趙子昂※(ちょうすごう)は、名を孟頫(もうふ)といい中国湖州の人である。宋に仕え、眞州の司戸参軍に任ぜられたが、宋が滅びるに及んで至元二十三年(1286年、丙戌)、元に仕え、元の五帝の優遇を得て至治元年(1321年、辛酉)に死んだ。死んだ後には魏国公を追封されている。書を能くし画を善くし、音楽に通じて詩詞に巧みであり、文をつづれば人の心を動かし、政治に当っては実行力に富み、博学多能、聡明敏慧、まことに世にも稀なる人物であった。されば世祖フビライ※のために詔を草せば、フビライをして「まさに朕の心の言わんとするところが書かれている」と嘆賞せしめ、書画をもって名があったので、天竺の僧も千里の道を越えて子昂の書を求めてやって来たのである。史官の楊載(ようさい) ※は「孟頫の多才はその書画の才に隠されている。その書画を知る者はその文章を知らず、その文章を知る者はその経世済民の学を知らない」と孟頫すなわち子昂を称えたが、子昂を知る人はその通りだと頷いた。子昂の才の大いなることは、この一事でも分るだろう。元朝の刑部に至元鈔・中統鈔の事件を論難して屈しなかった一件、奉御徹里(てつり、サリ)を励まして丞相桑哥(そうか、サンガ)を弾劾させた一件※、これらを見ても筆墨詞章のみの人でないことを示している。元の仁宗※は「孟頫は裏表がなく純正である」と評したということであるから、才があっただけでなく、心ざまにも醜いところがなかったのである。また初めて世祖フビライに見(まみ)えたとき、世祖には神采煥発として神仙の世界の人の如く見えたので、世祖はこれを喜んで右丞葉李※(しょうり)の上に坐せしめたというから、風采も非凡で美しかったのである。才、学、識、徳すべて備わり、家系も南宋第二代孝宗の兄である趙伯圭の玄孫である。加えて風采美しく、長寿を得、官位を極め、宋から元に代わる世に在ってさしたる憂き目にも遭わず、死して後も、その断簡零墨も松雪斎子昂の筆よと玉の如く重んぜられ、生前は元の皇帝にも名を以て孟頫と呼ばれず、子昂の字を以て召されたほどの扱いであったから※、これほどの福人は長い中国の歴史にも稀だったのである。
これほどの人物であったが、宋元の二朝に仕えたという由をもって悦ばぬ人が後世にあった。水戸の藤田東湖※は若い時分、子昂の書を学んだが、やや齢たけて子昂の人となりを知るに及んで、子昂の書を学んだことを悦ばなかったという。東湖の若い頃の書ははなはだ子昂に逼っており、その後も趙氏松雪斎のおもかげを留めているように見えるが、その勁(つよ)く群を抜く筆致は、つとめて子昂に似せまいとしているように見える。東湖が、二朝に仕えた不忠の者として、子昂の書を机から降ろしたというのは、東湖の事としては疑わしいと私は考えている。学ばんとしたなら学ぶ他ないし、棄てるべきだと思ったなら棄てるしかない、書は心画である故、机から畳に降して見下したなどということは、東湖はしなかったに違いないのである。
明末清初の時代に、陽曲の人で傅山(ふざん) ※、字を青主と称し、朱衣道人と号する者があった。この人の世の過し方はほぼ子昂と同じであったと言えるが、子昂は宋元の間を、青主は明清の間を生きたのである。青主もまた博学多能の人で、医に通じ画に巧みで、金石篆刻にも精を極めた。もとより書も能くし、大小の篆書隷書以下、精工ならざるものはなかったという。この青主がかつて自らの書を論じていわく「若いころから晋・唐の楷書を学んだが、肖(に)るというには程遠かった。子昂の書いた香山の墨蹟を得た後はその円転流麗なるを愛でたが、しばらくこれを学んでいると、私の書の真が乱れたことに気づいた。