素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  素問・八正神明論篇第二十六 読み下しと現代語訳

1 黄帝問曰、用鍼之服、必有法則焉、今何法何則。
1-2 岐伯對曰、法天則地、合以天光。

《読み下し文》 黄帝問ふて曰く、鍼を用ゐて服(身に着ける)すは、必ず法則有らむ、今、何に法り、何に則らむ。
岐伯對へて曰く、天に法り、地に則らば、(以・置き字)天光に合さむ。

《現代日本語訳》黄帝が問うて言うには、刺鍼の術を身につけるには必ずその法というものがあるだろうが、何に法っとり、何に従えばよいのだろうか。
岐伯が答えて言うには、天の法則に法っとり、地の法則に従えば、天光に合致することができるでしょう。

1-3 帝曰、願卒聞之。
1-4 岐伯曰、凡刺之法、必候日月星辰、四時八正之氣、氣定乃刺之。

《読み下し文》 帝曰く、願はくば卒(ことごと)く之を聞かむ。
岐伯曰く、凡そ刺の法は必ず日月星辰(恒星)、四時八正の氣を候ひ、氣定まれば乃ち刺す。

《現代日本語訳》 帝が言うには、願わくばそれを全て聞かせてもらえないか。
岐伯が言うには、およそ刺鍼に際しては、必ず太陽と月・恒星の位置、それから四季時々の気の模様、八節(立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至)の正気を候い、その気に対する判断が定まってから刺します。

1-4 についての王冰の注である。日月を候ふとは、日の寒温、月の空滿を候ふの謂ひ也。星辰は、先づ二十八宿の分の、水漏の刻に應ずる者を知るの謂ひ也。 略(つづ)めて言へば、常に日、以て宿上に加はれば、則ち人氣は太陽に在り、否(しからず)んば、日行、一舍なれば、人氣は三陽と陰分とに在ると知る。 細かく言へば、房より畢に至る十四宿は、水下、五十刻、半日の度(わたり)なり。勗より心に至るも亦た十四宿なりて、水下、五十刻、終日の度なり。是の故に、房より畢に至るを陽と爲し、勗より心に至るを陰と爲し、陽は晝を主り、陰は夜を主る也。凡そ日行は一舍なるが故に、水下、三刻と七分刻の四なり。
つまり、昼夜各々14宿 14宿=50刻  1宿=3.57刻=3+4/7刻 という計算になる。
『靈樞經』に曰く、水下一刻(第一刻)は、人氣、太陽に在り。水下二刻は、人氣、少陽に在り。水下三刻は、人氣、陽明に在り。水下四刻は、人氣、陰分に在り。水下止らざれば、氣行も亦た爾(しか)り。 又曰ふ、日行一舍に、人氣は身を一周と十分身の八を行る。日行二舍に、人氣は身を三周と十分身の六を行る。日行三舍に、人氣は身を五周と十分身の四を行る。日行四舍に、人氣は身を七周と十分身の二を行る。日行五舍に、人氣は身を九周行る。然らば日行二十八舍には、人氣も亦た身を五十周と十分身の四を行る。是に由るが故に、必ず日月星辰を候ふ也。
人気1日の行りとして、 1舎(1舎=1昼夜=28宿)=人気は人身を1周+8 /10
28舎=50周+4/10

四時八正の氣とは、四時の正氣、八節之風、太一(北極星、この場合北極星を天帝になぞらえている)に來朝(朝廷に来る)すの謂ひ也。謹しみて其の氣の所在を候ひて刺す。氣、定まりて乃ち刺すとは、八節の風氣、靜まり定まれば、乃ち經脈を刺して、虛實を調ふる可しの謂ひ也。故に『曆忌』に、八節の前後、各々五日は、刺灸す可らず、凶なりと云ふ。是れ則ち、氣未だ定らざるが故に、刺灸す可らざるを謂ふ也。新校正云ふ、「八節風」「朝太一」を按ずるに、『天元玉冊』中に具ふ。
周天に28宿あるので、1宿=36分、よって周天=1008分である。
周身(気が身体を一周する距離)は16丈2尺であり、 身と天は同一と考えるので、
16丈2尺=28宿=漏水100刻である。
気は昼25周、夜25周、身体を廻るので、50周=811丈としているが、 正確には811丈=50.061728……周となる。
10息=気行6尺=日行(1日)2分 であるから 1息=気行0.6尺=日行(1日)0.2分
13,500息=気行50周=水刻(水下)100刻=日行28宿 という計算となる。

