【論旨】
《一》
部屋から出ないのに、卒然として病にかかるのは、必ずしも「賊風の邪気」から離れていないからではない。その理由として、以前に身体の内に入った「故邪」というものを想定している。
それは、①嘗て湿気に傷られ、それが血脈の中あるいは分肉の間に留まっている、②堕墜する所があり悪血が身体の内にある、という二つの「故邪」である。
この「故邪」に加えて、風に遭って寒えるときには寒痺をなす、ということになる。また「故邪」があるところに、熱が出て発汗した場合は冷えて、風に入られるということになる。このように元よりある「故邪」に加わって病が発するという「因(=原因)」がある。
《二》
賊風の邪気に遭わなくとも、びくびくとして暮らしていれば病にかかることもあるが、それは鬼神の為すところだろうか、というのが第二段。岐伯の答は「故邪」があるまま、それが発症していない場合、悪感情を抱いたり、夢の中で拘泥するものがあるようになる。そうすると血気は乱れることになるので、病は勢いを持って来る(從って來る)ようになる。これは見えも聞こえもしないので、鬼神に似ているが、鬼神ではなく普通の病である。人は祈る(祝)くらいの事しかできないということになるが、巫人というものは一般人よりも病の恐ろしさについては知っているので、もっぱら祈るだけということになる。
【考察】
「賊風の邪気」とは赤痢やコレラ、ペストといった、恐ろしい疫病のことを言うのだろう。したがって「祈るしかない」というような事態になるのだろうが、甚だ医論らしくない論旨である。医療としての手立てを論じてないのだから、霊枢に入れるべきでないということになる。そのため、第五十八というように後の方に、付け足しのように入れてあるのだろう。
なお、前もって湿気に侵される、瘀血が体内にある、という「故邪」の考え方だが、これは森立之も、脚気の故邪として湿邪を想定するなどしていて、古来からある考え方のようである(『蘭軒醫談』)。
○「不出室穴之中」の「穴」は「内」の誤りだと楊上善は注釈しており、尤もなところ。これに対して張介賓が「古人は多く穴居しており賊風の邪気から離れているのに、病にかかるとは何故なのか」と疑義を呈している。これに澁江抽齋は「張氏穴居の説、尤も曲解に屬せり」と怒りを露わにしている。当然、張介賓は太素に目を通していたはずなので、抽齋の言い分は正しいが、それにしてもこの態度は抽齋にしては珍しい。
○「非不離賊風邪気」は楊上善の言うように、「非不」は「非必(かならずしも~ない)」でなくては論旨が通らない。また、「先巫者、因知百病之勝」の「因」は「固(もとより)」の方が意が通じやすい。両者ともに校勘を要する箇所で、似た字の過りである。楊氏の注釈は的を得たものが多いと実感する。 |