【論旨】
おおまかに経脈の流れを論ずる。霊枢・経脈篇として決定される前段階の論ではないか。
《一》
「血中無氣則不周、其氣者即陽氣。陽氣者自穀氣生。故」の文字は四部備要本(台湾本)、四部叢刊本にはないが、澁江抽齋は「霊枢講義」に引いている。異なるテキストを見ていたということだが、「血中に気がなければ、血も巡らない」という提起は重要である。血はたんに栄養素や酸素を溶かして運搬する液体ではなく、そこに気=生命力が宿っているからこそ、生命を生かす働きをするのだ、という提要を示しており、大きな意義がある。
実際に血管にも気が通っており、それ自体が拍動しながら血液をさきへ押しだしているし、神経も圧迫がなくなれば拍動するようになる。この事実は、身体の各器官が、それぞれに生命を宿しており、その生命力によって身体を生かしているという事実を示している。血液も、血管も、神経も、単なる液体、管、繊維ではないのである。
私は「気が導かなければ、血も通ってこない」という言葉を誰から聞いたのか、どこで読んだのか忘れてしまっていたが、霊枢に書かれてある言葉と知って、おおいに感銘した。
《二》
畜門が何を指すのか、各注釈家のあいだで諸説紛々であるが、張介賓が「口蓋の上部にある、鼻腔へつながる孔のことだ」と述べており、ここに決着がついたと見るべきだろう。その論拠として張介賓は、素問・評熱病の啓玄子=王冰の注「氣衝突於蓄門、而出於鼻」を引いており、正鵠を得ている。
「此營氣之所行也、逆順之常也」の「逆順」は、順の義だけをとるべきであり、いわゆる複詞扁義の修辞である。張志聡の注は当たらない。
※複詞扁義とは「一旦、緩急あれば、生死を決す」が、本来は「一旦、急あれば死を決す」であるように、語意を強めるために、反対語を付して作文する修辞法をいう。
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