1-5 是故天温日明、則人血淖液、而衞氣浮。故血易寫、氣易行。
1-6 天寒日陰、則人血凝泣、而衞氣沈。

《読み下し文》 是の故に、天温く、日明るければ、則ち人の血、淖※液なりて衞氣は浮く。故に、血、寫すに易く、氣、行るに易し。
天寒く日陰れば、則ち人の血、凝泣※して衞氣は沈む。

《現代日本語訳》 したがって、天温かく日が明るければ、人の血は流れやすく、衛気も体表に浮きます。よって、寫血しやすく、気も廻りやすいのです。
天が寒く日が陰っていれば、人の血は凝(こご)ったようになり、衛気も体表から沈みます。

《記》1-6 「凝泣」について
臨泣という穴があるが、圧すると痛く、泣くほどなので「泣くに臨む」と書いて臨泣なのだと聞いているが、こういう如何にも安直な説明は疑わしい。
白川静先生の説明にこうある<「字統」 平凡社>。
いわく、
「泣 キフ、リフ、な-く」
立は来母(ライボ) の字であるが、来母の字に呂リョ(莒キョ)、婁ル(窶ク)、里リ(悝カイ)など、音の転ずるものがある。『礼記・壇弓・上』に「高子皋(カウシカウ)の親の喪を執るや、泣血(キフケツ)すること三年、未だ嘗て齒を見(あらは)さず」とあり、説文に「聲無くして涕を出だすものを泣といふ」とする。『素問』に「血、脈に凝(かたま)るものを泣と爲す」とあり、その字は粒声によむ。血滞と関係のある語かも知れない。
として、血滞と関係のあるものの場合には、粒リフの音で読むのかもしれないという。ならば「臨泣」は「リンリフ」と読むのが正しいのではないか。
※ 来母と日母について
五音の枠から外れて来母と日母がある。『韻鏡』では「舌音歯」という枠に収められているが、「舌音歯」とは 「舌音」と「歯音」を同時に表現したものと思われる。つまり、来母は舌音の仲間で、日母は歯音の仲間というわけで、それぞれを「半舌音」「半歯音」と称する事がある。日母の方は後の音韻変化が比較的激しく、日母を歯音の類とするのはそのためである。これも非鼻音化のひとつであるが、日本漢字音はその変化 をよく反映していて、呉音でナ行、漢音でザ行となる。来母、日母ともに「清濁」である。

2-1 月始生、則血氣始精、衞氣始行、月郭滿、則血氣實、肌肉堅。
2-2 月郭空、則肌肉減、經絡虚、衞氣去、形獨居。是以因天時而調血氣也、是以天寒無刺、
2-3 天温無疑、月生無寫、月滿無補、月郭空無治、是謂得時而調之。

《読み下し文》 月、生まれること始めれば(生まれ始めるや)、則ち血氣、精(生き生きとした活気)を始め、衞氣、行りを始む。月郭、滿ちれば、則ち血氣、實し、肌肉、堅し。
月郭、空なれば、則ち肌肉、減(おとろ)へ、經絡虚し、衞氣去り、形(身体)、獨り(それだけが)居る。是れ以て天の時に因りて血氣を調ふ也。是れ以て天、寒ければ刺すこと無く、
天、温かければ疑(凝)すること無く、月生ずるに寫す無かれ、月滿つるに補ふ無かれ、月郭空なるに治す無かれ、是れ、時を得て調ふの謂ひなり。

