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森立之小伝
 
 
 
 

〈 森立之小伝  三  青年時代 〉

 

伊澤蘭軒(いさわらんけん)に入門した当時、澀江抽齋は十九歳、立之は十七歳でした。立之は蘭軒に就いて学んだことを、明治になってから「蘭軒醫談」(らんけんいだん)一巻として上梓していますが、その序文に「幼時蘭軒先生に侍して筆せし所の醫談、若干條を得たり。遂に録して冊子を成す」(本文は漢文)とあります。ここにある「幼時」とは、半人前にもなっていないという意味なのでしょう。師について必死で治療を学んだ姿が目に浮びます。

時は文化・文政の時代(十九世紀はじめ)で、江戸の文化も二度目の最盛期を迎えます。蘭軒はこのころ、盛んに人から医書を借りて浄書したり、上梓したりしています。江戸の文化・文政期は、書物の出版がさかんになった時でもありました。医書を出版するにあたっては、まず内容の正しい本を選ばなくてはなりません。当時の医書は、ほとんどが中国から輸入されたもので、中国で書物の木版印刷が本格的にはじまったのは、貨幣経済が活発になった宋代からです(十世紀中ごろ~)。

中国では、たしかに書物の出版も行なわれましたが、歴史をこえて伝えるべき書物が、世の中から絶えて無くなるということも多々ありました。そうして書物がまったく途絶えてしまったかといえば、一部が別の本のなかに抜き書きされていたり、別の作者が自分の文として書いたりしていることが往々にありました。

漢籍にはそういう事情があるので、江戸時代に中国の医書を出版しようとした蘭軒も、まずは正確なテキストを探しました。混交玉石の医書のなかで、どれが正しいテキストか見分けるには、まずは中国の医書全般について知っていなければなりません。できることなら、中国の書物全体について知っていたほうが、さらに正確な出版ができます。医書にある記述が、史書(歴史)や兵書(兵学)、子書(孟子・荘子など哲学)を元にしているという場合が、往々にしてあるからです。

幼時から四書五経の本文だけでなく、注釈まで頭の中に入っていれば、ある一文が正しいか、間違っているか、本来はどの書物の文なのかすぐに分ります。そうしたテキストの同定を行なうことを「校勘(こうかん)」「考証(こうしょう)」といいます。江戸の文化・文政期は、書物の出版にうながされて、校勘学、考証学がさかんになった時期でもありました。そしてこの学問は、日本では医家が中心になって行ないました。

当時の蘭軒は、京都に行くという知人に種々の本を買ってきてくれるよう頼んでいます。平安時代に日本ではじめて書かれた総合医書である「医心方」、中国唐代の医書「千金方」「千金翼方」を借りて抄写しています。また「古文孝経」(成立不詳)は、版木を彫って上梓しています。師にうながされるように、立之は入門の翌年、十八歳で「太平御覧」(宋代の総合全書)から「神農本草經」の本文を抄出しています。この仕事をもとに、立之は三十年後にふたたび「神農本草經」を復元します。

努力の甲斐あって、二十の歳には将来、蘭軒の娘・長(なが)の婿になる、幕臣与力の井戸翁助に招かれ、蘭軒にしたがって花見の末席に連なっています。二十二歳の年には、上野での詩会で立之の詩がとりあげられました。師の出席する詩会で、彼の賦した詩が取り上げられたのですから、いよいよ頭角を現してきたのです。抽齋、立之をはじめとして、清川玄道、岡西玄亭、山田椿庭を加えた五人は「蘭門五哲」と称されました。

この詩会の翌年、立之二十三歳のとき蘭軒は亡くなりました。当時、江戸で流行した熱性の流行病に罹患したものと思われ、この時は蘭軒の一家全員がかっています。蘭軒の妻、次男とともに、蘭軒自身も五十三歳で没しました。

〈伊澤蘭軒肖像 藤浪剛一『医家先哲肖像集』所載、WebサイトWikipediaより〉
蘭軒は三十七歳のころから足痛がひどくなり、この二年後にはまったく立つことができなくなっていました。家の中で移動の際は、座布団に乗って、侍人に運ばせていました。

 

 
伊澤蘭軒
 
 
 
 
 
 
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