これを愧じて思ったのは、たとえば正人君子の道を学ぶ者は、つねに近づき難いことを理解しながら学ぶものだが、匪人と日々遊んでいると、親しくなってゆくことは感じない。すなわち心の真が壊れたのに気づかぬまま、手が随っていたのである。これに気が付いて私は子昂を学ぶのを辞めた」また、顔真卿の書を学んでいわく「書を学ぶについての法というものがあり、それは拙なるも巧なるなかれ、醜なるも媚なるなかれ、支離なるも軽滑なるなかれ、真率なるも按排するなかれ」と。青主の目には、子昂の書が軽薄儇巧の良からぬものに見え、臨書して子昂の風に染まるのは容易なことだが、それは悪友に交わるのが親しみやすいのと同じで、倣いやすいものは真に良いものではない証拠だと考えたのである。朱衣道人すなわち青主の言葉は、理筋が通っていないわけではないが考えが過ぎている。まず子昂の書を匪人に譬えるというのが穏やかでない。それから子昂の書がなぜ学びやすいことがあろうか。松雪斎子昂も、晉唐の書を学んだのである。柔媚というべきところは慥かにあるが、一目見ただけで旁門邪路のものであると決めつけられる書ではない。清の憑鈍吟(ひょうどんぎん)が論じて言うには「松雪斎趙子昂はあらゆる古人の書を学び、貫穿(ひろく学問に通ずる)斟酌(色々な事情を考慮する)して、書における一家をなし、元の当時、まことに独絶の存在であった。清の世になって李禎伯が奴書の論を唱えてより、後世の書を学ぶ者は子昂を手本とすることを恥じるようになり、はじめて書を学ぶにおいても晉唐の古人を手本にすることを恥じ、旧法は地を掃って無くなったのである。松雪斎の書は、まさにその子孫が受継ぐだけのものになった。これを考えても子昂の書を誹るために奴書をもってするとは行き過ぎではないのか。子昂はただ書の立論字形を流美ならしめんと欲し、またその工夫が自分の実力を超えたものだったので、晉唐の古人の書の蕭散(静かでひっそりしたさま)廉断(高潔で独立していること)している所に少しく及ばないのである」と。鈍吟は書法に博邃(学問に博く深く通じている)であるから、これが恐らく公平の言であり、穏当な議といえるだろう。朱衣道人青主が子昂を非難するのは、実のところ子昂が宋元の二朝に仕えたのに対して、顔真卿※が節を大いに重んじた、唐屈指の忠臣だったことを称揚してのことである。青主は明から清への革命の世に遭うも堅苦して清に仕えなかったのである。甲午の年(1714 康煕(こうき)53年)には刑に罰せられんとし、すでに命も無いものとなった後にようやく免れたこともあり、その時は青主も速(すみ)やかに死ぬ方がましだと思ったほどであった。仰いでは天にわが意を視(しめ)し、伏しては地に描き、土穴に居ること二十年、清の世が定まってようやく土穴を出るに及んでも、自らこう述べて歎いたのである。いわく「土穴の中で頑強に踊り曲った我が骨も、経義はとり敢えず後回しとして、書の修練のみに力めた(佔畢※)挙句に朽ちさせた。そうして得た書であるから、私が死んで千年経とうが、決して滅びるものではない」と。これほどの言葉を言い得た人であったので、自分と同じく書画を能くした子の眉(び)にも、日々山に入って薪を採らせたことにも、その厳しい気質の察せられる老先生であった。ゆえに子昂の書を評して、匪人の書であるなどと言ったことも怪しむに足りないのである。旅宿にあっても子の眉に夜通し勉強させ、暁に至って暗誦ができなければ杖で打ったというのであるから、父としてどれほど厳格な人であったことか。さらに王陽脩の『集古録』を評して「私は今にして、この老人が真には書を読まなかった人だと知った」と書いているが、なんと歯に衣着せぬ介直さだろうか。まずはその人となりを知った上で、その言葉の由って出ずる所を思うべきであろう。