《現代日本語訳》月が満ち始めると、人の血の気にも活気がみなぎります。体表の衛気も巡りはじめ、満月になると、血の気は実して肌肉も堅くなります。
月がまったく欠けてしまうと、肌肉は減(おとろ)え、經絡は虚し、衛気も巡らなくなり、身体それだけがあるような状態になります。
いま述べたように、天の時々の模様に従って血の気を調えるのが鍼による治療です。 このように、気候が寒ければ刺さない方がよく、
気候が温かければ血は凝ることがありませんし、月が満ちてきているのに寫してはなりませんし、満月に補法をしてもなりませんし、新月には刺してはなりません。以上が時を得て調えるということです。

3-1 因天之序、盛虚之時、移光定位、正立而待之。
3-2 故日月生而寫、是謂藏虚、
3-3 月滿而補、血氣揚溢、絡有留血、命曰重實。
3-4 月郭空而治、是謂亂經、陰陽相錯、眞邪不別、沈以留止、外虚内亂、淫邪乃起。

《読み下し文》 天の序、盛虚の時に因りて、光を移し、位を定むれば(光、移り、位、定まれば)、正立して之に待て(待ち受ける)。
故に日月、生ずるに寫す、是を藏虚と謂ひ、
月郭、空なるに治するは、是を亂經と謂ひ、陰陽相ひ錯※(まじ)はり、眞邪別かたず、沈みて留止し、外に虚し、内に亂れて、淫邪乃ち起る。

《現代日本語訳》季節ごとの変化や月の満ち欠けに従って、光が移り、時々の気の位置が定まるので、それに正しく合わせて待ち受けるのです。
故に太陽と月が盛んになって行く時に寫すのは、藏を虚すと言い、
月が満ちてゆく時に補うのは、血の気も上り溢れ、血絡に血が留まるので、実が重なると言います。
新月の時に治療するのは、經を乱すといい、陰気と陽気が相錯し、眞気と邪気が入り混じり、沈んで留滞します。そうなると外は虚し内は乱れて、淫邪が起ることになります。

《記-1》3-2、3-3 に対応する霊枢・九鍼十二原の文として、「58 無實無虚(無實實虚虚_甲乙、無實實無虚虚_太素) 。損不足而益有餘、是謂甚病、病益甚」がある。
《記-2》以下、各条文に付した森立之の注である。素問当時の生理学が整理されており分りやすい。
3-1 因天之序、盛虚之時「天の序とは、生長収藏の序の謂ひなり」「盛虚の時とは、四時の温熱、寒涼の異の謂ひなり」
また、続く案文に
「今人、蚘蟲を治むるに、月初に在りて投藥す。月初とは則ち、蟲の首、上を向くが故に、能く之を殺す。月末には則ち、蟲の首、下を向くが故に、藥は無功なり。蓋し亦た是れ、人、月魄の理に應ずるの理なるべし」と書いており、興味深い。
3-4 陰陽相錯、眞邪不別「陰とは營魂藏の謂ひ也。陽とは衛魄府の謂ひ也。「眞邪不別」とは、即ち陰陽・榮衛の二氣、相ひ交錯せる謂ひ也。二氣、交錯すれば則ち、眞氣を害す。眞氣、害されれば即ち、邪と謂ふなりて、外邪の謂ひには非ざる也」

4-1 帝曰、星辰八正何候。
4-2a 岐伯曰、星辰者、所以制日月之行也。
4-2b 八正者、所以候八風※之虚邪、以時至者也。
4-2c 四時者、所以分春秋冬夏之氣所在、以時調之也。八正之虚邪、而避之勿犯也。

