さて森立之(1807~1885)の残した著書は、立之の一生と同じように、さまざまな転変を経て現在に甦りました。前にも述べましたが、古典中国医学の柱は湯液(漢方薬)と鍼灸です。湯液の経典は「傷寒論」と「神農本草経」であり、鍼灸の経典は「素問」と「霊枢」です。この四書いずれについても、立之は注釈書を残しています。
日本の医療は明治維新後、西洋医学ひとつに限られました。その中で湯液の復権をめざす医師たちもありましたが、維新のおおきな波に呑み込まれました。鍼灸については、ほとんどなす術なく消えなんとしています。これには別の理由もあって、それは日本の鍼灸家たちが「素問」「霊枢」よりも、「難経」を頼りにしたという事情があります。
「難経(なんぎょう)」は、「素問」と「霊枢」の難解な部分を解説した医書ということになっていますが、江戸期以来、日本の治療家たちは「素問」「霊枢」よりもややエキセントリックな「難経」に親しみを感じたらしく、こちらを治療の指針としました。「素問」「霊枢」は、それぞれ「黄帝内経(こうていだいけい)」を冠して呼ばれることがあるので、こちらを内経医学と呼ぶこともありますが、「難経」は黄帝内経には含まれません。
湯液の治療家も鍼灸の治療家も、古経から勉強するさいには、「傷寒論」と内経医学の双方を勉強することになります。とは言っても、研究にかんしては湯液の治療家のほうが熱心なようです。ちなみに森鷗外の父・綱淨の当時、津和野藩の医官は、上下をあげて内經を奉じていたといいます。しかし綱淨だけは、傷寒論をもって立論の根拠としており、その理由は「同僚の学風の実際に切実ならざる」ことだったと言いますから、臨床の実際のうえでは、やはり湯液を用いるほうが効果的だったということでしょう。これは維新後、こんどは鷗外自身が父の湯液ではなく、ドイツ医学を志した合理性と符合して興味深いところです。
さて、明治以来すっかり忘却されかかっていた「傷寒論」「素問」「霊枢」でしたが、第二次世界大戦まえに矢数有道(やかずゆうどう)が、「素問」が軽視される傾向に警鐘をならして、「素問」にかんする多くの論説を発表しました。戦後には丸山昌朗(1917-1975)が昭和四十年に自著の「校勘和訓 黄帝素問」をテキストとして、月一回の「素問」講義を開きました。これは明治以降、百年ぶりの「素問」の講義でした。
このとき医史学者の石原明が丸山昌朗に、江戸末期に森立之というすぐれた内経研究家がいたということを伝えていました。丸山は、大塚敬節所蔵の森枳園著「内經要字苑」(立之が作った素問・霊枢中の重要語の索引)を復刻して、立之の業績の一端を世に示しましたが、「素問攷注」を見るまでには至りませんでした。
昭和五十九年(1984)、丸山昌朗の流れにある井上雅文、岡田明三、嶋田隆司、左合昌美らが、原塾を結成して井上が「霊枢」を、島田が「素問」を毎週講義することになった際、島田隆司がはじめて井上雅文の所持していたコピー本の「素問攷注」に出会っています。(学苑出版「素問攷注」嶋田隆司序)
一方、医史学者の小曽戸洋は、昭和五十三年より、国立国会図書館に出かけて古医書を複写するようになったといいます。当初は山田業廣(椿庭)の著書に興味があったそうですが、しだいに立之の著書に心を奪われるようになったとあります(学苑出版「素問攷注」小曽戸洋序)。
この序文には、つづけてこうあります。〈私は森先生の菩提寺である池袋の洞雲寺に墓参を重ね、故玉川泰峉住職、矢数道明先生、大塚恭男先生ほかの御支援のもとに、昭和六十年十二月八日に同寺で森枳園百年忌祭を挙行した。私は『森枳園の遺業』と題して講演し、『素問攷注』『本草経攷注』『傷寒論攷注』の偉大さを力説したが、期待したほどの反応はなかった〉この序文の全文を読むと、いかに小曽戸氏が森立之を賛嘆したかが分りますが、斯界はまだまだ立之に冷淡でした。完結した世界というものは、小さいからこそ簡単に完結したのです。そこにはどんなに明るい光がさしても、その明るさを見ずに新しいという点だけを見て、これも簡単に拒絶するもののようです。
さて、もう一つ謎のまま残されたのは「霊枢攷注」です。維新後、安田財閥を興した二代目・安田善次郎は松廼舎文庫(まつのやぶんこ)を設立して、おおくの書籍を収蔵しました。立之の自筆稿本の多くも、この松廼舎文庫に収められていたといいます。この文庫(のち安田文庫)は、第二次世界大戦の戦火により、惜しくもすべて失われました。立之の「霊枢攷注」も、このとき焼かれてしまったのではないかと思われます。晩年の立之には、青山道醇(どうじゅん)という弟子もいましたが、こうした門人が、許されて「霊枢攷注」を筆写していなかったか、私は儚い望みを抱いているのですが。
「森立之小伝」畢
次回、参考とした資料の一覧を掲載します。
〈 森立之の墓 池袋洞雲寺 表には「枳園森立之壽藏碑」と刻んであるが、墓石である。裏には自撰の文字があり「(事を実(じつ)にし[究明し:考証派の場合には客観的に究明するというニュアンスが含まれる]、是なる[正しき]を求めて發明頗る多し。又、山に入りては藥を採り、渓を下りては魚を釣り云々」とあり、本草学に最も傾注したことが窺われる ) |