子昂趙松雪斎が人に飽き足りず思われる所以は、まったく明清二朝に仕えたからであるが、これも考えようによっては察すべき節がある。子昂が宋に出仕できたのは父である与訔(よぎん)※のお陰であり、宋の滅んだ時、子昂の年齢は二十七、才を世に表し、功ならしめんと欲するのが自然な年頃であった。しかしながら元の代に変ったので、家に在って学問に力める他はなかったので、それ以上は敢えて栄達を求めようとはしなかった。元の朝廷が大々的に江南の人材を求めはじめたのは、至元二十三年(1286年丙戌)のことで、この時子昂は三十四歳、程鉅夫※(ていきょふ)という者に薦められて、元の世祖フビライに見えたのであった。元は武をもって天下を得たため、向後は人材を以て民の生活を安んぜようとしたのであろう、子昂のような明の遺子を招こうとするからには、恩を与え、威(おど)して責めあげ、という手段をとったことは想像に難くない。時勢を顧みずして子昂が元になびいたことを責めるのは、理筋は正しくとも、是非の論としてはやや苛(から)いというものだろう。父祖の国が滅んでのち、ようやく元に仕えて身は栄貴となったといえども、絶えて驕慢の態度はなく、密かに悲しみ悼む情が見える、そのような子昂の人品を思うべきであろう。
子昂の夫人は管氏、名は道昇※(どうしょう)といった。詩を善くし、画を能くした。彼女の描いた竹が呉興の白雀寺の壁に見られると、清人が記しており、清初の銭牧斎(せんぼくさい)の『秋槐集』に、「管夫人の画竹、並びに松雪公(子昂)の修竹の賦を書せるを観て題するの詩」も見られ、また明の鄭長卿(ていちょうけい)の「管夫人の画ける竹石に題するの詩」というものも残っている。思うに管夫人の筆になる画で、今もなお残っているものは少なからずあるのではないか。
子昂はこのような夫人を得ていたので、大官貴人といえば多くの侍妾を持つことが習わしとなっている中国にあっても、第二、第三夫人というものは置かなかったのではないかと思われる。これは子昂の人品が良かったことにもよるだろうが、夫人が夫の心を失わなかったことにもよるだろう。次のようなことが伝えられている。すなわち、子昂が元の代で官位を貴くして翰林学士※になったとき、管夫人も齢四十を過ぎて容色がいささか衰えたに相違ない、さる折に松雪斎子昂も、書斎に居て墨を磨り、紙箋を劈(き)ってくれる美人が居てはどうかと思い、小詞を作って夫人に示したのである。その詞にいわく、
我は学士であり、
爾は夫人である。
聞かぬことも無いであろう、
陶学士※には桃葉・桃根が有ったし、
蘇学士※には朝雲・暮雲が有った。
この私に何人か呉の姫・越の女が有ったとしても、過分だということにはならぬだろう。
爾の齢はすでに四十も過ぎたというのに、
玉堂の春を独り占めするつもりか。
この小詞を見せられたときの管夫人の心は如何ばかりだったことであろうか、私には言葉もない。夫人もまた同じようなる小詞を以て答となしたのであるが、その詞にいわく、
あなたとわたくしと、
二人のあいだに交わされた多くの気持ち。
深い情ゆえに、火のごとく熱いのです。
一塊の泥を把つて、
あなたを捻り、私を塑(つく)る。
それを打破し、水もて調え、
ふたたび一箇のあなたを捻り、私を塑(つく)れば、
わが泥の中にあなたが居り、
あなたの泥の中にわたくしが居る。
あなたとは、生きては一箇の衾を同じうし、
死んでは一箇の棺を同じうしたきもの。