《読み下し文》帝曰く、星辰八正は何ぞ候ふ。
岐伯曰く、星辰は、日月の行(めぐ)りを制する所以(ゆえん)なり。
八正は、八風の虚邪を候ひて、時、至ると以(な)す所以なり。
四時は、春秋冬夏の氣の所在を分け、時、調ふと以(な)す所以なり。八正の虚邪は、而ち之を避け犯す勿れ。
身、虚して(身に虚を以-な-して)、天の虚に逢へば、兩虚、相ひ感ず。其の氣、骨に至りて入れば則ち五藏を傷る。

《現代日本語訳》帝が言うには、星辰八正を候うのは何故か。
岐伯が答えて言うには、星辰(恒星)を候う(位置を観測する)ことは、日月の行り(=何月何日であるか)を決定する根拠です。
八正は、八節の風の虚邪を候うことによって、決まった時節がめぐって来たと決定する根拠となるものです。
四時とは、春夏秋冬の生長収藏の気を分けて、季節の気が調ったと決定する根拠となります。八節の風気の虚邪というものは、避けて犯されることがあつてはなりません。

《記-1》4-2a についての、霊枢に基づいての王冰注である。
制は制度の謂ひなり。星辰を定むれば、則ち日月の行りの制度を知ること可なり。略(つづ)めて之を言へば、周天の二十八宿は三十六分、人氣、一周天を行れば、凡そ一千八分なり。周身は十六丈二尺にして、以て二十八宿に應ず。漏水百刻に合し、都てを行りて八百一十丈、以て晝夜を分つ也。
故に人、十息すれば、氣は六尺を行り、日行二分なり。
二百七十息には、氣行ること十六丈二尺、身に一周して、水下は二刻、日行二十分なり。
五百四十息には、氣行ること身に再周(二周)なりて、水下四刻、日行四十分なり。
二千七百息には、氣行身に十周なりて、水下二十刻、日行五宿二十分(二百分)。
一萬三千五百息には、氣行身に五十周なりて、水下百刻、日行二十八宿(一周天)也。
細かく言へば、則ち常に一十周に一分、又は十分分之六を加え、以て乃ち奇分を盡す(1周天811丈÷周身16.2丈=50.061728395周となるので、0.061728395を0.1周または0.06周の端数として加えると、ほぼ完全に一致する)。
是の故に、星辰は制日月の行度を制する所以なり
《記-2》4-2b 王注による八正の解説。
八正とは、八節の正氣の謂ひ也。八風とは、東方・嬰兄風、南方・大弱風、西方・剛風、北方・大剛風、東北方・凶風、東南方・弱風、西南方・謀風、西北方・折風也。虛邪とは、人の虛に乗じて病を爲す者の謂ひ也。時、至れりと以(な)すとは、謂天、太一に應じて移居し、八節の前後、風を中宮に朝し、至れりと以(な)す者の謂ひ也。
四時八正の氣とは、四時の正氣、八節之風、太一(北極星、この場合北極星を天帝になぞらえている)に來朝(朝廷に来る)するの謂ひ也。

素問・鍼解篇28 では、全く違う名で説明している。
東方・明庶風、東南・明清風、南方・景風、西南・涼風、 西方・閶闔風(ショウコウフウ)、西北・周風、北方・広莫風、東北・融風

4-3a 以身之虚、而逢天之虚、兩虚相感、其氣至骨、入則傷五藏。
4-3b 工候救之、弗能傷也。故曰天忌、不可不知也。

《読み下し文》 身、虚して(身に虚を以-な-して)、天の虚に逢へば、兩虚、相ひ感ず。其の氣、骨に至りて入れば則ち五藏を傷る。
工、候ひて之を救(とど)むれば、能く傷ること弗き也。故に天忌(天を畏れ、はばかる)と曰ひ、知らざる可からざる也。

《現代日本語訳》 身体が虚したところへ、天の虚に遭えば、二つの虚にともに入られることになります。身体の虚、天の虚が骨に至って入れば、五藏が傷られることになります。
鍼工が診察して、身体深くに入ることを阻止すれば、両虚に感じても身体が傷られることはないのです。故に、天を畏れ憚るべきだと言い慣わして、知らざる可からざることであります。

