〈 森立之小伝 四 婚嫁 〉 |
伊澤蘭軒(いさわらんけん)の没後、伊澤家を継いだのは長男の榛軒(しんけん)です。榛軒二十六歳、立之二十三歳でした。蘭軒には当然のことながら師に対する礼をもって接しましたが、榛軒には知友のごとく接したということです。蘭軒の弟子は、多くがそのまま榛軒の弟子として残り、これまで「若先生」と呼んでいましたが、これを境に「先生」と呼ぶようになりました。このあたりは現代と同じです。 榛軒の代になって、伊澤の看板はさらにおおきくなりました。代替わりの翌年には、城主・阿部正寧にしたがって福山に赴いています。江戸の留守は弟の柏軒(はくけん)があずかりました。こうした折には、抽齋や立之が中心になって「傷寒論(しょうかんろん)」の輪講を行なっています。傷寒論は後漢の代にまとめられた、もっとも古くまた現在でも活用されている、漢方の治療理論書・処方書です。漢方薬は煎じてつくる薬なので「湯液(とうえき)」とも呼ばれ、この湯液と鍼灸が中国医学の二大柱です。 傷寒論の輪講は、おそらく回ごとに取り上げる項を決めておき、担当者がそれを講ずる。ほかの者は、その読みは違う、その解釈はこうすべきだと、侃々諤々の集講だったと思われます。十名の参加者があり、師匠がいないわけですから、ずいぶん盛り上ったことでしょう。また当時、随一の楽しみは芝居(歌舞伎)見物でした。武士はおおっぴらには見に行けませんでしたから、身を小さくして行ったようです。 榛軒は、芝居好きの立之のために、わざわざ「三升(七世市川団十郎)の評判よきことを養竹(森立之の号)に伝えよ」と弟の柏軒に、手紙で知らせています。これを機会に、柏軒は門人たちを連れて芝居見物に行っています。「木挽町の芝居見物、三升の暫(しばらく)なり」とあります。同行したものに、澀江抽齋夫妻、小野富穀などの門人の名があります。柏軒二十一歳、抽齋二十六歳、立之二十四歳でした。 この後、立之は二十七歳で佐々木勝(かつ)と結婚しています。神田の鼈甲屋金兵衛の姉でした(二十三歳)。立之は勝とのあいだに約之(のりゆき)という男子を設けています。約之はひとり児だったため、立之夫婦に舐めるように可愛がって育てられ、そのために性格は非常に我儘・頑固で癇癪持ちでした。幕末の戊辰戦争、上野の戦いの最中にも、母を無理に使いに出すようなことまでしたということです。抽齋はすでに、柏軒との芝居見物に連れていった二番目の妻・威能(いの)を病気で亡くして、三番目の妻・徳を娶っています。 森立之は、この後まもなく、君主・阿部正弘の不興をかって江戸を去るのです。直接、君主の機嫌をそこねたわけではありませんが、知友に借りた金を返さない、本を返さないなどなど、常々知己の恨みをかっていたのです。加えて非常な芝居好きで、おおっぴらに芝居小屋に出入りするのみならず、街中でも役者の声色をつかうなどして道化た真似をします。これはつとに有名な奇癖でした。その挙句に、とうとう化粧して舞台にまで上がっているところを人に気づかれ、この話は藩の目付け役にまで伝わりました。天保八年(1837)、森立之三十一歳、万事は窮しました。 十九歳の若い君主阿部正弘は、不浄不徳の家来を許しませんでした。立之は阿部家の禄をうしない、永の暇となったのです。この際に頼れるのは抽齋だけですが、実は抽齋の先生筋にまで、立之は意外な大金を借りており、抽齋はこれも弁償していました。 < 「万安方」識語 森立之七十三歳の筆跡 ・・・立之は若いころより右肩上がりの、癖のつよい筆であった。 北京大学図書館所蔵 > |