素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

幸田露伴の読み下し文

  幸田露伴の「歴史小説」と称される作品には、中国の元・明・清あたりの史書から材を採ったものが多く、そのためか、ほとんど原書を読み下したままのような物が多い。現今のような時節に在って、そういう文が読めることは非常にありがたいのである。というのも、一流の漢学者の読み下し文を読むことができるわけだから、大いに読み下し文を書く参考になるのである。岩波文庫の古い物にも、原書を読み下したまま発刊されているものもあるが、如何にも大学の先生が読み下したという風があって味気ない。否、むしろその方が勉強の援けになるはずだが、どうもそうした文を手本にしたくはならず、露伴先生の読み下し文に魅かれるのである。正確に読み下してある裏に、露伴居士の渋い語り口が流れているからだと思われる。元・明の史書から題材を採ったのであろう『幽情記』などがその類である。
  そういう訳で、少し前から露伴の歴史小説を読みはじめた。
  露伴の『觀畫談』に「綺錦の人もあれば襤褸の人もある」という一句がある。一方に錦の着物を着た人がおり、一方にはぼろを纏った人がいるということで、この一句で人間の世をすべて表すことができる。この一言を読んだとき、私は漢語の力というものを思い知った。
  山本夏彦翁の言葉に、「城に殿様がいて、町には町人がいて、橋の下には乞食がいるというのが治まる御世というものだ」というのがあり、私は最初これに感服したが露伴の句には及ばない。
  露伴を読みはじめる前、私の文学上の導師は森鷗外だった。もちろん鷗外の博覧強記もじゅうぶん尊敬に値する。が「駿河臺の池田氏には正に一の悲壯劇があつた。そして其主人公は京水卽當時の杏春であった。池田家の床下に埋藏せられてゐた火藥は終に爆發した。それは京水廢嫡一件である」(『伊澤蘭軒』その二百二十二)
  というような文を読んでは、正直なところ、これでいいのかと感じていた。※ 文の意味としては僅々「池田錦橋家に隠されていた秘密は、ついに露見した」ということを表しただけの一文なのだが。
  はじめに挙げた「綺錦の人、襤褸の人」は、『觀畫談』の主人公が、嵐を押して案内された山上の寺庵で見た南画を、露伴が辞に置き換えて書いた文である。これと同様の文が『連環記』にもある。中心人物の慶慈保胤が都大路で鞭打たれる荷車引きの牛に感涙する場面である。ここで露伴は、保胤に「嗚呼、牛、汝何ぞ拙(つたな)くも牛とは生れしぞ、汝今抑々(そもそも)何の罪ありて其苦を受くるや」と歎かせている。この言葉が『今昔物語』あるいは『宇治拾遺物語』に記されているものかどうか調べはついていないが、露伴居士白眉の一節である。
  『今昔』だけでなく、『赤染衛門集』『拾遺和歌集』などに引かれている赤染衛門や、その夫大江匡衡の歌から想像される保胤の周囲の人々の行ないや気持ちを繋ぎ合わせて、露伴はこの『連環記』を書いている。あちこちの書に散らばっている歌やちょっとした書付けから想像を働かせ、繋ぎ合わせて物語を作るのだから大変な労作なのである。それ以上に露伴先生の衒いのない、深い確信に裏付けされた渋い語り口が素晴らしい。
  私の文学上の導師は、いつしか露伴居士になった。

  ここで現代語訳にしてみようと思ったのは、露伴居士の『幽情記』に収められている「泥人」である。
  宋から元を生きた趙孟頫(ちょうもうふ、字は子昂すごう)という大変に有名な文人が、その奥方と交した幽(ひそ)かな情感のこめられた詩詞を採って書いた露伴の文だが、同時に孟頫についての後世の評価・批評が多々収められている。それら評価・批評が海保元備の書いた澀江抽齋の墓銘によく似ているのである。元備の墓銘も分りにくい文だったが、露伴の読み下した『新元史』(と思われる)の批判・評価文もすこぶる分りにくい。分りにくいが、明清時代の文人の考えていたことも強く興味がひかれる。こういうものは、いちど自分で現代語訳をしてみるに限るので、試みた次第である。

 



  ※種痘で著名な池田京水にまつわる一件を述べた文である。池田京水は澁江抽齋に種痘法を教授した師なので、鷗外は『澀江抽齋』を書くにあたって京水の来歴を調べた。しかし京水には、父錦橋と父子の間を断って、一介の町医者として身を立て名を上げたという経緯があった。なぜ京水は父の後を継がなかったのか、『澀江抽齋』を連載しているあいだ、鷗外は長くその理由が分らなかったのである。
  以下、はなはだ長くなるが、鷗外漁史の執念なので、大まかにではあるが記す。
  京水池田祐二(のちに杏春を名のる)自身は、錦橋の弟玄俊の子であった。錦橋には男(むすこ)がなかったので、弟から養子を迎えて池田家を継がせるつもりだったのである。
  事情が変わったのは、錦橋が三人目の後妻沢を迎えてからである。錦橋と沢とは年が三十も違っていた。そのため沢は自分よりずっと若い佐々木文仲という者を愛人にするようになった。すでに老衰していた錦橋は、この後妻の行ないに目をふさいでいたのである。この沢の愛人の存在を、鷗外は「家庭の友」という言い方で書いている。
  京水は、養母沢と佐々木文仲との間を知り、やがては沢が佐々木文仲に池田家の跡を継がせたい意向であることを知って、養父錦橋に上書して「自分は病弱で奉公を勤めることができないので、総領を除いてほしい」と、継嗣を辞退した。
  しかし錦橋には文仲を嗣子にする意志が絶対にないことが分ったため、文仲と沢は、以前から文仲の弟子であった村岡晋を錦橋の養嗣子としたところ、今度は錦橋も拒否しなかった。錦橋は佐々木文仲以外であれば、嗣子は誰でもよかったものと見える。
  駿河台の錦橋邸を出た京水は神田明神下で、町医者として開業した。時に京水十六歳、その家は裏店だった。
  翌年、十七歳にして一万権の旗本本庄近江の守の男を診察し、翌十八歳にして福山城主阿部正精の子を診ており、諸侯に見えたのである。正精の侍医は伊澤蘭軒であるが、蘭軒も疱瘡の患者には手を控えたらしい。このように錦橋の池田家を継ぐ実力がなかったものではなく、まさに継ぐべき人材であったと見える。
  上は松本清張『両像・森鷗外』(文藝春秋社 1994年)に見える一篇である。私は常々「アマチュアの情熱」ということを口にしているが、鷗外研究についてはアマチュアというべき松本清張自身が、この本の中で「池田京水のことは、私が読んだ限り、いわゆる文学者の鷗外研究家には言及がなく、三枝博音(さえぐさひろと)の小文「京水を探し求める鷗外」(鷗外全集月報14・昭和二十七年七月)があるくらいなものである」と言っている。さもありなんと思う。

 
 
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