5-1 帝曰善、其法星辰者、余聞之矣、願聞法往古者。
5-2 岐伯曰、法往古者、先知鍼經也。驗於來今者、先知日之寒温、月之虚盛、以候氣之浮沈、而調之於身、觀其立有驗也。

《読み下し文》帝曰く善しと。其れ星辰に法るを、余、聞く、願はくは往古に法るを聞かむ。
岐伯曰く、往古に法るとは、先づ鍼經を知る也。今來(今と将来)に驗すとは、先づ日の寒温、月の虚盛を知り、以て氣の浮沈を候ひて身に調へれば、其れ立ちどころに驗(しるし)有るを觀る也。

《現代日本語訳》 帝が言うには、善しと。そもそもは恒星の運行に法るべきだということを私は聞いているが、願わくは往古の時に、恒星の運行にどのように法った哲学を持っていたのか聞きたいものだ。
岐伯が言うには、往古の法に法るには、まず霊枢經の元となった鍼經を理解すべきです。現在を正しく知り、将来についての正確な予兆を得るには、まず日の寒温、月の虚盛を知り、それに従って気の浮沈を候い、身体を調えれば、立ちどころに驗(しるし)が現れることでしょう。

6-1 觀其冥冥者、言形氣榮衞之不形於外、而工獨知之。
6-2 以日之寒温、月之虚盛、四時氣之浮沈、參伍相合而調之。工常先見之、然而不形於外、故曰觀於冥冥焉。
6-3 通於無窮者、可以傳於後世也。是故工之所以異也。
6-4 然而不形見於外、故倶不能見也。
6-5 視之無形、嘗之無味、故謂冥冥若神髣髴。

《読み下し文》 其の冥冥を觀るとは、形氣、榮衞の外に形(あらは)れざるも、工、獨り之を知るを言ふなり。
日の寒温、月の虚盛、四時の氣の浮沈を以て參伍(比較して調べる)し、相ひ合せて之を調へるなり。工、常に之を先見す、然れども外に形はれざるが故に、冥冥に觀ると曰ふ。
無窮に通ずれば、後世に傳ふ可し。是れが故に、工、異なれる所以なり。
然り而して外に形して見はれざるが故に、倶(とも)に見ること能はざる也。
視るに形無く、嘗むるに味無きが故に、冥冥として神の髣髴たる若しと謂ふ。

《現代日本語訳》 「冥冥」を観るとは、身体の気が、榮衞(血液と体表を巡り守る気)が目に見えていなくとも、鍼の上工だけには、それが分っているということです。
日の寒温、月の満ち欠け、四季の気の浮沈を比較して調べ、相い合せて身体を調えるのです。鍼の上工というものは、常に先を見越しているものですが、気に係わることは目に見えないが故に、冥冥に観ると言うのです。
鍼の上工のこの見方は無窮に通ずるものですので、後世に残し伝えるべきものです。それ故に、鍼の上工とは、人とは異なっているのです。
形として現れざるが故に、人とともに見ることはできないことです。
視ても視界に現れず、嘗めても口に味なきが故に、冥冥として神の姿は、ぼんやりとしか分らない、という意味であります。

《記-1》6-1 の王注である。
前篇(寳命全形論25)を明らかにするに、「7-3c 意を靜め、義を視、適ふ變を觀る、是れ冥冥の謂ひなり」と。其の形(あら)はれるを知ることなきや、形と氣、榮衛の外に形はれて見えずと雖も、工、心神を以て明悟し、獨り其の衰盛を得知し、善惡、悉く明らかにす可し。
この「意を靜め~謂ひなり」は寳命全形論の条文なので、それ以下が王冰の見解である。鍼医は、身体の気の様子が目に見えるものとして表れていなくとも、優れた感覚ではっきりと悟り、自分だけは気の衰盛を分った上で、悉く明らかにすべし、ということで、「優れた感覚で、はっきりと悟れ」と言っている。
また、寳命全形論の条文 7-3c に付した王注は以下のようなもので、ここで言っていることは、また趣を異にしているのである。
いわく「靜意視、息以義斟酌、觀所謂調適」
意を靜めて視、義を斟酌することを息(熄、や)め、いはゆる調ふに適(かな)ふを觀※よ。

