〈 森立之小伝 十一 維 新 〉 |
森鷗外の「澀江抽齋」「伊澤蘭軒」は江戸期の考証医家の栄光の物語であると同時に、漢方医家が明治になって、どんな辛酸をなめたかという歴史でもあります。澀江抽齋は江戸で生れて江戸で育った津軽藩士で、その子・保もはじめて弘前にやつてきました。東北、北海道へは幕府方の藩を掃討するために、官軍がおし寄せています。そんな中で、保は弘前城に近習小姓の職があるので、毎日登城することになりました。 伊澤家の当主は榛軒が病没した後、将軍の目見得医の職は弟の柏軒が継ぎました。これより前、当主の榛軒は娘の柏(かえ)に田中良安を迎えました。医学館の多紀茝庭の斡旋であり、婿はのち棠軒(とうけん)と名のりました。幕末の戊辰戦争のさなかに棠軒は福山で阿部公にしたがい、京都にむかった将軍には柏軒が追従しました。しかしこの京都で柏軒は病死し、葬られます。五十四歳でした。 榛軒のあとを襲った棠軒は、他家から入った人間であるにもかかわらず、伊澤家と阿部公のために獅子奮迅の活躍をしています。維新の前年、阿部公(当時、正方)が没すると福山から江戸へ急行し、その四日後にはまた福山にむかっています。もっともこの頃は、すでに蒸気船の旅でした。福山では、妻子を百姓のもとにあずけ、福山城を攻める長州兵に応戦しています。この後、家を城下から村方へうつし、阿部公が津軽藩応援のために出兵するにおよんで、これに従い函館に上陸しました。慶応四年は改元して明治元年にかわりました。 年があけて明治二年、福山の兵は函館から青森にしりぞき、ここで棠軒は五百に会って久闊を叙しています。また青森大病院で罪人の解体があり、棠軒の門人ふたりが赴いています。 これは鷗外の「伊澤蘭軒」に引かれた、棠軒の「從軍日記」によるものですが、このように見ると、敗戦というものがどういうものかよく分かります。また敗戦であっても、藩主や大殿様が、将はもちろんのこと兵卒にいたるまで、くりかえし労をねぎらってくれたことが分かり、心が痛みます。田舎に転居した棠軒の家には森立之、約之をはじめとして藩医師の面々が、無事の生還を祝いにきています。皆川元民、成田玄昌、岡西養玄の名があり、皆々伊澤の門人で、読んでいる私たちの胸も熱くなる場面です。 立之と約之は福山へ移って間もなく、誠之館という福山城下の学館で教鞭をとるようになっていました。「父は誠之館で人に教えるようになって、はじめて他人の間に揉まれて、我儘な性格も、やや和らいだ」と、これは約之の娘である鐄の言葉です。こんな些細なことにも、少なからずホッとさせられます。 〈 戊辰戦争のさいごの戦いとなった箱館戦争 〉 |