森鷗外は「澀江抽齋」を書いた端緒について、抽齋という人物について武鑑(各藩ごとの武士についての簡便な記載のある一覧書)で丹念に調べたことだと明かしていますが、抽齋没後の遺族についても仔細に調査しています。それに倣うわけではありませんが、ここでも立之の遺族について記しておこうと思います。
立之の息子・約之(のりゆき)は明治四年、立之が六十五歳のときに食中毒で亡くなりました。福山にて、享年三十七歳でしたが、娘に鐄(こう)、柳(りゅう) の二人がありました。立之も、約之の遺した娘だったので、とくに鐄は森家の後継ぎと見て、養子を迎えています。約之が亡くなったのは福山での話だったので、すぐに立之の先生筋である伊澤棠軒が、平野杉右衛門のもとへ行き、その息子の亀三郎(のち知之)を、立之の養子にする媒酌の手はずを調えました。ときに鐄十三歳、亀三郎十六歳です。二人はその後、東京にも出て立之のもとで暮らし、亀三郎知之は、西洋医学を教える高松凌雲の塾に入り、立之の弟子林玄冲にも学びました。しかし後には離縁となり、後年大阪で開業したということです。
このお鐄さんには、その後二度目の養子として、今村了庵の弟子・新井清次郎が入りましたが、これも四年後の明治十八年に離縁されました。森鷗外が抽齋伝に記しているところによれば、お鐄さんは女流画家で、浅草長住町の上田政次郎さんという人のもとに現存しているとありますが、川瀬一馬がお鐄さんに会ったのは、鷗外よりも後のことです。
その妹のお柳さんは明治十四年、向島の中田邦行(立之の弟子、明治二十二年沒)に嫁しましたが、若くして寡となったので、明治二十七年宮崎清太郎と再婚しました。清太郎は如藻と号する象牙彫師でしたが明治四十三年に没し、お柳さんも大正十二年に沒しました。鷗外は宮崎清太郎が没した後のことを、未亡人となって、浅草聖天横町の基督教会堂のコンシェルジュになっている、と記しています。
約之の妻・陽(よう)は仙台藩士大槻盤渓の娘でした。かつて盤渓が上京した際には立之に会っており、立之は「」という詩を遺すほど、深い尊崇の念を抱いていたようです。盤渓の息子・修二と文彦はともに学問に勤しむ兄弟であり、とくに文彦がのちに著わす「言海」という辞書はひじょうに有名です。しかし次女の陽だけには、なぜか学問も教養も備わらなかったようです。夫の約之は男尊女卑の風が極端だったので、その意味から妻を虐待しましたが、立之の妻・勝は姑の立場から、陽を悪く取り扱ったので、明治四年に約之と勝が相次いで亡くなると、娘の鐄に約之の面影があるというので、鐄につらくあたるようになりました。さらにこの人は元来大酒を好み、夫の約之や姑の勝が存命中は酒をひかえていましたが、この二人が亡くなると一度に酒量が増えました。また、立之が陽の実家である大槻家に立身上世話になったこともあり、陽にいささかの敬意を表したためか、とうとう本性を露わにしはじめたのです。
明治六年に上京して立之のもとに住むようになってからは、立之が婢をそばに置いたこともあって、一層憂さをはらすために痛飲しました。飲めば乱れ、暴れて物を投げつけるまでになるので、家のものは針までも隠しました。
陽はきわめて気が小さく、所詮は内弁慶だったのです。加えて自分が芸事も学問も途中でやめてしまったことを気に病んでいたので、立之が鐄を愛して自ら講書をはじめると、そばで騒ぎ出してそれを中止させてしまうような女性でした。
その夫である約之という人は、生来きわめて吝嗇家で、母親の勝が信心するのを見て、その供物が不経済だといって怒る。自身も倹約家という以上の吝嗇家で、一本の手拭も三年にわたって使うほどだったので、死後は使い古しの手拭が棚に一杯あったほどでした。父とともに福山に移り、誠之館で人に教えるようになって、はじめて他人の間に揉まれて、我儘な性格も和らいだことは、先にも書きましたが、福山移ってからのお鐄さんの記憶では、父子のあいだでも常にいさかいが絶えず、また母子の間もいつもぎすぎすしていました。維新のためにすべてを失い、ゆかりだけを便りに縁もない福山にやってきたのですから、家族全員の胸中は察するべきです。
しかしそれでも、夜になって暇があれば、両口行燈のあちらとこちらで、父子机を相い対して研究に打ち込んでいたということですから、このような学者父子の姿には、私たちの胸も熱くなります。そしてこの二人の姿こそ、後に川瀬一馬が高く評価した、「先人の手寫本に一々注記をほどこしていた」(同十七) 姿ではなかったかと思われます。この机を相い対する二人の姿と、古本屋で本を漁る二人の姿は、抽齋の妻であった五百(いお)さんも江戸で見ており、その子の保が「森枳園伝」に記しています。
立之の終焉後、陽さんの実家である大槻家の修二・文彦兄弟が、大きな金額を払って遺された書物をすべて引取りました。軟硬両方面にわたり、すこぶる多岐な内容を含む蔵書で、二台の車に満載される量がありました。
実のところ、澁江抽齋が死んだとき、狩谷棭斎が死んだとき、立之・約之の親子が駆けつけて、この時はずいぶん安い金額でその蔵書を持ち去った経緯があります。川瀬一馬によれば、抽齋の死の三か月後には、立之は約之に抽齋の蔵書を編目させ、合計一千三百七十六部の中、最善本に類するもの約六百部を抜取ったといいます。それは当たり前の約束の下に行なわれたものなのか、「抜取り」の語を使っている点から考えても、澁江家にとっては有利な購求ではなかったのではないか、というのが川瀬の推測です。
また狩谷家の蔵書については、抽齋を通じた間接のものもあるが、明治になってからも、縷々狩谷家を訪れて貸出を請うたというので、立之自らが狩谷家へ出入して手に納めたものも少なくなかったはずだと、これも川瀬は推測しています。
川瀬が推測を逞しくしているもう一箇は、福山の問津館から立之に流れた蔵書です。問津館の蔵書は澁江旧蔵のものが少くなかったので、立之が問津館へ納れておいた澁江本がふたたび立之の手に移ったものか、あるいは自家にあった澁江本を一時的に館に買取ってもらっていたものだろうという推測です。
ただ川瀬一馬には、こうした立之による書物の「抜取り」や「移動」(いずれも芳しからぬ表現ですが)を、評価している一面もあります。いわく、もし狩谷、澁江などの善本に立之の手が及ばなかったなら、明治維新の変動を経たのちは、あるいは紙魚の棲みかとなり、あるいは衾の下張りになっていたかもしれない。立之の手を経て今日に残たものが多いことを思えば、その湮滅を救った彼の功は認むべきである。というのですが、書誌学者らしい川瀬一馬の評価ではないでしょうか。
また、このような評価も下しています。いわく、立之父子はきわめて丹念に先人の手寫本に一々注記をほどこして後人のために遺すという意図を持っていたので、これによってはじめて、今日種々な事實を明らかに知ることができるものが少なくない、という評価です。これも我々には思い至らない、書誌学者ならではの評価だと思うのです。
立之の後半生の蔵書はすこぶる豊富であった。その最盛時は、恐らく明治の初め、福山から上京した頃ではなかったか、というのが川瀬一馬の、これも推測です。「森氏開萬冊府之記」というのが、立之の当時の蔵書印でしたが、惜しむらくは、その蔵書目録は大略のものしか残されていないと、川瀬は嘆いているのです。 |