この詞を示された松雪斎は、読み終わると大笑いして、側妾の件は沙汰止みとなった。男女が夫婦となるのは、まことに二つの泥人形を破って、そこからまた夫と妻の人形を造るようなものだ。「わが泥の中にあなたが居り、あなたの泥の中にわたくしが居る」の句には、理、情、懐かしみ、おかしさ、全てがある。また夫婦を土偶に譬え、ふたりの間の執着と、年月の果ての解脱とが綯(な)い混ぜになった気持ちが見える詞には、子昂も笑う他は無かったであろう。そう思うと面白いし、また笑って沙汰止みにした松雪斎の人品も好ましい。ただこの子昂の詞は、いま見られる松雪斎の詩詞集には見つからないのである。
菅夫人は小蒸の人である。蘇州と、嘉興を流れる松江なる河との土壌が交わるところに、小蒸、大蒸という土地がある。いずれも積水の中の土地ゆえに、草樹はさかんに繁り、家々も一かたまりになった村落となっている。古詩にある「水気がたちこめ、雲がただよう如き沢地(氣は蒸す雲夢の澤)」の句から、その名を得たのだという風説もある。子昂の出た湖州もそこからさほど遠くない。子昂は夫人の郷である故をもって小蒸によく通い、その風光の愛すべき故をもって水村の図を描いたと伝えられる。さらには夫人の父のために楼を造り、「管公楼」と名づけたという。このような次第であったから、子昂が仏典を手鈔した際に、管公楼の名の入った朱格子の紙幅を用いたものがあるということである。子昂と管夫人との仲はきわめて篤かったのは先に述べたとおりだが、舞袖(ぶしゅう)という名の妾があったとも伝えられる。明の李竹嬾(りちくらん)は、この侍妾は夫人の没したる後、子昂が自ら置いたものではないかと書いている。されば子昂は管夫人の後は正室を迎えなかったのである。李竹嬾は詩文、書、画、いずれにおいても一家を成した風流の士であった。小蒸・大蒸の地を訪れたさいに昔この地で書かれ・描かれた詩詞や書画をしのび、また水郷の佳景に感じて大小蒸の図を描いたと伝えられる。
子昂の精神の依って立つところは孔子・孟子の儒教であったことは言うまでもない。が、一生をとおして性質温和であったから、儒に依るといえども、敢えて老子も斥けなかった。手ずから『老子道徳経』をあらたまって手鈔したものが遺っているが、小楷の模範として、後人の敬重して臨模する所となっている。また仏教についても忌む所なく、諸々の経と経論を手鈔したことは、先に出た李竹嬾も述べており、三教の弟子趙孟頫と、嘗て作品に署名したものもある。儒老仏の三教を奉じた人には、元の王嚞※(おうてつ、おうきつ)があり、明の林兆恩※があるが、子昂はこれら猛々しく自らの見識を世に誇った者とは異なり、ただその寛厚温敦の人となり故に、老仏の道にも、また賞賛すべき所があると見て、自然に尊信するようになったのであろう。加えてこうしたことから、子昂とは特異にひとり在り、また岸然としてそそり立つ士で無かったことも知られるのである。
管夫人の印に「趙管」と刻したものがある。中国の習いとして、女子は嫁しても夫の姓を名のることがないので、印の文字も管氏、道昇などとしてあったと思われる。しかしながら「趙管」とあるなら趙氏管氏の意味となり、ここには夫人の心情が見えて面白い。ただ、これも故の無いことでは無い。王羲之の書道の師だったことのある衞夫人は、李矩という人の妻であったが、夫の姓を合わせて李衞と称したことがあった。管夫人は学・知識、才・情いずれも備わる人だったので、「魏國夫人」「趙管」などの印を用いたのである。泥像の中に夫を得たのみならず、印文の中にも夫を抱いて離さなかったということである。趙管か、管趙か、子昂夫妻は生きては二つの身に、一箇に綯った魂を担わせ、死しては一蓮の坐をともにしたのである。まことにめでたい夫婦である。