讀書には必ず其の書の淵源を剖析し、其の最古且つ善なるを擇(えら)びてこれに從ひ、然る後、六蓺、經傳より以て百氏に至って始めて得て※1a誦習す可けんや。 然(しか)らざれば
六蓺…貴族の子弟が学ぶべき六科目。礼・楽・射・御・書・数<周礼・地官・保氏> 六經は詩・書・礼・楽記・易・春秋
經傳…経書とこれを説明・解釈した書物。「經傳釋詞」十巻は清・王引之による古典中の虚詞(助詞・接続詞)について解説した書物。
得・・・「反語の語気をあらわす副詞、どうして、と訳す」『漢辞海』より※1a。
則ち書の流傳は既に久しく、彼此の乖異も定まらざれば、何に由つて能く古人の意を求めむ。言語文字の間に於いては失へる所莫きや、此れ漢儒校讐の學、萬世に渉つて廢る可らざる所以なり。意者(そもそも)書の最古且つ善なるは、固(もと)より世に覯へること罕(まれ)なる所にして、天祿石渠の祕、人間(ジンカン、世間)に覩ることを獲ず、其の僅かに存せるや、名山
天祿石渠…〈釋義〉天禄、石渠は、いずれも漢の宮殿の室名で、肅何が造ったと言われている書庫。賢才を配し、また学者にここで経書の異同を討論させた。後には国家の藏書庫、あるいは学者を喩えて言う。 《品詞文網より》
古刹の間には亦、これに致すに由なく、乃ち唯(ただ)天下の好みの至篤(もっとも情愛が深
致…手に入れる、到達する <毎歳致数百金。毎歳、数百金を手に入れる。方苞・獄中雑記>
い) なり。これを擇ぶの至精にして且つ力有る者は、獨り能く褰裳の艱※1b(無理難題を聞き入れること)、幽討(静かで俗気のない場所を訪ねる、幽探)の勞を憚らず、これを兵火風霜の餘(ひま、余暇)に獲る。是に於いてや、絶えて無く、僅かに有る佳本は、始めて稍稍(ヤヤ、わずかに)人間(じんかん)に傳え得、而して學者は得据して以て彼此の乖異を定めたれば、則ち其れ天下に功有り、後世にもまた偉なるが抑(ごと)し。
我が朝の先達の貴古本を知る者は、蓋し篁墩吉田學生※2を以て首唱と爲し、而して藏書もまた頗る富めり。繼いで起つ者は掖齋狩谷卿雲※3爲りて卿雲は鑒別に尤も甞しく、凡そ其の傳鈔の源委流別と栞(栞は刊の字音で発音する)刻の同異得失の一一を考核(実地に調べる)し、其の然る所以<其の然く以(な)す所>に、故(もと)より明確ならざる靡(な)し。挿架(書物を本棚に置く)もまた極めて富めり。蓋し所謂(いわゆる)好の至篤、擇の至甞にして且つ力ある者か。篁墩には同時に桂山丹波君廉夫※4、卿雲の若き有り、友とする所には則ち又、迷庵市野光彦※5の若き有り、寶素小島君學古※6及び伊澤蘭軒※7の若き有り。相ひ與にその議論を上下し、而も藏書もまた皆な頗る富めり。惜むべし、諸老先生相ひ繼いで道山に歸り、而して收儲(しうちょ)せる所の各種古本は、學者、その面目を髣髴(はうふつ)せんと欲するも得ること可ならず。憾事(カンジ、うらみ)に以爲(おも)わざる莫し。
卿雲に從ひて游ぶは澀江道純※8、森立夫※9、並びにその指授(伝授)を親受し、鋻識(鑑識)の明を具(つぶ)さに有す。而して茝庭丹波※10君、また柔(親しみやすい)にして、また嘗(つね)に卿雲と交わること最も親しく、深く書の存佚、顯晦(ケンクワイ、はっきりしている事と曖昧な事)の數々有るを慨(なげ)き、則ち今に迨(およ)んで之を收錄し、以て學者に貽(のこ)さしむ。庶幾(こいねが)はくは、以て舊本の面目を見(あら)はすに足らむと。それ亦た諸老先生の志なり。夫れ担に道純、立夫及び小島君抱冲(寶素の長男)を慫慂(ショウヨウ、まわりから勧めはげます)して、目錄を撰成せ俾(し)む。是に於いて相ひ與に舊聞を考据(コウキョ、根拠をあげて証明する=考証)し、經籍訪古志六卷を著(あらは)し爲す。その書の體例(綱領と細則、晋書・李重伝)と乾隆の「天祿琳瑯」※11(清朝皇室の蔵書を指す) の書目、張金吾※12>(1778-1829 清の蔵書家)の「愛日精盧藏書志」※13>とは昆季(昆は兄、季は末で兄弟)の間に在りて、古籍の繁富なると決擇の甞なると且つ確なるは、則ち更に二書の上に遠出せるや、何ぞ其れ偉なる哉。蓋し我邦に傳ふる所の古鈔本は具(つぶ)さに隋唐の舊を存し、眞に宋元人の覩る能はざる所たり。而り巋(キ・高く大きい)然として獨り靈光の存を爲し、此れ絶佳の種たりて、皆な宋元の古本の上に出づ。而り向(さき)の諸老先生者もまた嘗(つね)に力を竭して捜討(調べ求める)し、能く之を兵火風霜の餘に獲たるは、蓋し數(かぞ)えて十百種を下らざるべし。他には宋元板及び朝鮮刊本に至るまで、また徃徃にして明清諸家の睹(覩)るに及ばざる所を爲す。而して各家の儲藏、指を勝げて屈せざれば、則ち是に錄して登載する所の古籍の繁富なることの遠出せる所以や、清人の書目の上なり。
嗚呼、藤佐世※14の「現在書目」※15 (藤原佐世ふじわらのすけよ による「日本国見在書目録」)より、以て「通憲藏書目」※16> (藤原通憲?~1159による蔵書目)等に至る、收むる所は殃ね皆な散佚、湮滅し復問(ふたたび訪ねる)す可からず、所謂(いわゆる)金澤印記本※17> (金澤文庫の印の記してある書物) も觀むと欲すれど、蓋し既に僅僅なりて晨星の如し(晨星は夜明けの星、まばらである)。即ち足利學※18に藏むる所もまた唯だ千百に於いて什の一(什は十等分、したがって十分の一)存(あ)るに過ぎず。近日に迨(およ)び至り、掖齋、諸家、及び薦紳學士の所藏も、比年(近年、毎年)以來間し(行方が知れなくなる)、また何人の手に歸すを知らざれば、則ち日々後の存佚、聚散は復た當に如何ならむ。此れ好古の君子の惜しむことなく措しみて貍歎を感ずる所なれば、是に由って作る所以を錄す。其れ豈に得已らん哉、抑(ここ)に是を復推し、海内の讀書の士に上す。人人、古本の貴(とうと)ぶ可きを知りて、校讐、冪勘の廢す可からざれば、則ち其れ藉(たと)ひ此れ以って古人の意を言語文字の間に求むるや難からず。余は□(扌+合+廾、 エン)陋寡識、諸老先生の後塵を望むに足(およ)ばざれば、
□(扌+合+廾) エン おおう、窮迫する、苦しむ
是に錄の成るや、また時に寓目を得て、一二竊(ひそ)かにその用力の勤摯なるを嘉(よみ)せむ。而らば學者の校讐冪勘の功に於いて、最も深望有らむ。茲にこれを掲げ、以って佝端に書す。
安政丙辰長夏月 海保元備郷老※1識 |