つまり、鍼医は気持ちを静めて(清めて)、患者の容体が現していることの意味をあれこれ考えるのを止め、患者の身体を調えるに適したことだけを観て取れ、と言っているのである。
素問の条文は同じであるにもかかわらず、この八正神明論26では「優れた感覚ではっきりと悟れ」と言い、前の寳命全形論25では「患者の身体を調えるに適したことだけを観て取れ」と言っている。八正神明論26になると、もう一歩踏み込んだ患者の見方を勧めているようである。

※觀 観察する、考察する
臣觀大王無意償趙王城邑。
臣、大王に、趙王に城邑を償ふに意、無きを観る。
私は、大王には趙王へ城邑を下さるつもりがないと、見て取りました。
                       <史記・廉頗藺相如伝>
《記-2》
6-5 ここにいう「神」は、この世ならぬ神秘的な存在、あるいは死後の霊魂というようなものを指していると思われる。10-1a に再び神を論ずるが、そこでは「人間の精神の優れた働き」という意味で用いられる。

7-1 虚邪者、八正之虚邪氣也。
7-2 正邪者、身形若用力、汗出、腠理開、逢虚風、其中人也微、故莫知其情、莫見其形。
7-3 上工救其萌牙。必先見三部九候之氣、盡調不敗而救之。故曰上工。下工救其已成、救其已敗。救其已成者、言不知三部九候之相失、因病而敗之也。
7-4 知其所在者、知診三部九候之病脈、處而治之。故曰守其門戸焉、莫知其情而見邪形也。

《読み下し文》 虚邪とは、八正の虚の邪氣なり。
正邪とは、身形若し用力し、汗、出で、腠理、開き、虚風に逢ひ、其の人に中るも微なるが故に、其の情を知ること莫く、其の形を見ること莫きなり。
上工は其の萌牙に救ふ(止める)。必ず先づ三部九候の氣を見、盡く調へて敗(やぶ、失敗する)ることなく之を救ふ。故に上工と曰ふ。下工は其の已に成りたるを救ひ、其の已に敗れたるを救ふ。其の已に成りたるを救ふとは、三部九候の相ひ失へるを知らず、病に因つて敗れたるを言ふ也。
其の所在を知る者は、三部九候の病脈を診て、處して之を治すを知る。故に其の門戸を守り、其の情を知らずして、邪の形はるるを見ると曰ふ也。

《現代日本語訳》 虚邪とは、東西南北と、東北・東南・西北・西南との八節からやって来る虚の邪氣です。
正邪とは、身体を使って力仕事をすることがあり、汗が出て、皮膚の腠理が開いたところへ風邪に入られた結果、風邪に入られるも、その邪気がわずかなものだと、入られたと分らず、身体にもその現われがないような場合を言います。
鍼の上工は、入った邪気の萌牙のうちに止(とど)めます。必ず先づ三部九候の気を見、盡く調えて、それ以上進行することがないうちにこれを止めるので、鍼の上工と言うのです。下工は邪気が病を成してしまってから、身体が病を起こしてしまってから病を治すのです。邪気が病を成してしまってから治すとは、三部九候脈が互いに失調しているのが分らなかった結果、身体が病に傷れてしまったことを言うのです。
病の所在が分る上工は、三部九候の病脈を探し当て、處治して治す方法を知っています。故に、病の入り口となる門戸を守っているだけで、どんな病が襲ってくるか分らないのに、邪が現れればわかるのです。

