素問を訓む・枳竹鍼房
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

幸田露伴「泥人」簡単な注

 

趙孟頫(ちょうもうふ)1254~1322
中国、元代の書家、画家、儒者。浙江省の人。字は子昂(すごう)、号は松雪道人。元代美術界における復古主義の指導者で、書では王羲之の典型に、画では唐・北宋の画風に立ち返ることを主張実践し、高位高官の文人であったため、その影響力は絶大であった。妻の管道昇(かんどうしょう)〔1262-1319〕も墨竹と書をよくした。

フビライ(Khubilai)
蒙古帝国の第五代皇帝(在位一二六〇‐九四)で元朝の初代皇帝(在位一二七一‐九四)。廟号は世祖。ジンギスカンの孫。大都(北京)を都として国号を元とし、一二七九年、南宋を滅ぼして中国を統一した。金・宋にならって中央集権体制を確立し、一方ではカンボジア・ビルマ(現ミャンマー)などを征し、また日本征服を企てるなど帝国の版図拡大に努めた。漢名忽必烈。クビライ。(一二一五‐九四)

楊載1271~1323
中国、元の文学者。杭州(浙江省臨安県) の人。字、仲弘。母に孝養を尽し、中年まで仕官を志さなかったが、戸部尚書賈国英に推薦されて翰林院編修官となり、『武宗実録』を編集。延祐2 (1315) 年進士に及第、承務郎から寧国路総管府推官にまで進んだ。詩文に名が高く、特に詩では虞集、范ほう (はんほう) 、掲けい斯 (けいけいし) とともに「元詩の四大家」に数えられる。宋詩に反対し、唐詩を典型とすることを主張した。詩集『楊仲弘詩集』八巻がある。

サンガ弾劾事件
経済官僚としての業績は至元27年の減税とサンガ誅殺があげられる。至元27年(1290年)、大都で大地震が発生したときは、経済を牛耳っていた権臣で丞相のサンガ(桑哥)の権勢を恐れた元の官僚たちはこのことについて触れないようにして誤魔化していた。サンガはそれをいいことに被災者に対して過酷な税の取り立てを行い、複数の自殺者が出ていた。世祖は地震の被害に心を痛め、平章政事(宰相代行)のアルグンサリ(阿剌渾撒里)に被害状況を報告させた。集賢直学士の官にあった趙孟頫は、上司のアルグンサリに図り税の取り立てを免除しようとした。サンガは激怒して「陛下のご意思でもないのに減税するとは」といってこれをやめさせようとしたが、趙孟頫はサンガに「税の未納だからといって死んだ人からは取れませんよ。こういう災害の時に減税せずにいつやるというのですか。そもそも税の未納はあなたの不始末が原因でしょう。そうではないのですか!」と言い放ち、遂に減税を断行し、民衆はようやく救われたという。趙孟頫はアルグンサリに「あのサンガは私の国を潰したあの賈似道そっくりの悪人です。私どもが陛下を諌めてサンガを誅しなければ、笑いものになりますよ。私は重職にないので陛下に直接諫言が出来ません。あなたならできる。命をかけて悪人を倒す、これこそ仁者というべきだ。頑張るべきです」と励まし、遂に世祖に諫言させてサンガを誅させたという。この時、世祖から中書政事(宰相代行)を打診されたが固辞している。その後も世祖の側近としてしばしば有益な諫言を行い、世祖から重んじられた。 以後、世祖が崩じた後も四人の皇帝に仕え、集賢院や翰林院の学士となり、大元政府内の長老として重んじられた。

仁宗アユルバルワダ 在位1311年4月- 1320年3月
治世は漢文化と知識人が優遇されたことから漢人編纂の歴史書では高く評価されており、元朝が征服王朝として成熟を示した時代と言われる。

葉李(生没年不明)
宋理宗時為太學生、與同學康棣、朱清等八十三人伏闕上書、揭露賈似道禍國殃民。因此被流放漳州。德祐元年(1275年)、賈似道被貶、葉李遇赦返。朱清迎之於江上、歸隱富春山中。至元十四年(1277年)、行台侍御史程鉅夫奉詔求江南遺逸、授葉李爲奉訓大夫、浙西儒學提擧。至元二十三年、官至御史中丞。至元二十九年、以病告歸、南歸時病歿於山東臨清縣。

※「元の皇帝にも名を以て孟頫と呼ばれず、子昂の字を以て召された」
儒教の世界では、名を以て人を呼ぶことができるのは、親と君主だけであった。

藤田東湖 1806 1855
水戸藩士、水戸学藤田派。父は藤田幽谷。会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として著名であるが、藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。

