〈 森立之小伝 五 失 禄 〉 |
森立之の座右の銘は「醫は學たるべし」、医家は治療はもちろんだが、学者でもあるべきだ、というものでした。当時の学者の研究する学問とは儒教のことですが、ここでは漢学全般を指しているようです。たいへん結構な態度ですが、立之の生涯は、こんな一言だけにおさまるだけのきれい事ではありませんでした。 さきに先生筋にたいする借金で、親友の抽齋をすら忍従せしめたことを書きました。しかし、街中で立之の姿を見かけると「ヨッ、成田屋」と声をかける者があります。すると立止まって、見得を切って見せたたといいます。これは江戸から夜逃げして、大磯に逗留していた頃のことで、たまに江戸に遊びにきていたのです。立之はほとんど反省していないもののようです。 なぜ街中からこんな声がかかるかと言えば、立之が縮緬のきものを着て海老鞘の脇刺を 江戸を出るころ三十一歳の立之は、すでに本草学において少々名がありました。同時に津軽藩の御蔵元として、藩の地元から送られてくる米の差配をあずかる津軽屋の主である狩谷棭斎のもとに出入りして学んでもいました。棭斎自身は町人でしたが、本草については「神農本草經」を復元している一端の学者です。また金石文、古銭についても造詣がふかく、三度、四度と関西に足をはこんで、各地の碑文、社寺や医家の蔵している古書籍を調査している学者でした。 そうは言っても大磯に落着くまでは大変だったようで、嚢中たった八百文しかありませんでしたから、祖母、母、妻、息子の四人を連れて箱根湯本の宿に着いたときには無一文でした。宿では上下(かみしも、上半身と下半身)十六文の銭をとって按摩までしたとあります。大磯に着いてからも「内外二科、あるいは収生をなし、あるいは整骨をなす。牛馬鶏狗の疾にいたるまで、来て治を乞う者には、術を施さざるはなし」と、手当たり次第に何でもしました。収生は産婆の仕事です。ともかくも、医業は立之の身をたすけました。 この翌年、立之三十二歳のとき浦賀で祖母を喪くしています。さきに書いたように立之はときどき伊澤榛軒や抽齋をたよって江戸に来ています。祖母亡きあとも、立之は遺骨を葬るため、遺骨とともに江戸に来ました。榛軒はいくばくかを贈って葬儀の資としましたが、立之はほかに用立ててしまい、また遺骨を抱いて浦賀に帰ってしまいました。こんなことが両三度に及んだので、榛軒はみずから金を懐にして、立之とともに目白の洞雲寺に行き、遺骨を寺に葬っています。この縁があって、この寺に立之の墓もあります。洞雲寺は、いまは目白から池袋に移り、森立之の墓石もここにあります。 〈 森鷗外の「伊澤蘭軒」には、「棭斎は一箇の大漢で便々たる腹を有していたらしい。また美丈夫でもあった」という記述があって、棭斎の風貌だけでなくその人と為りもよく表していると感じられる 〉 |