〈 森立之小伝 十二 明 治 〉 |
明治の世になって、抽齋の子・保は弘前で、伊澤家の棠軒は福山で、それぞれ激動の波に洗われました。棠軒が波に揉まれれば、おなじように立之もその渦中に投げこまれました。まず東京にいる阿部公のご隠居の容体が悪くなり、立之は汽船で向かいました。その後、棠軒が呼ばれ立之と交替します。この時、東京で顔を合わせた二人は、恩師である狩谷氏をおとずれています。明治二年のことでした。 狩谷家の人々も、戊辰戦争のさなかに津軽家・本所横川邸に移っていました。この時には古物商・津軽屋の狩谷家も、立之の学んだ、便々たる腹の持ち主であった望之から懐之に当主がかわり、さらに養子として矩之(くし)を迎えたところでした。立之六十四歳、棠軒三十六歳、矩之は二十七歳です。 明治三年十二月、伊澤家はとうとう阿部公より免職を仰せつけられます。公の家内も逼迫して、医師三人を抱える余裕がなくなったのです。これより先、棠軒は家を建てていますが、金百六十六両、利息月一分二厘をつけて借りるにあたって、立之が証人になっています。数々の借金をふみ倒した往時をふりかえれば考えられぬことですが、兎にも角にも借金に連名しました。 明治四年には、別の不幸が立之をおそいました。子の約之が熟(な)れ鮓にあたって食中毒で死んだのです。棠軒が悔みを述べにおとずれ、翌月には平野氏より亀三郎十六歳を、森家の養子に配する手配をととのえました。約之には妻・陽(よう)がおり、娘・鑛(こう、十三歳)、柳(りゅう、十一歳)がいましたが、亀三郎は鑛の夫としてやって来ることになりました。この年九月には福山を知事していた阿部正桓が知事を辞め、東京に移ることとなりました。こんどは、棠軒が殿様を送る番です。 同じく四年十一月、約之につづいて妻の勝が六十歳で病死しました。ほとほと嫌気がさしたのか、明くる明治五年二月桜の季節に、立之は亀三郎と鑛、柳を福山にのこし、諸国漫遊の旅に出るといって、福山を去りました。そのまま立之は五月になって東京に着きますが、御茶ノ水に居をきめて文部省に職をえました。この御茶ノ水の家で、立之は澀江保に再会しています。 立之の借りた家は、店づくりで、店の部分の後ろに居間、そのうしろに厨があるだけ。立之は店の畳に文机をおいて本を読んでいたといいます。保はその姿を見て、「まるで売卜者のようですね」と笑ったといいます。保はこの前年、十五歳で母の五百を弘前にのこして上京しました。津軽にいても医師は士分ではないとして、碌なあつかいを受けなかったからでした。藩知事からの給付も少なかったのですが、この武士と認められなかったことは保を傷つけました。なんとしても東京にでて、この悔しさを雪がねばならない決心でした。 明治四年四月に上京した保は、とりあえずは本所二ツ目の弘前藩邸におちつきました。そして漢学を海保漁村の嗣子、竹逕に学びはじめます。また共立学舎で英語の勉強もはじめました。竹逕のもとには、維新後に困窮した多紀茝庭の嗣子、多紀安琢(あんたく)が世話になっていました。保は竹逕に經学の講義をうけても、安琢に素問を伝授してもらおうとは思わなかったと回顧しています。 明治五年には、師範学校に合格しました。師範学校に学ぶものは、月に十円の給付が得られるからでしたが、これをもとに母・五百を東京に迎えるつもりでした。御茶ノ水で立之に再会したのは、この頃です。金の数えかたは両から円にかわりましたが、価値は変っていません。立之の給金は月四十五円(両)、棠軒の新築費は百六十六両(円)、保が本所横網町の二階を借りるのに月二両払っていますから、当時の物価の水準がこれで分ります。鷗外はこのように、かかりの費用いくらと、事こまかに記しています。これは鷗外自身が、金のことに苦心したからではないかと私は思います。 |