傅山 1607-1884
中国、明末・清初の書画家。字は青竹、のちに青主。号は嗇廬(しょくろ)、丹崖翁、僑黄老人など。幼少から典籍を精読し、山西省晋陽の三立書院で袁継咸(えんけいかん)の門下生の第一に抜擢された。明の滅亡後、遺民としての節をまげず、道士の身なりをして清朝への反抗の意志を示し、1678年(康煕17)博学鴻詞科に推されたが、病と称して出仕を拒んだ。書ははげしい筆致の草書により胸中の逸気を吐露した。画も山水、墨竹、花卉などを草体で描いた。詩文にすぐれ、著に『霜紅龕集(そうこうがんしゅう)』がある。

※佔畢テンヒツ 經義を解せず、ただ文字のみをうかがい読むこと。
佔 テン みる、うかがふ 畢は簡。書物のこと。
〔朱熹・寄林擇之詩〕勸我從容深默養、將莫佔畢、苦沈埋。
我に從容として深く默養せんことを勸め、まさに佔畢する莫れ、沈埋せんことを苦(いと)ふ莫れと。

趙與訔
趙與訔、字中甫(或作中父)、號菊坡、南宋宗室、湖州烏程人、原籍蘭溪。趙孟頫之父。

※程钜夫(1249年~-1318年)
初名文海、号雪楼、又号远斋。中国元朝政治家、文学家。

管道昇 1262年~1319年
字仲姬、吴兴乌程县(今浙江省湖州市)人。元代著名女书法家、画家、诗词创作家。 南宋景定三年生。幼习书画、笃信佛法。曾手书《金刚经》数十卷、赠名山寺。嫁元代吴兴书画名家赵孟頫为妻、封吴兴郡夫人、世称“管夫人”、延祐四年(1317年)、封魏国夫人。 管道昇所写行楷与赵孟頫颇相似、所书《璇玑图诗》笔法工绝。精于诗。尤擅画墨竹梅兰、晴竹新篁、为其首创。延佑六年(1319年)病逝。存世的《水竹图》等卷、现藏北京故宫博物院。《竹石图》1帧、藏台湾故宫博物院。

翰林学士
中国、唐中期以降、天子に直属した機関翰林院の高官で、詔勅の起草にあたった。玄宗時代に諸般の才芸に秀でる者を集めて宮廷アカデミーともいうべき翰林院を充実し、開元 26 (738) 年これを学士院と伎術院に機能分化した。天子に近侍し、宰相や将軍の任免をはじめ、征戦にかかわる詔命を学士が起草したことから、安史の乱以後権力の一中枢となり、憲宗のときに承旨学士を代表とする制度が確立し、内相と呼ばれるにいたった。宋代以降近世にかけては、翰林院は学芸図書の府となり修史や勅撰事業を司り、有為な官人の修学、栄誉機関の性格が一般的となった。

陶学士 陶谷(902年-970年) 本姓唐、字秀实、邠州新平(今陕西彬州市)人、北宋大臣。
陶谷在后晋时为知制诰。天福九年(944年)、加仓部郎中。后以言忤兖帅安审信坐责授太常少卿、嗣拜中书舍人。契丹主北归、威胁陶谷从行、陶谷逃匿、遂归后汉为给事中。后周时先为右散骑常侍、世宗即位累迁户部侍郎、兵部侍郎。显德六年(959年)、加吏部侍郎。入宋后先转礼部尚书、依前翰林承旨。后加刑部、户部尚书。开宝三年(970年)、陶谷卒。
陶谷强记嗜学、博通经史、善隶书、喜蓄法书名画。精通礼制、主持制定南郊祭天制度。

蘇学士 蘇舜欽 1008-48
中国、北宋の政治家、文学者。字は子美、四川省中江の人。祖父に副宰相の蘇易簡、義父に宰相の杜衍(とえん)をもつ名門の出身。景祐1年(1034)の進士で、気鋭の官僚として活躍したが、政敵のために失脚。以後は蘇州で自適の生活を送った。文学的には王陽脩や梅尭臣らと宋詩の確立に寄与。その詩は性格どおり豪放で暢達だが、梅尭臣ほどの細密な観察はない。晩年の自然詩は平淡で佳作が多い。詩文集『蘇学士文集』十六巻が現存する。

王嚞 おうてつ1113~1170
中国、金の道士。全真教の開祖。咸陽(かんよう)(陝西省)の人。字は允卿(いんけい)。号は重陽子。48歳のとき、改心して道士となり、全真教を樹立し、山東半島に布教した。著『重陽立教十五論』など。

林兆恩 1517-1598
中国、明代末期の代表的三教論者。字は懋勛(ぼうくん)、号は竜江、心隠子、子谷子。福建省甫田の人。王守仁(陽明)の良知心学を修学したのちに、儒・仏・道の三教を心学に折衷して三教合一を主張した。世に三教先生と称された。倭寇が甫田を攻略した際に積屍を埋葬するなどの社会活動とともに、〈三教先生の心学〉を講説し、艮背(ごんぱい)心法(主体性の確立)を施行して貴賤老若各層の信奉者を得た。日本では江戸初期の学術界で熱烈に受容された。




 
 
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