《記》7-4 に応ずる九鍼十二原の条文。
9 麤守形、上守神、神乎神。
粗工は刺す形を守っているだけだが(身体を守ろうとしているだけだが、とも読める)、上工は鍼治に付随する優れた精神を守って刺します。
10 客在門、未覩其疾、惡知其原。
邪が体に取り付いたばかりで、まだ病に罹ったといえる状態でもないのに、どのようにしてその原因を見極めるのだろうか。

8-1 帝曰、余聞補寫、未得其意。
8-2a 岐伯曰、寫必用方。方者、以氣方盛也、以月方滿也、以日方温也、以身方定也。
8-2b 以息方吸而内鍼、乃復候其方吸而轉鍼。乃復候其方呼而徐引鍼。故曰寫必用方、其氣而行焉。
8-3a 補必用員、員者行也、行者移也。
8-3b 刺必中其榮、復以吸排鍼也。
8-3c 故員與方、非鍼也。

《読み下し文》 帝曰く、余、補寫を聞くも、未だ其の意を得ず。
岐伯曰く、寫は必ず方(逆らう)※1を用ふ。方とは、以て氣の方(まさ)に盛んならむとするや、以て月の方に滿ちむとするや、以て日の方に温かくならむとするや、以て身を方に定めむとする也。息を方に吸わむとするに鍼を内れ、乃ち※2復た其の方(まさ)に吸わむとするを候ひて鍼を轉ず。乃ち復た其の方に呼(は)かむとするを候ひて、徐ろに鍼を引く(抜く)。故に、寫は必ず方を用ゐれば、其の氣は而ち行ると曰ふ。
<王注による読み下し>補は必ず員(ふやす)※2を用う、員とは行らす也、行らすとは移す也。
刺すは必ず其の榮※に中(あ)てよ、復た吸ふを以て鍼を排す也。
故に員と方とは、鍼に非ざる也。

※1 方 ハウ、(動) なら-ぶ、くら-ぶ(比較する)、たも-つ(占有する)、わ-かつ、 さか-らふ 諸侯方命。「諸侯は命に背いた」 <漢書・叙傳下>
※2 員 ヰン、ヱン、(名)かず、周囲、円形 (動)ま-す(ふえる、ふやす)

《現代日本語訳》 帝が言うには、私は、補寫法の存在について聞いてはいるが、その技術については知らないのだ、と。
岐伯が言うには、寫には必ず「方(逆らう)」の刺法を用います。「方」とは、気が盛んになる、月が満月となる、太陽が温かくなる時期を見計らって、患者の治療を行なうのです。息を吸おうとする瞬間に鍼を入れ、また息を吸おうとする瞬間に鍼尖を転ずるのです。一方、また息を吐こうとする瞬間に、静かに鍼を抜くのです。故に、寫法を行なうには、必ずこの「方」法を用いれば、患者の気は行りやすくなるのです。
<王注にしたがう>補には必ず「員(ふやす)」の刺法を用います。「員」とは行らすということであり、行らすとは他所へ移すということです。
刺入するには必ず、栄分である血液の廻る深いところまで鍼を進めます。抜鍼の際には、患者が息を吸うに従って鍼を抜くのです。
したがって、私の言う「員」法と「方」法とは、鍼の形のことではなく、気を廻らしたり、他所へ移したりする、気を扱う術のことなのです。

《記》8-2a、8-2a の方法、員法について
島田隆司「寫法には方、補法には員という方法を用いる。霊枢・官能では次のように逆を説いている」
寫逼用員、切而轉之、其氣乃行疾而徐出。邪氣乃出、伸而迎之搖大其穴。氣出、乃疾。
補泌用方、外引其皮令當其門、左引其樞、右推其膚、微旋而徐推之、必端以正、安以靜、堅心無解。

