視義、觀適之變、是謂冥冥。
7-4a 莫知其形、見其烏烏、見其稷稷。從見其飛、不知其誰、
7-4b 伏如横弩、起如發機。

《読み下し文》人に虚實有れば、五虚は近(近速の刺法)勿かれ、五實は遠(遠遲の刺法)勿かれ、其の當に發せむとするに至らば、間に□(日+寅、まばたき) ※を容れず。
手の動き、務むるが若ければ、鍼、耀きて匀(ととの)ふ、
意を靜※(きよ)め義を視、適ふ變を觀よ、是を冥冥と謂ふ。
其の形を知らざれば、其れ烏烏※1を見、其の稷稷※2の見はるるも、其の飛ぶを見るに從ひて、其の誰(なに※3)かを知らず、
伏すこと横弩の如く、起つこと發機の如し。

※靜 <動>しず-める、しず-む  <形>しづ-か、きよ-し  <副>くは-しく
※1烏 ヲ、ウ <感>ああ <名>からす <副>いづ-くんぞ →悪、安、焉
※2稷 ショク <名>あわ <動>かたむく <形>はやい
※3誰 <代>たれ、た、なに <助>こ-れ

《現代語訳》病人には虚實というものがあるので、五藏の虚の場合は『霊枢・小鍼解』にいう近速の刺法、五藏の實の場合は遠遲の刺法は、してはなりません。鍼の効果はたちまち現れるので、瞬きをしている暇もありません。
鍼を持つ手の動きが専一に務めるならば、鍼は耀き調って見える。 (鍼を搖らすことで、患者の容体が調うだろう)
自分の気持ちを靜(きよ)めれば、病人の容体の意味を探ることは無意味だと分ります。病人の治療に適う変化を見つけることが第一で、これは全く暗闇の中にいるようなものです。
その表に現れて来るものが分らないので、病人が呻いているのを見ているだけであり、次にそれが素早く変わる機があっても、その立つ鳥のようなものが何なのか分らないままなのです。
それは正に横弩のごとく伏しているものですが、矢が放たれる勢いはご存じの通りです。

7-3b 手動若務、鍼耀而匀 短い一文だが、王、楊、森それぞれが興味深い注を付している。
王注は「手を動かし鍼を用ゐるに、心、專ら一事に務むるが如き也」として、引っ掛かるところのない注である。
楊氏は「『手動若務』とは、左手にて鍼空を按摸する(押手で穴所を揉撚し、鍼を刺す場所を定める)務めを謂ふ也」として、「手動若務」が左の押手で穴所を揉みほぐすことを言っているとしている。
森氏の注は「『手を動かして務む』とは、左手の指頭に其の穴處を探り、指頭、動搖すれど專ら一心に務め、其の穴を誤らざらしむる謂ひなり」と、楊注と変りがないが、「手動若務」の「若」字の読み方に独特のものがあり、これは次の句の「鍼耀而匀」の「而」字と同じ意味に読むのが、古文の読み方であるとしている。そしてここには、立之の奉ずる古經・古文に対する信奉の辭が、通例にしたがって書かれている。曰く「此の例の如き、古文には往往にして有り」「古字は知る可き也」。
さらに「耀」は「搖」「揺」「■ 忄+䍃」に通じ、療治の意味だと説いている(典拠は『方言』『廣雅』)。とするなら、森立之の言う「療治」とは、左手で刺した鍼を揺らす寫法の治療なのである。
もう一点、王氏は、素問の条文「手動若務」について「鍼經に曰く『其の形を一にし、其の動靜を聽き、邪正を知る』とは、此れ之の謂ひ也」と注して、刺鍼時の術者の主義のこととしているが、これは誤りだろう。霊枢・九鍼十二原には、たしかに
「 70 一其形、聽其動靜、知其邪正」とあるが、これは「精神を集中して脈を取り、脈から邪気の動静を聞き分け、患者の予後を知れ」の意であり、王冰の言うように術者の手技のことは言ってはいない。これは霊枢・小鍼解の見解も同じで「一其形、聽其動靜者、言上工知相五色、于目有知、調尺寸小大緩急滑濇、以言所病也」と、ここでも診脈についての論だと説いている。

8-1 帝曰、何如而虚、何如而實。
8-2a 岐伯曰、刺虚者須其實、刺實者須其虚。
8-2b經氣已至、愼守勿失、
8-2c 深淺在志、遠近若一。如臨深淵、手如握虎、神無營於衆物。

《読み下し文》帝曰く、何如(いか)むか虚、何如むか實。
岐伯曰く、虚を刺すは其の實するを須(ま)ち、實を刺すは其の虚を須つ。
經氣、已に至らば、愼しみ守りて失ふこと勿れ、
深淺に志在らしめ、遠近、一なるが若し。深淵に臨むが如く、手に虎を握むが如く、神を衆物に營(まど)はす無かれ。

《現代語訳》帝曰く、病人が虚の時にはどのようにすれば良いのだろうか。實の時はどうであろう。
岐伯が言うには、虚の病人を刺すには実になるまで待たなくてはなりませんし、実の病人は虚すまで待ちます。 (『靈樞』九鍼十二原の解釈では「虚の病人を刺すには必ず実せしめ、実の病人を刺すには、必ず虚せしめる」)
経脈の気が巡ってきたら、慎んでこれを守り、散ってしまうことがないように。
自分の意識を浅くも深くも同一に在らしめれば、遠近は一つのものに感じられます。深淵に臨む如く、虎を捕まえているときのように注意を払い、精神を他のことに迷わせてはならないのです。

 
 
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