9 故養神者、必知形之肥痩、榮衞血氣之盛衰。血氣者人之神、不可不謹養。

《読み下し文》 故に神を養ふ者は、必ず形の肥痩、榮衞血氣の盛衰を知れ。血氣は人の神なりて、謹しみ養はざる可からず。

《現代日本語訳》 したがって患者の神気を養う場合には、必ずその身体の肥痩、榮衞(血液と神経の廻り)や、血と気の盛衰を知らなければなりません。血気は人の神気をやどすものですから、必ず謹しみ養わなくてはなりません。

10-1a 帝曰、妙乎哉論也、合人形於陰陽四時、虚實之應、冥冥之期。其非夫子、孰能通之。
10-1b 然夫子數言形與神、何謂形、何謂神、願卒聞之。
10-2a 岐伯曰、請言形。形乎形、目冥冥問其所病、
10-2b 索之於經、慧然在前、按之不得、不知其情、故曰形。
10-3a 帝曰、何謂神。
10-3b 岐伯曰、請言神。神乎神、耳不聞、目明心開、而志先、慧然獨悟、口弗能言、倶視獨見。適若昏、昭然獨明、若風吹雲.故曰神。

《読み下し文》 帝曰く、妙なるかな論や。人形※1を陰陽、四時、虚實の應、冥冥の期に合す。其れ夫子に非ざれば、孰か能く之に通じむ。
然らば夫子の數々言ふ形と神とは、何ぞや形の謂ひ、何ぞや神の謂ひ、願はくば卒く之を聞かむ。
岐伯曰く、形を言はむと請ふ。形なるかな形、目は冥冥なるままに其の病む所を問ひ、
之を經に索(もと)めれば、慧然として前に在れども、按ずるも得ず、其の情を知らず、故に形と曰ふ。
帝曰く、何ぞや神の謂ひ。(何をか神と謂ふ、何か神の謂ひ)
岐伯曰く、神を言はむと請ふ。神なるかな神、耳には聞ゑず、目、明らかに心開きて志を先にすれば、慧然として獨り悟り、口に言ふ能はず、倶に視るも獨りに見はる。昏きを若※(えら)びて適(ゆ)くも、昭然として獨り明るく、風の雲を吹く若し。故に神と曰ふ。

※若 えら-ぶ 吾誰使、先若夫二公子而立之。吾、誰をか使はして、先づ夫(か)の二公子を若(えら)びて。之を立てむ。<国語・晋二>

《現代日本語訳》 帝が言うには、素晴らしい論だ。人の身体を陰陽、四時(四季と各々の生長収藏の働き)、虚實の應、冥冥の期(形には現れない気の状態)に合す。
岐伯先生を措いては、このようなことによく通じ得る人はいない。ならば先生のこれまで触れてきた形と神とは何でしょう。形、神の意味するところは何なのか、願わくは聞かせていただきたい。
岐伯が述べるには、では形について述べましょう。形とは身体に現れる諸々の事どもであります。目には全く見えないまま、我々は病人の病む所を尋ねています。
病所を經脈に索めると、それははっきりと眼前にあるのに、按じても得られず、どんな状態なのかも分りません。従って「形」とは、気の働きを除いた、単なる物体としての身体です。
帝が言うには、では神とは何を意味しているのか。
岐伯が言うには、次に神について述べましょう。神気なるもの、これも妙なることこの上もないものです。耳には聞えませんが、目を明らかにし、心を開き、五感よりも志を先にすれば、はっきりと自分の心で悟ることができます。口に言ふこともできませんし、誰かとともに見ていても、その人だけに見えます。暗い中を選んで歩いているつもりなのに、その人だけ昭然として明るく、風の雲を吹きはらうごとくに現れます。故に神気と言います。

11 三部九候爲之原、九鍼之論不必存也。

《読み下し文》 三部九候、之が原を爲せば、九鍼の論、必ずしも存(のこ)ることなし。

《現代日本語訳》 三部九候の脈診とそれに基づく治療とは、これまでに述べた身体に形として現われる力と、その力の元となる神気との源であります。霊枢經に言う九鍼の論などは、必ずしも今後存(のこ)ることはないでしょう。

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